そのままで-3- 

2001.2.17.up

 
 そして。
 数日が過ぎ、今日の日付は2月14日。
 
 大型トラックを社内駐車場の所定位置に停めた拓海は、事務所へと歩きながら常に身につけている腕時計を確認した。
 折しも現時刻は夜の8時過ぎで、やっと本日の配達任務が終了したところである。
 終業表にチェックを入れ、お疲れさまでした、と挨拶をして退社した。
 いつものこと。さしたる問題も起きず、平穏無事に過ぎた一日。
 けれど今日の仕事中は、いつものような肉体的疲労をさほど感じなかった。…否、これから味わうであろう精神的な負担が異様に大きいために、体の疲れなど感じる暇がなかったと言った方が、正しいのだろう。
 実際、拓海は涼介にどう連絡を取ろうか、どう切り出せばいいのか、時間さえあれば今日はずっと真剣に悩んでいた。
 習慣とは恐ろしいもので、こうやって物思いに耽っていて周りなど何も見えてなくても、難なく自宅にたどり着き、気が付けば自室でくつろいでいる。
 だが、その事実に我に返って驚いたのも束の間、仕事を終えてしまった今はもう、急かすように心臓はトクトクと速く脈打ち、手には上手く力が入らず、掌に収まっている携帯電話が滑り落ちてもおかしくないほどだった。
 ──たった一言言うだけなのにな…。
 拓海は薄く笑った。想いを伝えると決心した。それでも動悸は鎮まらない。多分、いつまで待ってもこのままだろう。
 ままよ、と思い切って、拓海は携帯のボタンを押した。
 すると、今までの逡巡や葛藤は一体何だったのかと頭を抱えたくなるほど、あっさりと2度のコールで繋がった。
『──もしもし』
『あ…えと、藤原…です。………あの、こ、こんばんは…涼介さん』
『…こんばんは。…どうした? 仕事はもう済んだのか?』
 物腰も柔らかに、涼介が訊ねた。電話口でクスリと笑ったのが、拓海には微かに聞こえた。機嫌は良さそうで、ホッとする。
 拓海の高鳴る鼓動を余所に、涼介は変わらぬ穏やかさでゆったりと話し掛けているようだ。
『あ、はい、仕事は一応終わりました。それで………えっと、涼介さんは…今は、そのー………………』
 緊張のためか言葉が一向に出てきてくれなくて、拓海は焦った。
 今涼介がどこにいて、何をしているのか。自分の電話が、涼介の妨げになってやしないか。それを確認したいのだが………何と訊けばいいのか思いつかない。
 言い淀んでしまったその沈黙をどう取ったのか、涼介の楽しげなクスクス笑いが拓海の耳をくすぐる。
『…言っただろ? 特に予定はないって。………だから、落ち着けよ、藤原』
『は、はあ………。………えっと…、あの…涼介さん、…今、時間ありますか?』
 あるよ、というあっさりとした返事に、拓海は言葉を続けた。
『これから、なんですけど………ほんの少しだけ…話に付き合って貰えませんか? もし出来たら…その、電話じゃなくて、…直接………』
 ──絶対、ダメだ。こんなの。
 言いながら、拓海は直接話すのは無理なように思えてきて、徐々に声が小さくなるのをとめられなかった。
 …土台、計画倒れなのだ。
 いくら約束したとはいえ、普段プライベートで殆ど付き合いのない人間から電話でいきなり呼び出されて、一体誰が出掛けるだろうか。親友や身内ならともかく、お人好しか物好きか、はたまたよっぽど許容範囲の広い人でなければ、わざわざ出向いたりしないように思う。
 普通に考えればわかりそうなものを、拓海は今まで思いつきもしなかった。…気付くのが遅すぎる。
 今更ながらの自分の無謀な誘いに、自己嫌悪に陥りつつも拓海が撤回の言葉を述べようとした時だった。
『…いいぜ。どこで会おうか』
 躊躇もなく承諾の返事を貰えて、拓海の方こそが戸惑う。
 涼介の声音に変化はなく、低くて艶やかな、通りの良い声だった。迷惑そうな響きは少しも感じられない。
『い、いいんですか?』
『何言ってるんだ。ゆっくり付き合ってやるって言っただろう。──藤原は、今自宅か?』
『はい、そうですけど…?』
『じゃあ、オレがそっちに行くよ。その方が早い』
 拓海は意表を突かれて、絶句した。
 迎えに行くと言われているのだと理解はした。だが、そこまで甘えるわけにはいかない。ただでさえ自分のワガママで呼びつけるのだからと、涼介に申し訳なく思っているのに。
『そんな………悪いです、そんなの! オレが、行きますから………』
 慌てて必死に言い募る拓海を後目に、涼介はククッと笑いを堪えて言った。
『どこに行く気だ? 言っとくけど、オレは家にはいないぞ?』
『………え、涼介さん………外なんですか、今?』
『まあな。──ここからなら多分、15分くらいで藤原ん家に着くと思う。だから、出掛ける準備はしとけよ?』
 声音には優しさが滲んでいた。電話で顔は見えないけれど、想像は付く。きっと目を細めて柔らかく微笑んでいることだろう。
 拓海はふと、ああそうか、と思い至った。
 …涼介は多分、本当に自分のことを慰めようとしてくれているのだ。ゆっくり付き合う、と言った通り、一緒にいてくれるつもりなのだろう。拓海が自ら話さない限り、敢えて訊ねることもなく、時間を過ごしてくれるつもりなのだ。現に、彼は拓海に一言も事の詳細を訊かなかった。おそらくは、拓海が落ち込んでいるだろうことを慮って。
 一見冷たく思われがちな彼が、一旦懐に入れば実は情に厚い男なのだと、拓海はチームに入るまであまり知らなかった。
 だが、今ならわかる。また、こうやって不意に思い知らされる。
 涼介は、どちらかと言うと不言実行型で、自らは多くを語らない。なのに、拓海にとって一番欲しい言葉をくれるのはいつも涼介だった。そして、時には突き放した態度であっても、それが彼流の優しさなのだと後から気付かされることもまた多かった。
 過ぎる甘えを由としない、優しさ。
 …いっそ潔いほどで、けれど思いやりに満ちていて。
 今も、その優しさが伝わってくる──
 僅かな拓海の沈黙を諾と受け取ったのか、涼介がじゃあ、と言って通話を切ろうとするのに、拓海は再び慌てた。
『ちょっ…涼介さん………!』
『何だ?』
『あ………の………、気をつけて…来てくださいね。………待ってますから』
 礼を言うには少し早いかと思い、拓海は考えた末にそう言ってみた。
 涼介にとって拓海の台詞は意外だったようで一瞬押し黙ったが、その後の涼介の言葉には、拓海も笑うしかなかった。
 ──プロジェクトDのチームリーダーを、侮るなよ。
 滅相もない。チーム内どころか関東中の走り屋は、誰も侮ったりしないだろう。
 拓海は堪えきれない笑みを湛えながら、既に通話が切れた携帯をギュッと握りしめ、目を瞑って、ここにはいない涼介に想いを馳せた。
 
