ごくり、と書庫の扉の前で、遼は唾を飲み込んだ。
そう、書庫である。ベッドと居間にいなければ必ず当麻はここにいるという、書庫だ。割り当てられた部屋にいないことも、居間にいないことも、直に確認済み。絶対いる筈のない部屋まで覗いてみたから間違いない。当麻がいる可能性があるのは、この書庫しかない。
ナスティと散策に出て、話をし、おやつを楽しんだまでは良かった。
数刻後、日が傾く前に柳生邸に戻ってきたのまでは良しとしよう。
だが、居間に顔を出して早々、秀が飛びつくように遼の肩を掴み、こう言ってきたのだ。
『遼。あのな、今当麻は書庫にいるんだ』
わざわざ言われなくても、普段から当麻の居場所は大抵そこだ。秀は何が言いたいんだろう、と訝しみながら、遼は頷いた。
『そ、そうなんだ』
『でな。今日またお前ら派手な喧嘩しただろ』
『う……ん、まあ……』
確かにそうである。だが、先程ナスティに夫婦喧嘩だのノロケだのと言われた手前、すんなり肯定できない。
『あー、まあな。色々あるだろうし謝れとは言わない。けどお前も当麻もさ、そろそろ腹割って話す気ねえ?』
予想しなかった秀の言葉に、え、と遼は目を丸くした。
『そうでもしないと改善しそうにねえもんな。多少の喧嘩なら俺だって目瞑るけど、多少どころの話じゃないし。遼もいつまでも当麻とやり合うの、ホントは嫌だろ?』
それもその通りだが、遼に話す意思があっても、当麻に話し合う気があるとは思えない。
日常的に接する上で当麻が遼に声を掛ける機会は、挨拶と諌言以外殆どなかった。遼が意識的に話し掛けようと試みれば、一言二言で躱される。早い話が、遼は当麻に避けられていたのだ。
きっとそのことは遼しか知らない。
秀の提案は残念だけど当麻に却下されるだろうな、と微苦笑を浮かべた遼に、しかし秀はサラッと言ってのけた。
『当麻にも今日中に遼を向かわせるって言っといたから』
『えっ!?』
あり得ない。こればかりはちょっと、流石にあり得ない。
『何驚いてんだ。ま、そういうわけだからな、ちゃんと当麻と話しろよ』
『ちょっ、待てよ秀。本当に当麻が了承したのか?』
『少なくとも、嫌だとも駄目だとも言わなかったぜ? だから、よろしくな』
よろしく、と言われても……と遼は困った。
当麻と喧嘩腰でなく話したいのは山々だが、こんないきなりお膳立てされて、何を話せと言うのだろう。
どうしよう、とまごついていると、伸が後押しをした。
『いいんじゃない? 言いたいことは何でも言うに限るよ。それを我慢するなんて君らしくもない』
『そうだな。良い機会ではないか』
『ちゃんと話せばわかり合えるわよ、遼。思いやりを忘れずにね』
……話せるチャンスが与えられたのは有り難い。ナスティのアドバイスも有り難い。
が、わかり合えるかどうかというのはそこはかとなく微妙だ。それにあの当麻が了承した? 嘘だろう。
そう思うが、みんなにこうまで賛成されると、今直ぐというのは勘弁してくれ、と拒むことはできない。
かくして今、こうして当麻のいる書庫の目の前に、遼がいるわけであった。
扉を開けて入るしか、もう道はない。
深呼吸を繰り返し、ノックは三回した。返事がないのはいつものことだと、秀は言っていた。
「お邪魔、します」
鍵の掛かってない扉をギ、と開け、忍び足で奧へと踏み込んでいく。
奧に行くにつれて緊張感が高まっていくのは、これから向かい合う相手が当麻だからに他ならなかった。
幾つかの本棚を越えると、一番奥にある机の前、椅子に座って机に頬杖を突いた当麻の後ろ姿を見つけた。
「当麻。あの、俺…──」
「ご苦労だったな」
「えっ?」
きぃ、と椅子を回し、後ろにいた遼へと振り向いた当麻が、皮肉げに片頬を歪ませた。
「秀に言われて来たんだろ? だが別に無理に話をする必要はない。さっさと出てってくれて構わないぞ」
ほら、と出口を指差す冷たい態度に体温が下がる思いがしたが、遼に引き下がる気持ちは毛頭なかった。
「……『無理に』なんかじゃない。俺、本当に当麻と話したいと思って来たんだ」
「秀に言われて、だろう?」
小馬鹿にしたような当麻の笑みに少々ムカついたが、遼は開き直ってそれを認めた。
「…ああ、そうだ。秀の誘いがあったから、ここに来た。ラッキーだなって思ったよ。当麻も秀に言われたんなら、絶対逃げないだろ? そうじゃなけりゃ今頃当麻はここにいないもんな。俺を避けてたから」
人に図星を指されるのはあまり気分の良いものじゃない、と一般的に言われている。
当麻にきつく睨み付けられ、当麻も例外じゃないんだなと遼はふとそんなことを思った。
絡み合う視線を、当麻はスッと外した。
「……で。話って何なんだ。──いつまでもぼさっと突っ立ってないでそこに座れ」
顎をしゃくって示された先は、仮眠用にも使われているソファベッドだった。
立ったままで構わなかったのだが、逡巡した後、遼は当麻の言われる通りに腰を下ろした。
.....続く
|