昼下がり──から、数時間が経った、夕暮れ時。
場所は、駅前だった。
すっかり傾いた太陽の、眩しい赤い光に目を眇め、藤原拓海は手の中にある物体の3cm四方ほどの小さなモニターを見つめた。
携帯電話の画面上で、メモリーされた"高橋涼介"の名前を探し当て、彼に宛ててコールする。
プロジェクトDが始まって以来、拓海が初めて涼介に掛ける、携帯だ。
──用件は、単なる確認。それも、涼介にとってはどうでもいい事柄の。
そう思えば思うほど、だんだん空虚になっていく気持ちを抱えつつ、自分の携帯を耳に当ててしばらく待つ。
すると、呼び出し音がプツリという耳障りな異音とともに、消えた。
だが、受け取ったのは、涼介ではなかった。
『もしもし。お前、藤原…? 藤原だよな? ──オレ。啓介だけど』
──け、啓介さん!?
思わぬ展開に、拓海の心臓がドクリと大きく跳ねた。
どうして啓介が電話に出るのだろう。
電話越しの啓介の声を聞くのは初めてで、聞き覚えのない声に違和感を感じる。
何より、どう対応したらいいのか困り果て、混乱したまま拓海は言葉を綴った。
「…あ…、はい、藤原、ですけど…。啓介さんですか…? ………あの…これ、涼介さんの番号じゃなくて、啓介さんの………?」
『いや、合ってる。これはアニキの携帯。…なあ、単刀直入に訊くけど、………お前、今日アニキと…何か約束してた…?』
また一つ、心臓が一際大きく鼓動する。
何故、約束のことを啓介が知っているのか──そんな疑問が拓海の頭の中をぐるぐる回る。
おかげで、啓介のいつもと異なる様子に、拓海は全く気付かなかった。
「………それが、………何か…?」
混乱していた拓海だったが、それでも”はい”とは言えなかった。何故かはわからないが、啓介の問いに素直に頷く気になれず、かなり婉曲な表現となった。
すると、拓海の返答に何を感じ取ったのか、啓介は暫し黙り込んだ。
それから、低く呟く。
『…そ、か。………………悪ぃけど、それキャンセルな』
「…な、」
──何でんなコト、涼介さんじゃなくて、アンタに言われなきゃならないんだ………?
拓海が僅かながらも疑問と苛立ちを募らせた直後、受話器の向こうから啓介の溜息が聞こえてきた。
『………アニキ、さっき倒れたんだ』
携帯から流れてくる、少し疲れた啓介の声に、拓海の心臓は凍り付いた──
◇ ◇ ◇
定期的に行われるクルマのメンテナンスやそれを終えてのテスト走行、あるいは、Dの遠征に備えてのミーティング──その解散後しか、拓海は涼介と二人きりで会うことがない。
そんな約束をした、という覚えは全くなかった。
ただ、時間のロスが少なく、互いにとって都合がいいせいか、どうしてもタイミング的にそうなるのである。
だからといって、拓海に文句があるわけもない。無駄がないのは、歓迎すべきことだ。
だが、ふと──その流れに少々反発してみたくなった。
不自然な逢瀬を、当然のように行う自分たちの、不条理さ。自らやめるつもりはないながらも、慣れて日常の一部と化したその軌道──それを、ほんの少し変えてみたくなった。
そういう不意の思いつきで、拓海は、互いに予定のない日の昼過ぎとも夕刻ともつかない時刻に、涼介と約束を交わしたのだった。
そして、今日。
約束の場所、約束の時間──だが、一向に涼介は、拓海の前に現れない。
………到着した当初は、辺りが昼間のように明るかったのに、今や日は暮れ、地平に落ちる寸前の太陽が空の半分近くを真っ赤に染め上げていた。
この場所に拓海が辿り着いてから、もう一時間が経過している。
いつものようにボケッと突っ立っていただけだが、妙に長く感じられた。
そういえば…、と拓海はつらつらと考える。
夜にわざわざ遠回りをして人の少ない場所で落ち合う時にも、涼介が遅れてやってくることはままあった。”悪い”とか”待たせた”とか、己の目前に立つと、涼介は開口一番すぐさま軽く詫びを入れてくる。そして、その後は全く省みることなく、何事もなかったかのように次の行動に移るのだ。気が付けば、いつも拓海は彼のペースに巻き込まれていて、慌てて自分は涼介の後を追う羽目になるのだった。
元々忙しい人だから、無駄に時を過ごすのは嫌いなんだろう、と、彼の歩調に合わせながら、拓海はいつも思っていたものだ。
その、彼が。
今日は姿を見せない。
いつだって連絡の一つも寄こさずに遅れるけれど、三十分を超える遅刻は今までなかった涼介だ。
──…涼介さんが、忘れるなんてことはあり得ない。とすると………
考えられることはといえば、何らかの事情で連絡できない状態にあるか、あるいは…こんな約束などどうでもよくなったか。
二者択一するならば、おそらく後者だろうと、拓海は推測した。
瞬きを一つ二つして、アスファルトで固められた足元の地面を見る。
──すっぽかされるのは、初めて、だな………
それも、涼介さんにしてみればありなんだろうな、と思った。
あり得なくはなかった。
プロジェクトを離れてしまえば、涼介にとっては自分など取るに足りない存在なのだから。
ふ、と辺りに視線を巡らせても、目立つ彼の姿は、やはりない。
