一方、伸と征士の声援を受けた(と思っている)秀は、埃っぽい書庫に足を踏み入れていた。
ずらりと並んだ背の高い本棚に、ぎっちり詰まった分厚い本の数々。そして、古い紙の独特な匂い。
空間の狭い部屋はそれだけで圧迫感を与える。
読書が苦手で、且つ広い場所が好きな秀は、うへぇ、とうんざりした顔で、当麻のいるだろう奧へとずんずん進んだ。
「当麻ー、いるか?」
返事はない。が、直ぐに見えてきた蒼い髪に、いるじゃん、と秀が呟いた。
「聞こえてるなら返事くらいしろよな」
「──何か用か」
聞かずともわかっているだろうに、当麻は素気なく訊ねた。
振り向きもしないで机の上に広げられた古文書を眺めているその態度は、拗ねているように秀には見えた。
「用もあるけど、どうしてっかなーってちょっと様子見に」
ぺろっと屈託無く答えられて、少し気が殺がれた当麻は小さく溜息を吐いた。
座ったまま、クルリと事務用椅子を回して秀に向き直る。すると、ニッと秀が笑い掛けた。
「ふぅ〜ん、冴えない面してんなぁ。やっぱ伸の言った通り、自己嫌悪に陥ってる最中か?」
「…何だそれ」
「さっきそんな話してたんだ。一人になって冷静になったら落ち込むんだろうなーって。──当たり?」
「さあな。どうだっていいだろ」
フイと視線を背ける当麻の横顔は、少しも崩れない。
普段はそこまで無表情ではない当麻が完璧なまでのポーカーフェイスを見せるのは、その感情を隠すことを己に課した時である──そう言い出したのは仲間内の誰だったか。
本当にその通りだな、と秀は自分以外の誰かに心の中で賛辞を送った。
当麻が理性的で冷静なように見えるのは、見た目より遥かに激情家な自分を常日頃から抑えているからだ。そうして感情を制御することに慣れている彼は、辛くとも状況判断次第で私情を殺ぎ落とす。最善を求めて策を練り、非情な選択をすべき時や、揺れ動く感情を知られたくない時。こうだと心に決めれば、気持ちと真逆のこともやってのける。
そんな時の隠された当麻の胸の裡は、憶測することはできても、他には何もできない。そこに踏み込むことを当麻自身が許さない。僅かでも吐露すれば楽になるのではと手を差し伸べても、素直じゃない当麻は易々と手を掴んではくれない。
当麻は自分には厳しい。秀もそれは良く知っている。
けれどそんなに自分を苛めなくてもいいんじゃないか、とも思うのだ。
「お前はどうでも良くても俺は良くないんだよ。…えーっと、唐突だけどな。しかも答えがわかってる質問なんだけど、敢えて訊くぜ。お前って、──遼のこと、嫌いか?」
「…………は?」
ぽかん、と口を半開きにした当麻の顔は、ちょっと間が抜けていた。こんな顔は早々見られるものじゃないな、と笑いたくなるのを堪え、秀はうんうんと頷いた。
耳は音を拾ったが、脳には辿り着いてない──当麻の反応はそんな感じだった。
「そうだよな、んなワケないよな。じゃなけりゃ『散歩だろうが何だろうが外出禁止!』だなんて心配通り越して怒った顔で怒鳴ったりなんかしないよなぁ。悪ぃ、わかってて訊いてみた。一応確認したくてさ」
こんなふうに呆気に取られる程、当麻にとっては意外だったということだ。それがあり得ないことだから驚いたのだ。
ちゃんとわかっていたことだけれど、確信できて良かったと、秀はホッと肩の力を抜いた。
試すようなことして悪かった、とパンッと両手を合わせて秀が殊勝に謝ると、途端に呆然としていた当麻は我に返り、渋い顔をした。
秀の言葉は正鵠を射ていた。当麻とて、怒鳴りながらそれを皆に知らしめているようなものだとわかってはいた。だが、こうも面と向かって『怒る程心配している』と言われては非常に心地が悪い。ついでにかなり恥ずかしい。自分はそんなにわかりやすかっただろうか、と思えば思う程、青い自分の言動を全ての人の記憶から抹消してやりたくなる。
無言で憮然としている当麻だったが、その様子から己の台詞に気分を害したわけではないと踏んだ秀は、当麻に向かって更に質問を重ねた。
「じゃあ、遼がお前のことどう思ってるかも、ちゃんとわかってるか?」
