後熟の果実-1- 

2007.6.19.up


 久々に会った彼は、随分大人びていた。
「当麻、久しぶり」
 目が合った瞬間、つり目がちの大きな目が喜色を湛えて嬉しげに細まった。強すぎる眼差しが和らぎ、眩しい笑みが零れる。途端、彼のきつめの印象が一気に暖かく優しいものに変わった。その笑顔は昔の面影と重なるが、若さ故の朴訥さや爛漫さはなくなり、地に足をしっかり着けた落ち着きぶりと心地良く響く声の艶やかな低音が、”少年”の域を脱した一人前の男であると当麻に意識させた。
 最後に別れた時から既に数年、互いに変わっていて当然だというのに、想像以上に精悍な顔つきになった彼を間近に見た当麻の心臓は僅かな動揺を素直に表し、不規則な鼓動を刻む。
「そうだな、何年振りかな」
 けれど何食わぬ顔で、当麻は同じように微笑った。
 駅前の雑踏の中、待ち合わせ場所に立っていた一際目立つ遼を見つけて暫くは、足を止めて遠目からその姿を眺めていた。嬉しくて、懐かしくて、だけど昔とは違う姿を目にすると、寂寥感のような感情が沸き上がる。会わなかった年月の長さが確実にそこには横たわっていて、それによって生まれる説明し難い複雑な気持ちがざわりとうねるのを、もう少し落ち着かせよう──そう思った。
 遼は建物の壁を背に、待ち人がいつ現れるかと時折腕時計に目を走らせては辺りに気を配っていた。赤色混じりの夕闇は完全に闇色へと変化を遂げ、仕事帰りの人々で最もごった返す時刻を少し過ぎた今、ピークは超えても人の波はなかなか途切れない。そんな中、前を横切る通りすがりの女性達が熱い視線を彼に浴びせていることなど、彼自身はまるで気付きもしていないようだった。周りが見えていない、そんな鈍感なところは相変わらずだと内心苦笑した当麻は、待ち合わせ時刻ぴったりになるのを待ってから、遼の前に姿を見せた。
 笑みを浮かべて挨拶を交わしたのも束の間、遼が次に口を開いた時に出てきたのはお小言だった。
「あのな、当麻。久しぶりでこういうこと言うのもなんだけど、昔っからお前はホンットぎりぎりだな」
 ほら見ろよこの時間、と約束の時刻丁度を示す自分の腕時計を当麻の眼前に見せつけてむくれてみせる遼に、当麻は飄々と予定通りだと嘯き、「遅れてはいないだろ」と余裕の態度で軽く受け流す。
 まったくもう、と呆れて溜息を吐くも、直ぐに相好を崩した遼は、目を細めて嬉しそうに当麻を見た。
 ゆっくり話せる場所に移動しようと言われるより先に、遼よりもこの近辺に詳しい当麻は、早速思いつく行き先を複数脳裏に浮かべながら遼を目で促して歩き出した。暗黙の了解で、遼も何も言わずついてくる。
 当麻は不思議な感覚に囚われていた。
 こうして当麻の隣に遼がいるというのは非日常の出来事だ。そのせいか、さっき遼と会った瞬間から全く実感が伴っていない。それでも擽ったい思いがじわりとこみ上げてきて、夢か現かと自分で疑うも、これが現実であるとの認識はしっかりあるという、どうにも不可思議な現象だ。実感がないのに紛れもなく現実だと確信しているだなんて、破綻した論理だとしか言いようがない。
 滅多にないことだが自分は浮かれているんだろうな、と隣をちらりと窺うと、当麻の視線に気付いた遼もまた同じ気持ちだったのか、少し照れたように微笑って当麻を見上げ、こんなことを言った。
「なんか、変な感じ。ふわふわしてて、現実味がないっていうか」
「…言えてるな。お前、本当に本物の遼か?」
「しっつれいな。本物だよ。そっちこそ偽物じゃないだろうな」
 軽く小突き合ってじゃれながら、目的地までの道のりを歩く。
 決して短いとは言えない距離は、とても短く感じられた。





 寂れた小さなビルの入り口、備え付けられた狭いエレベータに乗って七階。
 降りて直ぐ目の前にある、クラシックな意匠が施されているチャコールブラウンの扉を開けると、カランとカウベルのような鐘の音が響いた。
 外側から扉や窓越しに見ると店内は暗すぎるのではと感じられたが、中に入ってみればそれ程暗くない。明るいとは言い難いが、黄色い照明が天井や壁際からぼんやりとした光を注いでいる。調度品は扉と同様に少し古めかしい木製で、存在を誇示せず整然と並べられており、二人用の小さなテーブルセットが幾つかと、残るは手前から細く長く奧まで続くカウンターと足元から伸びるスツールのみ。床には絨毯が敷き詰められており、物音が立たないようになっている。
 店の形や面積としては小作りだが、暗めのせいか狭さはあまり気にならない。
 耳を澄ませば、大人しいジャズが静かに流れていた。
「へえ…」
 駅からは結構離れているだろう。近辺の人通りは少ないどころかなきに等しかった。加えて言えばこのビル自体非常に質素で、全く目立たない。だが、一度この店に入ったことがあれば、多少遠くても繰り返し足を運ぶ者は多いかもしれない。そう思わせる、静かで喧噪とはかけ離れた寛げる空間だった。
「いいな、ここ」
 素直な感想が遼の口から滑り出る。当麻は「だろ?」と返した。
「こっちの一番奥。小さいけど仕切りがあるんだ」
 仕切りといってもこれまた焦げ茶色の洒落た木製で、蔓性植物の模様を彫られたそれは、アコーディオンのように折り畳める形になっていた。背は高すぎず、重い色の割に圧迫感を与えない。
 店内には数名の者が席についていたが、声高に話したりして場の雰囲気を壊すような人間はいなかった。
 テーブルについて腰を下ろし、メニューを見たところで遼がぴたりと止まる。
「あれ、ここってどっちかって言うと喫茶店…だと思ったんだけど。酒の種類、かなり多くないか?」
 半ば予想していたその問いに、当麻はクスリと笑う。
「作りはそう見えるんだよな。喫茶メニューも扱ってるし。でも本来はバーだろう。ほら、カウンターの奧見てみろよ」
「…ホントだ」
 前を通り過ぎた時には気付かなかったカウンターの奧は、多種多様な瓶が乱立している。勿論中身は酒だ。
「ここは夜しか開いてないんだ。大体、夕方から明け方まで」
 だからここで飲み明かすことも可能だぞ、と暗に示してニヤリと口の端を上げる当麻に、遼は乾いた笑いを浮かべた。
 自分が酒に強くないことを、重々承知していたからだった。



.....続く     

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