ここに来ないなら来ないで構わない、と思う。自分の用件もやはり自分自身の存在と同様、取るに足りないことで、涼介に無視されても当然なほど、ささやかなものだ。
…けれど、もし。
万一涼介がこちらに向かっているのなら、と思うと、足が動かなかった。
一時間以上待ちぼうけを食わされてても、今からどれだけ待たされようとも、拓海はこのままここから動けない。
そうして思い出したのは、プロジェクトDのためにと無理矢理持たされた携帯電話の存在だった。
拓海の場合、使用方法の十中八九が受信のみで、この携帯を使って掛けた件数は5件に及ばない。
持ち歩くこと自体少ない拓海が、今日は運良くそれをポケットに忍ばせていた。…元々この服に入れっぱなしだった、というのが真相なのだが。
──涼介さんが来ないってことがわかれば、いいんだ。
そう思って、拓海は不慣れな携帯を手に取り、ぎこちない手つきでボタンを押した。
◇ ◇ ◇
それが、ついさっきのこと。
携帯にはてっきり涼介が出ると思っていたのに、出たのは啓介で。
しかも──
「…倒れた………って、涼介さんが………?」
スウ、と全身の血の気が引いていくのを感じる。携帯を握る指先もまた、冷たくなっていく。
涼介のことを、限界ギリギリまで無理をする人だとは思っていた。だが、きちんと自己管理のできる人だからと、拓海はその点はすごいと感心もしていたし、信じ切っていたのだ。
それなのに──倒れた? どうして? まさか、病気だろうか? 今は、病院にいるのだろうか。
言葉にならない拓海の質問に、啓介は順々に答えていってくれる。
『ああ…でも倒れたっつっても意識はすぐ戻ったから、大丈夫。多分貧血だと思うし、あとは家で安静にしてれば──』
啓介が言い終わるのを、拓海は待てなかった。
「あの、啓介さん。涼介さんは…今、家なんですか? ………オレ、今からそっちにお見舞い行ったら…ダメですか。…長居はしませんから…、顔、見るだけでもいいんで…」
かじりつくように、言った。
いつもどこを見ているのかわからないと称される拓海の瞳は今、ここにはいない涼介の姿を探し求めていた。ぼんやりしていると端から言われようが、拓海にしてみればかなり必死で、唯一涼介に繋がるであろう携帯に縋っていた。
ただの貧血だろうと啓介に言われたところで、安心できるはずもない。倒れたと聞かされただけでは、その時の状況も何もかも、全く把握できないのだから。
勿論、たとえそれを拓海が知ったところで何がどうなるということもないのだが、とにかく涼介が今どんな様子なのか、自分の目で確認したかった。
そうでなければ、この不安感は拭えない。…今味わっている、足元がまるでないような、何とも言えない恐怖感も。
少なくとも拓海は、このまま家に帰る気には到底なれなかった。
『…わかった。わかったから…慌てんな。………ダメだとは言わねえって』
──来たけりゃ来りゃあいいだろ。
投げ遣りで疲れた口調ではあったけれど、とにかく啓介の了承を得た拓海は、礼を言った後、速攻で携帯を切り、幾度か訪問したことのある高橋家へと全速力で駆け出した。
「………早ぇな」
高橋宅に到着した拓海に向かって、真っ先に出た啓介の言葉は、それだった。
純粋な驚きに見開かれた啓介の目も、拓海にしてみれば初めて見るものだったが、少し息を乱したまま、そうっすか…? と曖昧に返した。
ま、上がれよ、と銜え煙草で顎をしゃくった彼の後ろを、お邪魔しますと呟いてから、拓海は黙々と歩く。
啓介がリビングを横切り、階段へ向かう廊下を進めば、同じように拓海もついていく。
神妙な表情で背後を歩く拓海を、啓介は足を止めずに振り返って横目で一瞥し、小さく吐息をついた。
「…正直、すげー意外だったぜ…」
顔を上げ、小首を傾げる拓海に、啓介はクルリと背を向けて続けた。
「アニキの携帯に表示された名前見て、驚いた。………アニキ、時間気にしてたし、何か約束でもあんのかなってオレは勝手に思ってたけど…、まさかそれが…藤原だとは思わなかった。…全然」
独り言のように呟くそれに、拓海は目を伏せ、何も答えなかった。
啓介自身、自分の中でそれを事実として認識するために、敢えて言葉にしてみただけなのだろう。それ以上拓海に問うて詮索したりもせず、階段を上りきったところで、啓介はピタリと歩を止めた。
「…そこがアニキの部屋」
オレは下のリビングにいるから、とだけ付け加え、いつの間に手にしていたのか、清涼飲料水の缶2本を拓海にグイと押しつけ、そっけなく踵を返して階段を下りていく。
拓海は、思わず受け取ってしまった冷たい缶を見、呆気にとられた。
──これって…、オレと涼介さんの分………?
グラスに入った飲み物ではなく缶のまんまを手渡す啓介の、ぶっきらぼうな親切があまりにらしくて、どう反応すべきか迷ってしまった拓海だが、一応感謝の意を込めて彼の背中を見送ることにする。
そうして、啓介が視界から完全に消えてから、拓海は目の前の重厚そうな扉へと向き直り、一つ深呼吸をした。
.....続く
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