暑苦しい真っ黒の学生服から解放されて直ぐの頃、一足早く都心に出ていた伸に少しばかり世話になったことのある当麻は、数年を経た今でも伸との付き合いを細々と続けている。続けるといっても自ら率先してのことではない。借りならとっくの昔に返した筈であるが、存外人使いの荒い伸は、適役適任と判ずればいつも遠慮なく当麻を引っぱり出してくれるのだ。その機会は多くないが、とにかく自分の思うように事を進めようとするところがあった。尚且つ、当麻限定かもしれないけれど、人の都合にもあまり耳を貸さない。だが、上手い具合に当麻の都合はついてしまうし、手を焼くような頼み事もなく、振り回されている感は否めないのに不愉快な気分になった試しもない。逆に断る時には厄介な相手、となれば、つい了承して頷いてしまうのは当麻でなくてもごく普通の反応だろう。
そうしていくうち、偶にある伸の声掛けにはほぼ100%に近い確率で応じるようになっていた。伸の振る舞いに慣れた最近では、諦めの境地に陥っている。
そして、あれは確か、二週間程前だろうか──
あの日はおよそ半年振りに伸からの呼び出しを受け、当麻は指定された店に足を運んだ。
人工の光が真っ黒に塗りこめられた空を背景にして煌々ときらびやかに瞬く都会の夜、頭一つ飛び出た当麻は大通りの人混みからするりと抜けた。たった一本、道を逸れただけで煩わしいざわめきから解放されて、ホッと息を吐く。パサついた蒼い前髪が目に掛かるのを乱雑に掻き上げ、昼と比べて少し温度の下がった風を、目を閉じて頬に受ける。
たった数秒、その僅かな間でも多少の不快感を拭えた当麻は、静かに目を開けると再び目的地へと歩を進ませた。
「当麻、こっち」
入り口から数歩足を踏み入れたその場所で、一通りフロアを見渡そうとした瞬間、声が掛かる。
近くのカウンターに座り、少しくだけたカジュアルスーツ姿で手を挙げる伸はこちらを見て微笑っていた。
成長期の過ぎた半年振りは、せいぜい肉付きや髪型が変わっているくらいのものである。パッと見の伸は半年前と寸分違わぬようだった。
柔らかそうな栗色の髪と瞳、人を和ませる表情や優しい物腰は、相変わらずだ。ふわりと浮かぶ微笑みは柔和そのものだと、誰の目にも、勿論当麻の目にもそう映る。
だが、その微笑みを見た途端、当麻は違和感を覚えた。
言い表すことはできないが、どこか何かが違う、そんな気がする。
当麻が少しでもそう感じる時は、得てして自分に災難が降り懸かる時でもある。過去に同じ例が幾つもあったことを当麻はおくびにも出さず思い返しながら隣席に腰を下ろし、軽い挨拶をした。
「暫くぶりだな、伸」
「そうだね、久しぶり。とりあえず君は何か注文しなよ。あ、まずは軽めのものをね」
僕は先に頂いてるから、と言う伸の前にはつまみのチーズ各種とウイスキーらしきもののロック。そのグラスは一体何杯目だろうか。
当麻は彼のご指示通り薄めのカクテルを頼み、隣の涼しげな横顔をちらりと窺った。そして、ゆっくり口を開く。
「…なあ。今日俺は、一体どんな無理難題をふっかけられるんだ?」
不作法にも前置きなく単刀直入に切り出す当麻に、伸の顳かみがピクリと痙攣した。
柔らかい微笑みは変わらないが、困った色が伸の表情に彩りを加える。
「当麻? そういう誤解されかねない言い方はやめてくれないかな。今日に限らず、僕が無理難題を君に押し付けたことが過去にあったとでも?」
──それは、ない。
幸運か偶然か、本気で頭を抱えて放り出したくなるものはなかった。だが、その危険はいつだって潜んでいるんじゃないかと、当麻は常々疑ってかかっていた。過去にないからと言って、これからもないという保証が一体どこにあろうか。
しかしこれで神経を逆撫でたかもしれん、と様子を窺っていると、伸は僅かに目を伏せ、悠然と持っていたグラスをくるりと回した。ぶつかる氷がカランと涼やかな音を立てる。残る琥珀の液体は1フィンガー。一口でおしまいだ。
それを口には含まず、揺れ動く液体と氷を暫し眺めてから、次に当麻を見、口の端を上げて薄く笑った。
「……妙なところで冴えてるのも、相変わらずだね」
「嬉しくない。…それが俺の質問への返答か? 随分婉曲的な肯定だが」
「いや、厳密に言えば違うよ。でも、経過だけ見ればそういうことになるかも」
謎めいた台詞に、にこりと笑みを一つ。
そうして次に来る言葉は──本題でも何でもなかった。
「この前さ、秀からいきなり僕ん所に電話が掛かってきたんだ」
「は? 秀…?」
拍子抜けした当麻をあっさり流して、伸は話を続けた。
「そ。凄く吃驚した。いつもは主にメールでやり取りしてたから、何かあったのかと内心焦ったんだけど、そうじゃなくてホッとしたよ。で、まあその時にね、相談を持ち掛けられたわけ」
伸に相談とは命知らずな、と当麻が思うのは、自分が羽柴当麻という人間だからであって、秀なら例外である。秀と伸は出逢った頃から仲が良かった。秀と昔馴染みの当麻よりも、伸の方が秀と親しい。それに、当麻に対して兄貴面をしたがる秀が当麻に相談するというなら、相当の大事件だ。
何より大前提として、自分が相談相手としては不適切なのだと、当麻自身が認めるところでもあった。
「ふぅん…秀の相談事ねえ…。深くは突っ込まんが、深刻な話だったのか?」
伸のチーズに横から手を伸ばして平らげた後もまだ空腹を訴える腹を宥めるため、野菜スティックを注文していた当麻は、キュウリを齧りながら訊ねた。
「どうだろう。秀はかなり沈鬱な声だったなぁ。その相談って──」
そこで言葉を区切った伸が、さらりと続ける。
「遼のことだったんだけどね」
「……遼?」
ピタリと当麻の手が止まった。
.....続く
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