雀が軽やかな声で気持ち良さそうに鳴いている。目を瞑っていても、瞼の向こうは白くて明るい。
「…………いっつー……」
そして何よりも、ずきずきと顳かみに響く疼痛で、当麻は目が覚めた。
酒を飲んでも酔っ払うことや記憶を失うことはないが、二日酔いになることは偶にある。
昨夜空にしたグラスの数は決して多くなかったが、純度の高い、アルコール度数高めのものばかり選んで注文していたことを今になって思い出す。遼の方は、自分自身の酒量をわかっていて最初から調整していたのか、当麻の家に着いて暫く経つと肌の赤みも目立たなくなり、酔いも完全に醒めていたようだった。
もそもそ動いて布団をずらし、気怠げに上体だけを起こした当麻は、そこで動きをぴたりと止めた。再び寝入るではないが、超鈍足で回転する頭を持て余して目は半分だけ無理矢理こじ開けている。
時計の秒針が半周回る頃、そうだ、と掠れた声で当麻は呟いた。
「そういや、あいつ泊まったんだっけ……」
遼が昨夜の食事の後、どういう予定でいたのか当麻は知らない。だが、当麻の家に来た時点で、泊まるという話に落ち着いた。遼の仕事が明日この付近で撮影をするということで、それならここに泊まればいいと当麻が促せば、遼も断りはしなかった。一瞬吃驚した顔を見せたが、直ぐ嬉しそうに笑って頷いた。
その仕事内容や細かなスケジュールについては何も聞いていない。
押し寄せてくる眠気と格闘しながら当麻は辺りを見てみるが、視線を巡らせても耳を澄ませても、同じ部屋で寝ていた筈の遼の姿や気配はなかった。遼のために用意した掛け布団は綺麗に畳まれているし、洗面所を使う水の音も聞こえない。
明るい方向に目を向けると、大きな窓に掛かったカーテンは光を完全に遮らず、朝より昼にふさわしい日差しの強さで色素の薄い当麻の瞳を焼く。カーテンの端から僅かに漏れる太陽の光だけでも眩しくて、今既に昼に近い時刻なのだとしたら、遼がここにいない可能性の方が断然高い。
もう出て行ったか、と一つ息を吐いたところで、当麻は視界の片隅、敷き布団の上に小さなメモを見つけた。
鈍い動作で腕を伸ばしてそれを取り上げると、カサリと乾いた音がした。
『当麻へ
仕事に行ってきます
遼』
ハガキと同じ字で、短い伝言が書かれていた。
今朝まで遼がここにいたことを証明している書き置きが何となく嬉しくて、当麻はクスリと笑った。
そのまま眺めていると、ふと、紙の下方に目立たない『追伸』の文字を発見する。何だろう、と首を傾げ、書かれた矢印に従って裏をペロンとめくった。文字を目で追いながら、自然と当麻の口元は緩んでいく。
この家には自分以外誰もいない。堪える必要もなく、それを見つめたまま暫く当麻はくつくつと笑い続けた。
「……ハハ、参った。っとに適わねえよな──。……っていうか遼、お前追伸の方が文字数多いのはどうかと思うぞ?」
ここにいない彼へ宛てた声が、布団以外何もない客間に木霊する。苦い響きがその声音に少し入り混じる。
完全に頭は覚醒したが、笑いながら当麻はゴロンと大の字に寝転んだ。
全身の力を抜いてゆったり目を閉じれば、遼の声でメモ書きの文章が脳裏で再生されていく。
少し呆れた顔を作り、怒ってもいないのに尖った声で、腰に手を当てたりなんかして、眦をつり上げて漆黒の瞳で射るように睨みを利かせ、子供を叱るのと同様に──
『待ちくたびれたから教えとく。ちゃんと登録しとけよ!』
携帯の番号とメールアドレスが、その一文とともにメモ用紙の裏面に書かれていた。
脈絡のない『待ちくたびれた』というくだり。そう書けば当麻に伝わるだろうと遼が見切っていたかどうかは不明だが、これは予想が正しければ、一両日の出来事のような短いスパンの話ではない。
ああ、そういうことだったのか、と当麻はようやく合点がいった。
──思い浮かぶのは、携帯電話を買ったと皆に報告していた、あの数年前の柳生邸でのこと。
手にしたばかりで遼自身もうろ覚えだったその番号やアドレスを、皆に囲まれ小突かれながら遼は教えていた。それを直ぐ傍でぼんやり眺めていただけだった当麻は、結局遼の個人的な連絡先を知ることなく、屋敷を後にした。
基本的に単独行動を好み、人の輪に入らず傍観していることの多い当麻の行動パターンは、気心の知れた仲間達といてもほぼ同じである。そして、結果として、当麻は個人的な連絡先を遼から知らされなかった。
あれから数年、特に何を小細工することもなく、昨夜まで遼と当麻は会う機会がなかった。だが、どうやらそれは遼の望みから程遠いものだったようだ。
本当に言葉通り『待っていた』のだろう。自ら知らせるのではなく、”当麻から”連絡先を訊かれるのを。
ハガキに毎度記された住所。一度も見たことのない携帯番号とメールアドレス。当麻から電話もメールもないと拗ねてぼやいた遼の台詞が、返事を返さなかった当麻への意趣返しのつもりだったとしたら、演技力は上等の類だ。自分に何も気付かせなかったのだから。
参ったな、と再び当麻は心の中で嘆息した。
当麻がいつも感じていた物足りなさと引っかかっていた凝りは、霧散した。が、それは遼のおかげであって自分は何もしていないのだから、苦笑を禁じ得ない。
わざわざ登録しろと遼に言われなくても一目で覚えた英数字の羅列。記憶力云々の問題ではなく、待ちくたびれていたのは一体どちらだったかを物語る。考えてみれば、己の不精に拍車が掛かったのは最後に全員揃って柳生邸を訪れた日の後からで、きっかけを突き詰めれば──連絡先を教えないことで相応の距離感を取っていてほしいと遼に言われたと、そう感じたからだった。
当麻にとって、久しぶり、と挨拶を交わして親交を温めたい相手は限られていて、仲間の面々とナスティ、純くらいのものだ。そして、真っ先に思い描くのは仁の心を持つ遼の存在である。過去、鎧を纏って戦っていた時は先頭に立つ遼を気に掛けるのが軍師としても仲間としても当たり前だった。現在、遼のハガキだけが関係を繋ぐ今になってもそれは変わっていない。なのに、家に泊める算段になった昨夜も、自分は遼に対して以前と同じく接せられたかどうか──
要は、変に意地を張っていただけだ。自分は。……もしかすると、遼も。
寝転がったまま閉じていた目を薄く開け、片腕で顔の上半分を覆って日差しを遮り、呟きを落とす。
「……わかっててああ言ったのかな…伸の奴……」
昨夜の約束を取り付けるべく、初めて遼に連絡を入れたのは、伸の進言があってのことだった。
.....続く
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