──コン、コン。
響く音に、涼介は顔を上げた。
啓介がするノックにしては、小さな音である。
しかも、ノック直後に扉を開けるであろういつもの気配が、全くない。
一応、自分を病人扱いして気遣っているんだろうか、と思い、涼介は苦笑した。
「開いてるぜ?」
声にも、そして口元にも笑みを含ませて、扉の方に目線を向ける。
が、扉が開いた途端──涼介の表情から、微笑みがスルリと滑り落ち、頬が一瞬にして強張った。
「…藤原………」
この家には今、涼介と啓介しかいないはずであった。
それが、呼び出しもしないのに、一体全体どうしたわけか、拓海がここを訪れている。
驚愕し、考えたのは、しかし時間にしてほんの僅か。
すぐに涼介の頭の中で解答は出た。
──啓介か。
意外にお節介でお人好しな、嘘のつけない弟。何らかの方法で連絡してきた拓海に、涼介の口止めを無視して事情を告げたのだろう。
しょうがないヤツだな、と涼介は心の中で零し、観念して小さくフゥと溜息をついてから、拓海へと声を掛けた。
「…よく、来たな」
「………涼介さん」
ほんのり苦い微笑みを見せる涼介が、拓海の目には痛々しく映った。
元々色の白い顔が、貧血で血圧が下がっているためか、血色が悪く、見るからに調子が悪そうだった。ややピンク色をしているはずの頬も唇も、今は紙のように白っぽく、色を無くしている。
ベッドの上で上半身だけ起こした状態でさえも、彼にとっては楽な態勢ではないのだと、そう感じられた。
拓海は扉を静かに閉じ、ゆっくりと、涼介の元へと歩み寄った。
「ちゃんと横になった方が…。顔色悪いですよ」
「別に。単に寝不足と、少し血糖値が下がってただけだから、大したことはない」
座れよ、と涼介はパソコンラック前の椅子を目で示したが、拓海は動けず。
話しづらいから、と言われて、ようやくその椅子に腰を下ろした。
拓海は取りあえず、手にしていたドリンクの缶2本を、啓介さんからです、と小さく言って涼介のベッドサイドに置く。
その時の、コトン、という音が、閉め切った室内で心地よい響きとして耳に残った。
それほどに、静穏の支配する空間だった。
二人きりの空間──それも、涼介の部屋。
カーテンで遮光していない大きな窓からは夕日が差し込み、電気を点けなくても十分な明るさがそこにはあった。
「………何かのTVで、言ってたんですけど…」
唐突に話し出す拓海を、涼介は黙って見つめた。
ポツリポツリと、涼介を見ずに微妙に視点をずらし、俯き加減で話す拓海の声音は、いつ聴いても同じ、平坦なものだった。涼介ですら、感情の読めない声。けれど、落ち着いた音域の、聴き心地の良い音。
ゆっくりと、凪いだ空気に埋もれていくような、そんな錯覚。
「心と体には、深い関係があって………心が元気だったら、ちょっと無理しても体はついてくるけど、心が疲れてたら体の方もまいってくる、って…。心と体のバランスが大事なんだって………」
そこで、拓海が唇をキュッと引き結ぶ。
「………涼介さんなら、それくらいのことはわかってるんでしょうけど」
拓海の台詞に、涼介は心の中で苦笑した。
よもや、拓海に説教まがいのお言葉を食らうことになろうとは、思ってもみなかったことだった。
だが、涼介の鉄のポーカーフェイスは、体調が良くないときでも健在で、そんな感情を顔には出さない。
涼介は、微笑むことなく冷めた目で彼の姿を映し、肩を竦め、片眉を上げるにとどめた。
「そうだな。わかってるさ…藤原に言われるまでもない」
──だから、口を挟むんじゃない。
──関係のないお前に、言われる筋合いはない。
直接的な言葉としてではなく、態度でそう伝えた。
すると、ゆっくりと顔を上げた拓海の目と、涼介の目が絡んだ。
いつもの茫洋とした眼差しに強い光が宿り、拓海の目つきが、ややきつくなっている。
その視線を、涼介に真っ直ぐ向けてきた。
たかだか、それだけのことだ。だが、その瞳に、何故か涼介は追い詰められたように息苦しくなった。
「涼介さん。本当は心の奥底ではしたくないと思ってて…、でもそのままでいるみたいな………、そういうコトが、涼介さんにはたくさんあるんじゃないんですか? だから…余計疲れるんですよ。………今日もですけど、オレと会うのだって、ホントは負担だったはずだ…。そうでしょう?」
当たり障りのない話をせず、いきなり核心を突いてくる拓海の青さに、涼介は苦笑と呆れを禁じ得なかった。
だが、それを軽く受け流すには、今は精神的にあまり余裕がなかったりする。………貧血気味のせいかもしれないが、考えが上手くまとまらない。
そして、自分に纏わりつく拓海の視線は………意識さえも縛られる錯覚を、覚える。
胸苦しさとその鬱陶しさを払拭したくて、涼介はわざと話の中心をずらした。
「何をいきなり言い出すかと思えば、そんなことか。…SEXのことを言ってるんなら──藤原との体の相性は、いい方だと思うぜ? 人間の三大欲の一つでもあるし…負担も何も、ヤれば多少疲れるってのは普通だろ?」
言って、最後にほんの少しだけ口の端をつり上げて笑った。
挑発している自覚はあった。
案の定、その不用意な涼介の一言は、拓海の感情を逆撫でしたようだった。
捉えどころのない拓海の表情が、ガラリと猛禽のそれに擦り変わり、雰囲気が一変した。
が、何を言うでもない。
ただジッと、涼介を見ている。──否、睨んでいる。