「…質問の意味がわからんが」
本当にわかっていないのか判別の付かない秀は、ジッと当麻を見据えて諭すように言った。
「あのな。同じなんだからな、お前ら。遼がいつまでも以前のこと根に持って怒ったりするのって、当麻を嫌ってるからじゃないぞ? よっぽどお前のことで気を揉んだんだろ、あいつ」
「それについちゃ心当たりは山程ある。だから仮に嫌われたり恨まれたりしていても仕方がないと思ってる」
「あー……ここに馬鹿が一人いるよ……」
がっくり頭を垂れて秀がぼやく。征士の予想は当たっていたようだ。
誰が馬鹿だ、と当麻に少し噛みつかれても何だか無性に哀しいだけだった。
「誤解のないように言っておくがな、秀。俺は別に、真実遼に嫌われていると断定してるわけじゃないぞ」
「えっ、本当か!?」
喜色を浮かばせた秀に、だがあまり嬉しくない言葉が続く。
「だがその可能性は否めない、と言ってるんだ」
「…………あっそ……。なんか、遼が可哀想になってきたな、俺……」
虚ろな目をして、秀は遠くを見つめた。
瞳を潤ませて、小さな子供がまるで癇癪を起こしているように怒る遼を思い出す。過去、当麻に無茶をさせた自分を責め、もう同じことをさせたくないと訴えているのだろう遼の心情を、当の本人はちっとも汲んであげてないみたいだ、と当麻をこっそり窺う。
当麻の言う”可能性”なんて全くないのだが、ここで秀が言っても意味がない。
「せめて、今日みたいに突き放すようなこと言うのは止めろよな……。お前見てないだろ、遼の傷ついた顔」
ハア、と大仰な溜息を吐いて一人黄昏ている秀に、当麻は肩を竦めた。
「確かに見てないが、そんなことを言われてもな。本人の言動を俺自身が直接見たんじゃない限り、この俺が簡単に信じると思うか? そりゃ無理な話ってもんだ。お前達のことは信じてるし疑っているわけじゃないが、誰かを挟めば多少歪みが生じるものだからな」
「まあな…それもそうか……。うーん……。良し、んじゃやっぱ、本人に誤解を解いて貰おう。うんそうしよう!」
「おい、秀…?」
いきなり復活した秀を、怪訝な顔で当麻が見返した。
突然来訪して、質問して説教して落ち込んで。そして今、吹っ切れた顔で自分を見上げている。相変わらず忙しい奴だな、と思うと同時に、怪しい雲行きを感じて眉を顰めた。嫌な予感がする。
「このままじゃあ俺もすっきりしないんだ。だから、遼をここに呼んでくるっ!」
「はっ? ちょ、待てよ、急に何を…──」
「当麻、大概ここにいるだろ? 今日中には連れてくるからな。ちゃんと誤解解けよ? 仲直りもするんだぞ!?」
ビシッと当麻を指差して使命を下し、じゃあな〜、と笑って秀は背を向けた。
──勝手に話を進めるな!!
当麻はそう言いたかった。言おうとして、大きく息を吸い込んだ。
だが、言いたいことが沢山あったがために、逆に何も言葉にできず、結局あっさりと秀の後ろ姿を見送ってしまった。
誤解だの何だのと言っていたが、それは一体全体、誰のどういう誤解を解けという意味なのか。それがわからなければ解くこともできない。そもそも、いきなり今日遼をここに呼ばれても困るのだ。遼に対してどういう態度を取ればいいのか、自分でも計りかねているのに。
喧嘩を繰り返しても時間が経てばいつの間にか普段通りに接し、笑って言葉を交わせていたのは、いつまでだったか。いつからそれができなくなったのか。
少しずつ近付く遼との距離を、不快に思ったことはない。だが、誰も入れなかった自分の領域に、気付けば遼が足を踏み入れていた。そうされて当たり前かのように、自分は遼がそこにいることを許容していた。それに気付いて愕然とし、直ぐ遼の取り込まれそうに深い漆黒の瞳を見返したその時、当麻が感じたのは──
「くそ、秀の奴…余計なことを……」
思わず舌打ちをして長い前髪をぐしゃりと掻き乱したのは、秀に後れを取った己の失態に対してだった。
.....続く
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