 
 
 涼介が来るまでの少しの間、拓海は階下に降りて、居間でコタツに入ってポヤンとしていた。同じく、コタツに足を突っ込んで新聞を眺めている父一人。
 涼介との通話を切り、まだ10分にも満たない時間しか経過していない。だが不意に、拓海にとって覚えのある音が耳に入ってきた。
 ──低く轟く、ロータリーサウンド。この辺りでは決して聞くことのないエンジン音。
 予想よりもかなり早くて、これを涼介のFCと判断していいのかどうか拓海が計りかねていると、隣で父・文太が呟いた。
「………珍しいな。ここいらでロータリーが峠攻めか?」
 ぼんやりしているようでも、流石に文太はクルマに詳しかった。音だけで、エンジンの種類とその仕様──ノーマルかそうでないのかの区別が、容易に付くらしい。
 文太の発言に拓海は慌てて立ち上がり、ジャンパーを羽織って靴を履きつつ宣言した。
「峠は攻めねーよ、多分。──オヤジ、オレ今日遅くなるかも…」
「………配達に間に合うんなら、好きにしろや」
「わーった。…じゃ、行ってくる」
 おう、といつものおざなりな返事を返し、文太は拓海の背中を見送った。
 出ていく拓海の様子はどこかしらぎこちなくて、夜中にデートか? と突っ込みたかった文太であるが、拓海の慌てように、言う機会を逸してしまった。
 表面上は平静を装っていながら、靴紐を踏んづけ、景気良くつんのめる拓海に、文太はせいぜい怪我には気をつけろよ…とだけ呟いた。
 父の心遣いなど知らない拓海が、よろめきながら外に出ると、丁度涼介のFCがこちらに向かってくるところだった。
 ゆっくりと停止したFCのドアが開き、涼介は優雅な動作で一旦クルマから降りた。
 目が合うと、微かな笑みを向けてくれる。
「結構早く着いたな。………どうしたんだ、藤原。そんな驚いた顔して」
「ていうか………だって、すげー早いですよ。…涼介さん、今までどこにいたんですか………?」
 目をパチクリさせている拓海に、涼介は意味有りげに微笑んだ。
「取りあえず、クルマに乗らないか。………寒いだろう?」
 何となく涼介のペースに乗せられてしまっている拓海は、呼び出したのは自分の方だということすら思い出せず、いざなわれるままに呆然とFCのナビシートに座った。



.....続く     

next>>>   

novel top
HOME