それは、とある休日──うららかな春の、午睡のことだった。
誰もいない宮田家の、一室にて。
一人の男が、低く呟いた。
糾弾の意図も明らかに、不穏な響きを伴いながら。
「…どういうつもりだ、これは?」
かしゃん。
手首にはめられた"異物"を見て、宮田一郎は怒気をはらんだ瞳で幕之内一歩をきつく睨んだ。
異物──その物体は、どう見ても「手錠」だった。己の両手首はそれで一つに繋がれており、力では外れない硬質の触感と鋼の冷たさを、宮田は手首に感じた。
──そう。ついさっきまで、少しソファでうたた寝をしていたのだ。休日の真っ昼間、ほどよい暖かな陽射しの中で。
それが、たった今ふと目が覚めて。起きようと無意識に動かしたその腕が、何かに邪魔されて自由に動かない。
おかしい、と思って目を開いて見てみれば。
あろうことか、その理由たるや。
うたた寝していた姿勢が悪くて痺れたせい、ではなく、戒められているせいだとは。
…しかも、手錠?
うそだろう、と一瞬呆気にとられた宮田だが、直後にそれは苛立ちにとって変わられた。
「えっと…どういうって言われても………」
曖昧に語尾をごまかされると、より一層宮田のイライラは募った。
宮田と一歩しかこの場所にはいない。必然的に、一歩がしたという事実にぶつかる。
「さっさと外せ。…大体、何でこんなものをお前が持ってるんだ!?」
珍しく、少し語気の荒い口調で、宮田は言った。
どれもこれも、宮田にしてみれば不愉快なことだらけだった。何故手錠なんかを一歩が持っているのかも、どういうつもりで宮田に手錠をしたのかも、全く以て理解に苦しむ。
今の瞬間にも一歩を問い質したい気持ちは宮田の中に大いにあったが、まずはこの厄介なものを外してもらわねばなるまい。極めて屈辱的な格好であり、何より眠っている隙に悪戯されたことへの不快感は、この上ない。思うように腕が動かせない束縛感も、当然のことながら疎ましい。
顔に似合わず少々短気な宮田は、それら全てひっくるめてかなり腹に据えかねていた。
が、舌戦を繰り広げるつもりのない宮田にしてみれば、外してくれないことには実際反撃の余地もなく。
彼はだから、とりあえず穏便に聞こえるように、相当な努力を要してそう言った。
感情を抑えましたと言わんばかりの宮田の語調に、一歩は苦笑した。
「…ごめんね。これ…さっき、青木さんがいらないからってくれた袋を見たら、入ってたんだ。…すごくビックリしたんだけど。宮田くんに声掛けようとしたら寝てて、それで、つい………何となく魔が差したというか…」
「………つい、じゃねえだろ、ったく。…青木さんか? こんな酔狂なものを…。どうでもいいから、早く外せ」
憮然とした声に、ソファに座ったままの宮田に近づいて、一歩は手錠を外そうとした。が、目の前の宮田の姿に視線を向けて、ふと動きを止めた。
宮田自身にはわからないかもしれない。しかし、今の光景を他人が見れば、端麗かつクールな彼と手錠とはあまりに似つかわしくなく、だからこそ倒錯的で、何となく妖しい雰囲気を漂わせていた。
「? おい、何やってんだよ」
「え、あ…。なんか、ちょっと………」
一拍置き、一歩は意味深な微笑みを宮田に向けて、こう言った。
「あのさ…宮田くん、もう少しこのままでも、いい………?」
──このままで、だと?
このままでいたら、宮田にとってはいいことなしである。だが、一歩にとってどうかというと………。
もしかすると、それは全く逆で、いいこと尽くしなのかもしれなかった。
宮田は、一番考えたくなかった可能性にたどり着いた。
「………。お前、まさか………」
目の前の一歩の瞳を見て、冷たい汗が宮田の背筋を伝う。
宮田は意識して、できるだけ素気ない態度を示したつもりだった。嫌な予感が僅かでもあったからこそ、宮田は手錠を掛けられている不利から、早く脱したかったというのに。だから、感情を露にせずに言葉を綴ったつもりだったのに。
どうもそれは、100%完全に失敗に終わったようである。
努力の甲斐もなく。
「…そのまさか、だとしたら…イヤ?」
にっこりと邪気のない微笑みを浮かべて、一歩は言った。
邪気のない? とんでもない。…実際はというと、邪気ありまくりである。宮田にはそれが透けて見えた。
手錠をされて自由の利かない宮田が、手錠の鍵を持っている一歩に、最終的に逆らえるわけがない。切り札は、一歩のものなのだ。たとえ、なだめてもすかしても、無条件でそれが宮田の手に渡ることは、まずないだろう。
それを十分承知していた宮田は、内心ギリギリと歯噛みしつつも、イヤダと完全に突っぱねることはできなかった。
.....続く
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