「──藤原」
キーボードの上を流れるように動いていた涼介の指先が、ふと止まる。
それと同時に呼ばれて、指の動きに見惚れていた拓海はハッと我に返った。
「…あ、はい」
「藤原は、どう思ってる?」
「? あの…何がですか?」
小首を傾げると、涼介は拓海の方へ顔を向けて、言った。
「オレのこと」
「………………は?」
拓海は、訊き返した。
涼介に問われたことが、聞き取れなかったのではない。一言一句、違わず聞き取れた。
ただ、突然そんなことを真顔で訊ねられたら誰だって戸惑うだろう、と拓海は思うのだ。
──特別な人に言われたら、尚更に。
一瞬とはいえ、文字通りポカンと口を開けて固まってしまった拓海の顔を、涼介は黙って見続けていた。
時刻は、人が寝静まる”夜”に相当する。そしてここは週末の峠──辺り一帯は複数のクルマのエンジン音やタイヤの軋む音、人の話し声、様々な音声でいっぱいで、それらが混じり合って耳に流れ込んでくる。
けれど、拓海がいるのはそこから少し離れた所に駐車された、ワンボックスの車中。
喧噪は遠くに聞こえるだけの、比較的静かな空間である。
今し方、拓海が前回の走行データと今日のデータとの比較を見せて貰うために、涼介にパソコンの操作を頼んだところだ。
ドアを閉めてしまえば他の音は殆ど遮断され、このクルマの中に二人きりでいる涼介と拓海には、互いの言葉以外は聞こえなくなる。
涼介の手によってパソコンの画面に見たいデータが映し出されるのを、拓海は黙ってじっと待っていた。そんな中、不意に涼介に訊かれたのが先程の質問である。
──どう思ってるかって、涼介さんのことを? どうって………どういう意味だ?
呆然とした後、取りあえず拓海はそう訊こうとした。
すると、タイミングを計ったかのように、拓海が口にする前に涼介の声が響く。
「スキかキライか、っていう単純なことなんだけど」
「………嫌いなわけ、ないでしょう」
ぼそぼそとそう答えてから、拓海は口を噤んだ。心の中では、さらに言葉を続けていた。
──好きに決まってるじゃないですか。
そう、これは、声に出して言ってはいけないのだ。
言えやしない。こんな、まるで告白みたいなことを思っていたなどと、涼介に絶対知られてはならない。
まあ、それはさておき。
涼介がどうしていきなり突拍子もないことを問うのか、わからなかった。確かに涼介は、時々拓海には理解しがたい言動を取ることがあるが。
「………何で、んなコト急に…」
「訊いてみたかっただけだ。気にするな」
ニコリ。
一つ婉然と微笑んでから、涼介は拓海からパソコンへと目を戻した。
──そう言われても、気になるモンはなるんですよ。
拓海は横目で涼介を見、心の中でだけ嘆息した。
そして、男にしては細く器用そうな涼介の指が、これまた器用にキーを操作する様に目を奪われつつ。
拓海の頭に浮かぶのは、過去の出来事だった──
* * *
プロジェクトDが始動する直前、涼介に呼ばれた拓海は、彼と渋川近くのファミレスで落ち合って話をした。
プロジェクトDがどういう主旨のチームで、これからどんなふうに活動していくのか。涼介自身を含め、ドライバーやその他の面々が、チーム内においてどういう役割を担うのか。また、チーム内外での協力や負担など。
これからの活動の詳細を丁寧にわかりやすく説明してくれる涼介に、拓海は時々頷き返して相づちを打ちながら聞いていた。
その最中、ふと拓海が思ったのは、『オレなんかで、何とか務まるといいけど』という、やや後ろ向きな不安めいたことだった。
すると、少し曇っていた拓海の表情に何を誤解したのか、涼介が苦笑気味に言ってきたのだ。
「………何か、気になることがある? リーダーがオレじゃ、役者不足かな…?」
拓海はギョッとする。そんなこと、天地がひっくり返っても、思ったりしない。
なのに、涼介にこんな台詞を言わせ、困った顔をさせているなんて。
──自分のせいだ。
「違…っ、オレ、そんなふうに思ってません! 全然、違います!」
慌てた余りいきなり大きな声を出した拓海に、びっくりして目を丸くした涼介だが、次いでフッと微笑みを洩らした。
