新緑が美しいこの季節、重なり合う樹木の葉が様々な緑色の濃淡を見せて人の目を楽しませてくれる。涼風が緩やかな強弱をつけてそよそよと吹き、枝葉を揺らす。葉擦れの音、隙間から差し込む陽射しと視界一杯に広がる深緑──それら全てが相俟って、そこに芸術的な空間を創り出していた。
その静かな自然調和が、突如振って湧いた大きな怒鳴り声に乱された。
樹木に寄り添うように、湖の景観を楽しめるようにと建てられた、ペンションにも見えるやや大きめの屋敷──柳生邸からである。
鳥の可愛らしい囀りは最早聴こえなくなっていた。
「だからっ、大丈夫だって何度言ったらわかるんだよ!」
「お前の『大丈夫』は信用ならないと、お前こそ何度言えばわかるんだ?」
「ちょっとそこら辺散歩するだけだぞ!? それぐらいのことで、何で当麻にうるさく言われなきゃならないんだ!」
「理由ならあるさ! 毎度無茶して運ばれて帰ってくるのはどこのどいつだ!?」
「違うっ毎回なんかじゃない、嘘ばっかり言うな!」
「いい加減にしろっ、回数の問題じゃない!」
息継ぎなしで畳み掛け、ギン、と射殺さんばかりに睨めつけ合っているのはいつもの二人──遼と当麻だ。
いつも、と言ってしまえる程にこんな言い合いは茶飯事だった。大音量で繰り広げられているわけだが、始まった瞬間こそ目を丸くするものの、もう誰も吃驚したりはしない。直ぐに、またかと諦め半分の眼差しで、言い合いの狭間が見えるのを待っているという次第だ。
この収拾のつかない口喧嘩が勃発しなければ、今頃いつもと変わらぬ優雅な午後のひとときを過ごせた筈だが、いがみ合う二人が寛ぐべき居間にいるのだから、そうもいかなかった。遼と当麻という組み合わせの場合、切りの良いところで第三者が諌めなければ、膠着状態が相当長引くことになる。
今が遮るべき時、と傍観者に徹してゆったりと紅茶を楽しんでいた征士が、そこに合いの手を入れた。
「その辺で止めたらどうだ」
冷静で乾いた征士の声が、広い居間に響く。勿論、頭から湯気が立ち上りそうな二人にも聞こえている筈である。だが、無言の睨み合いは続けられていた。
どちらも一歩も引かない、引こうともしない。
胸倉を掴み合っていないだけ、まだマシだった。
言い合いは終わったかと周囲の者が安堵の息を吐こうとした瞬間、再び遼が口を開いた。
「…無茶だったら当麻だって戦いの時いっぱいしたじゃないか」
声も低く、恨み言の様相を呈した遼に、当麻は眉を顰めて呆れたように嘆息する。
「……ったく、またそれか? 問題をすり替えるなよ、遼」
「すり替えてない! 戦いの時には当麻は無茶ばっかりして俺の言うことなんか全然耳も貸さなかったくせに…何で、何で今俺だけが当麻の言うことをきかなくちゃならないんだっ!!」
お前の言うことだけはきかない、と言っているようにしか聞こえない遼の台詞にカチンときた当麻は、眦を更につり上げた。
「成る程、お前が引っかかってるのはそこってわけか。俺じゃなくて他の誰かに言われればその通りにするんだな? ──征士!」
「…は…?」
不意を突かれて矛先を向けられ、珍しくきちんとした物言いができなかった征士に当麻は構わず、遼から目を離さずに言った。
「お前が言え。俺はもう知らん」
そう吐き捨て、さっさと踵を返して部屋を出ていくべく足早に遼の脇を通り過ぎる。
切り替えの早い当麻に付いていけなかった遼が、その背中を視線で追い掛けながら、当麻、と思わず呟く。呼び止める意思はそこには含まれていなかったが、ピクリと反応する肩に、それでも当麻の耳に届いたことは明白だった。しかし、振り返ることもなく何事もなかったかのように遠ざかっていく。
シン、といきなり静まり返った居間には、取り残された遼が立ち尽くしていた。
身じろぎせず何も言わない遼に近付いた征士が、宥めるように軽く肩を叩く。
「遼? 当麻の言い方も良いとは言えないが、お前も少し意地が悪いぞ。過去のことをそう何度も蒸し返すな」
「…何度もって……俺は別にそんなこと、」