拓海の言いたいことが、わからない涼介ではなかった。だが──ある程度理解した上で流れに身を任せているだけに、そこはあまり突つかれたくはない部分だ。
拓海には見せない部分であり、当然、拓海の知りようもない部分だった。
だからこそ余計に、拓海には、涼介の考えることなど、何一つわからないのだ。
何を思って涼介がそんなことを言うのか、全然わからない。
今は、己の感情だけが頭に渦巻いていた。
目の前の、生気のない涼介の姿に、啓介から携帯で事情を聞かされたあの時の気持ちが、まざまざと蘇る。
「…茶化さないで下さい」
それだけ強く言うと、拓海は剣呑な瞳を涼介に浴びせた。
「倒れたって聞いて…どんだけ心配したと思ってんですか? …そりゃあ、涼介さんにとっちゃオレの気持ちなんか関係ないことだけど、でも、オレは…」
「…藤原」
ともすれば、泣きそうな顔だなと、拓海を見て涼介は思う。
実際には、拓海は泣きたいわけではなかった。だが、ひどく哀しかった。
涼介は少しも自分自身を大切にしていないように、拓海には見える。本人がこれでは、いくら周りの人間が大事に思い、そう扱っても、何にもならない。
拓海にとっては唯一無二の大切な人が、無茶を重ねて自分の体を酷使しているのは、見ていて辛かった。加えて、何より最低なことに、その"無茶"をさせている一端を、自分が担っている自覚もある。
………拓海がそう思っているとは、涼介は露ほども考えていないだろうけれど。
だが、辛い以上に、拓海は怖かった。高橋涼介という存在を、永遠に失うこと──その瞬間を、垣間見た気がしたから。
今回のように倒れて、あるいはそのまま意識が戻らなかったらと、考えた。そう空想するだけで、拓海の体に震えが走り、目の前が真っ暗になった。
「…オレは、涼介さんの負担になることは、したくないんです………。夜…会うたんびにああいうことしときながら、今更…って言われてもしょうがないけど、本当にそう思ってるんです。だから…」
「──負担じゃないぜ、別に」
あっさりと、涼介は言い切った。
いともたやすく、確固たる口調で言われ、対する拓海は、返す言葉を失った。
涼介がそう言わなければ、この関係が終わるというのは、自明の理だった。拓海と涼介との個人的な繋がりは消え、プロジェクトDというチームのリーダーとドライバーの関係だけが残る。
本来のあるべき姿は、それだ。
拓海はそう言おうとしていたのだ。
だが、涼介は、再び繰り返した。
「本当だ。負担じゃない。…信じられないか?」
正面から相対する涼介の瞳は、偽りを言っているとも思えなかった。
そんな彼の主張を、押し返すほどの強い眼差しで、拓海は見返した。
「………………オレがあなたと同じじゃないって知っても、そう言えますか」
低く噛みしめるように、拓海は呟く。
「………オレは、涼介さんのこと、『身近にいて、寝れる相手』って思ってなんか、いません」
ピクリと肩を震わせた涼介に、拓海が気付いたのかは定かではない。が、そのまま拓海は言を続けた。
いつもの如く、声音に感情が混じることもなく、一本調子のまま滔々と綴られていく。
「涼介さんが初めにそう言って…涼介さんはやっぱり今も、そう思ってるんだろうけど。でも、そういうふうに割り切れたこと、オレは一回もないです。………そんな器用な方じゃねえし、それに…すげー我侭なんですよ、オレは」
我侭、と言われても、涼介には実感が湧かなかった。何しろ、拓海は一言もそんな台詞を言うことがなく、本気で抗いたくなるような強引な行動もしなかった。
だが、涼介は黙っていた。その言葉の先に答えがあるような気がして。
「この前も、そうだったけど…。『何でオレと寝るんですか』って訊いた時の、涼介さんの答え、………いつも同じですよね…。オレ、覚えてますよ、ちゃんと。…違う答えを期待しても…無駄なのは、わかってるんです。なのに………それでもオレ、バカだから…期待するんです………。『拒む理由がない』んじゃなくて…オレのこと『嫌いじゃない』とか『何とも思ってない』でもなくて………少しは………っ………」
一旦口を噤み、拓海は少し微笑った。自嘲が多分に混じる、苦い笑みだった。
「少しは…好きになってもらえてるかな…って………。時間が経ってから訊けば…もしかしたら違う答えが返ってくるかも、って………あり得ないとわかってるのに、やっぱりオレ…どっかで期待してるんです」
途切れがちになりつつも、訥々と語る拓海を、涼介はやはり、黙って見つめていた。
何も、言えない。
相変わらず熱のこもらない冷めた口調だと、今も思う──けれど。
拓海は感情を表に出すことを知らないのだと、だからできないのだと、今になってようやく涼介は気付いた。
感動を露にすることがないのではなく、できない。激しい感情が押し寄せてきていても、キレない限り、表には殆ど出ない。
そしてその分、それは瞳に表れるのだろう。
…今まで涼介は、振り返りもせず、見返すことを避けていた。プロジェクトDで関わる時以外では、拓海の顔を見ずに受け答えすることが多くて、だから知らなかった。
だが今は、正面から向き合っている。
その瞳に、拓海は、強い思慕を燻らせていた。
紛れもなく、それは涼介へと向けられている。
「オレは、体だけなんて言ってられない…。全部欲しくなるんです。独占したくなるんです。もっともっとってキリがなくて──だから、オレと涼介さんとは同じじゃない。全然、違うんです」
それでも負担じゃないと、言えますか?