拓海も、た易く誤解が解けたことに心底安堵し、ホッと息を吐く。
「じゃあ、何が気に掛かってるんだ?」
「………えっと…その、オレ、…あんま自信ないから。ちゃんとやってけるか、っていう…。…あ、もちろんやりたいと思ってるし、やるからには負ける気なんかねーです、けど………」
実は、拓海はこんなつまらないことを涼介に言う気などなかった。だが、言わないままでいれば、先程のように、涼介に余計な気遣いをさせてしまうかもしれない。だから、本当は言いたくなかったけれど、そうせざるを得なかった………のだが。
言ってみるとかなり情けない自分の姿が目に見えてきてしまい、さらにヘコんだ拓海に、涼介は笑った。
「お前って、本っ当にわかってないんだな、自分のこと」
そう言って一拍置き、口元には余裕の笑みを浮かべながら、自信に満ちた目で拓海を見た。
「いいか? オレは、藤原ならできると思った。藤原だから誘った。一緒にやれる能力は充分あるし、オレ自身が一緒にやりたいと思った。………だからな、藤原。お前がお前であれば、それでいいんだぜ」
──お前がお前であれば、それでいい。
ドキリとする、一言だった。
拓海は、吸い込まれるかのように涼介の瞳を凝視した。その光は変わらず自信に満ち溢れていて、思わず自分までその気にさせられてしまう。
今の自分でいいのだと、そのままの自分でも少しくらい自信を持っても構わないのだと、そう言っているように拓海には聞こえる。
そして今、涼介は全て承知の上で必要だと言ってくれているのだ──このちっぽけな、自分のことを。
「…オレ………涼介さんがそう言ってくれるほどのモン、持ってるかどうかわかんねーけど…、だけどオレなりに、がんばります。絶対負けたくねーし、それに…」
──涼介さんに、認めてもらいたい。
言葉にはしなかった。だが、この時初めて、拓海は強くそう思った。
群馬にとどまらず、知名度の高い最速の走り屋『高橋涼介』。彼がここまで有名なのは、速さだけではない何らかの魅力を兼ね備えているからではないだろうか。今、唐突にそう思った。
貪欲なまでの、速さへの渇望。探求心。自ら立てた最速理論を立証すべく、磨かれた運転技術。全てひっくるめて『高橋涼介』なのだ。そこには、真摯な姿勢が窺い知れる。求めるものを得るための、最大限の惜しまぬ努力──それこそが、おそらくは彼を無敗の帝王に仕立てた。
涼介が第一線を退いてもなお、彼の信奉者が減らないのは、その『人となり』に惹かれているから──そう考えれば納得もいく。誰もが惹かれてやまない引力を持つ──それが、カリスマと評される所以。
現に、自分も、彼に惹かれ始めている。
拓海は、涼介の面差しを見つめた。
初対面でも強烈な印象だった。だが、会って言葉を交わし、僅かでも涼介の一面を知れば、さらに惹かれていく。これからプロジェクトDが始まれば、話す機会もどんどん増えるだろう。そしてその度に、また惹かれる──のだろうか。自分は、涼介に。………きっと、そうなる気がする。もっともっと惹かれていって…。そしたら………そうなったら自分は、自分の涼介への感情は…やはり憧れだろうか………?
考えてはならない方向に思考が及んだような気がして、考えるのをやめた。
そして、途切れた言葉の続きを待っている涼介に、拓海は今現在の思いの丈を綴った。
「………速く…走れるようになりたいんです。だからオレ、このチームに入りたい…入って、もっと………」
伝えようと必死なのに上手く言えず、無性にもどかしかった。
だが、聡い涼介は全てを察してくれたようで、鷹揚に頷いた。
「もっと速くなれるよ、藤原は。それはオレが保証する。その気がある限り、全面的にバックアップするし、協力は惜しまない。…オレも、こう言っちゃ不謹慎かもしれないが、ホントに楽しみなんだぜ…お前がどこまでいけるのか」
──これから一年間、よろしくな。
最後にそう言って笑った涼介の笑顔は実に愉しそうで、拓海は緊張するのを一瞬忘れ、無意識のうちに微笑み返していた。
.....続く
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