「ない、とは言えないからね、遼」
横から口を挟んだのは伸だった。
遼が揺れる瞳を向けると、伸の苦笑が深まった。
「自分で気付かない? 結構引き合いに出してるよ、昔のこと。…っていうか、戦いの時のこと。ほんの少し前のことでしかないんだけど…それでもね」
一旦口を閉ざして伸が遼の様子を窺えば、思い当たる節も少しはあるようで、気まずそうな表情をして遼は押し黙った。
時として、遼は頑と当麻の意見を受け付けない。それはいつも、当麻が遼を気遣って口を開くタイミングとほぼ重なる。元より意見の食い違いからぶつかり合うことの多い二人だったが、喧嘩が絶えない割には仲が良さそうに見えていたのに、ここのところ険悪なムードだけが残ってしまうようになっていた。
「過ぎたことで何か当麻に言い足りないのなら、早いうちに全部本人にぶつけちゃいな。そうしたら、今ある蟠りもだんだん薄れていくと思うよ。ああ、それと──遼の外出禁止、ってのは僕も当麻に賛成」
笑顔で忌憚のない意見をサラリと述べる伸に、遼はげんなりと肩を落とした。
「伸もそういうこと言う? …大丈夫だって言ってるのに……。本調子じゃないんだから、別に暴れたりなんかしないんだぞ? ちょっと気分転換にその辺をブラつこうかなってだけで…──」
「ん〜まあ確かに気分転換は必要だよな。俺はいいんじゃねーかなと思うんだけどよ」
「秀」
同意をやっと得られて少し明るい表情を取り戻した遼に、しかし秀はそのまま賛成をするでもなく、小難しげな顔を作ってこう続けた。
「でもなぁ、なーんかちょっと心配が残るんだよな。遼だし」
もぐもぐとクッキーを頬張った秀が、腕を組んで一人うんうんと頷く。
仲間では直情型に入る秀にまで言われては、遼も面目が立たなかった。
「その”俺だから”っていうの、理由になるのか?」
免罪符の如く、言われる台詞。何かある度に”遼だから”で済ませられるのは何とも情けない。似たようなことを当麻もさっき言っていた。”遼の『大丈夫』は信用ならない”と。良い意味で遣われるならいいが、どちらかというと良くない場合が多い。当麻の言葉を例に挙げるなら、”遼だから”というのは”信用できない”と同義語のように扱われているんじゃないだろうか。
苦々しく思ってやさぐれた気分に陥っていると、場違いな程弾んだ声が割って入ってきた。
「じゃあこうしましょ。散歩がしたいんなら、遼が嫌じゃなければ私が付き添うわ」
これなら問題ないでしょう? といつの間にか遼の隣までやってきていたナスティが、にこにこと遼の腕に己の腕を絡ませた。
マイペースな彼女は自分のティータイムをこの最中であっても無事終わらせたらしく、自分専用のカップにも皿にも何も残ってはいなかった。
逆に、遼はそれらに一切手を付けていなかったのだが──
「遼のおやつはこのバスケットにさっき入れたの。ほら、ちゃんと水筒も用意したわ。だから遼、私と散策デートに行かない?」
これで文句が出る筈はない、と居間にいる三人の顔をナスティが見渡す。
唐突なナスティの申し出に返事を返す暇もなかった遼も、同じようにそれぞれの様子を見てみると、先程とは打って変わってあっさり了承が得られた。
「うん、いいんじゃない?」
「ナスティが一緒ならいいだろう」
「意義なーし」
…どうやら、本当に自分の発言は信用できないらしい。自分一人では散歩でさえ許可が貰えない、というわけだ。
暗く落ち込み掛ける遼を、柔らかい声が引き上げる。
「遼? 付き添いが私じゃ嫌だ、なんて言わないわよね?」
「…言わないよ、そんなこと。ありがとナスティ」
無理矢理笑みを作ってみると、満面笑顔でナスティが応えてくれた。
「いーえとんでもない。じゃあ早速デートと洒落込みましょう」
勢いに押された形の遼は、足取りの軽いナスティに引きずられるようにして出ていった。
.....続く
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