無理でしょう、と拓海の瞳が物語っているのへ、涼介は掠れた声で、同じ言葉を三度繰り返した。
「言えるさ。…負担だとは思わない」
「…っ、どうして…そうやって無茶ばっか…──」
苛々と、詰る拓海を、涼介は無理矢理遮った。
「無茶だの、負担だの──オレを全然わかってないから言えるんだ。藤原は、オレのことを知らなさ過ぎる」
半ば言い捨てるような勢いで言い、フイと顔を背けた涼介は、眉根を寄せ、暫く黙り込んだ。
確かにその通りだ…と、拓海は涼介の言ったことを考え、淋しい気持ちになる。
涼介のことを、知らない。何度触れ合っても、彼の心を近くに感じたことは、一度もない。そんな遠すぎる人のことを、自分は想っている。今までも、これからも、そうやって虚しいことを、きっとバカな自分は続けるのだ。
落ち込む拓海に、不意に涼介の声が掛かった。
「…別に、藤原を責めてるわけじゃない。………こっち、来いよ」
ここに座れ、と涼介は自分のベッドの端を指差した。
「…でも」
「いいから」
藤原、と強く呼ばれれば、拓海も拒めない。
渋々、椅子から立ち上がり、涼介の指し示す場所へと躊躇いがちに腰を下ろした。
体重が掛かり、ベッドが少し揺れて沈み込む。だが、軋む音は立たなかった。
「藤原」
距離が近くなり、涼介の声が、吐息に紛れるような小さな囁きに変わった。
振り向いて、何ですか、と拓海は言おうと口を開く──が、それは声にならなかった。
胸元に、トンと涼介が頭を凭せかけてきたのだ。
正確には、左胸の心臓の位置。
涼介の頭の重みや感触、微かな温もりが、拓海の心臓の鼓動を駆り立てる。
「…心と体のバランスが大事だって…さっき藤原は言ったよな。それ、そっくりお前に返すぜ」
「え…?」
戸惑う拓海の背に、涼介は両腕を緩く回した。
けれど、拓海の手は、ベッドについたまま動きはしない。
「…欲しいならそう言えよ。独占したいならそうすればいい。我慢は体に良くないからな。…そんなの、我侭でも何でもない」
「………『拒む理由がない』って…また言うんですか…?」
「…それのどこが悪い。………何が『体だけなんて言ってられない』だ? 今更過ぎる台詞だな。オレなんか…とっくの昔からそう思ってたぜ」
途端にガバッと体を引き剥がした拓海は、涼介の顔を凝視した。
強引なそれに、涼介の腕は解かれ、ポスンと力無く脇に落ちる。
必死の形相で涼介の気持ちを読み取ろうとする拓海の表情は、何とも情けないものだった。
だが、同じく自分も情けない顔を見せているんだろう、と涼介は思った。
「だから、お前はオレのことを全然わかってないって、オレは言ったんだ。………だけどオレも…お前がオレをどう思ってるのか、知らなかった………」
笑いたいのか泣きたいのか、涼介は自分でもよくわからなかった。
それでも多分、微笑んだのだと思う。
「オレだってお前と同じだ…。全然、違わない。だから──」
だから。
その後に続く言葉が、涼介は上手く見つけられなかった。
黙っていると、拓海が小さく微笑んだ。
今日、この部屋に来て初めて、拓海は微かに、けれど嬉しそうに笑った。
そしてそれは、同時に。
涼介が初めて見る、拓海の幸せそうな笑みだった。
ややあって。
何となく、面映ゆくて。
何となく、間が保たなくて。
互いに、軽く体を寄せた。
その時に、二人して、思う。
少しだけ、視界がぼやけたけれども。
それはきっと、気のせいなんだろう、と──
終
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