白み始める空の、淡い光。
夜明けを告げるその鈍い太陽光が薄いカーテンに遮られ、部屋の中はぼんやりと明るかった。
空調の効いたその部屋には落ち着いた色調の家具が整えられ、ぐるりと見回しただけでも煩雑さは欠片もなく、きちんと隅々まで整頓されている。
その、部屋の中で。
床に脱ぎ散らかされた二対の衣類。
ベッドの周りに散らばった服が、人の気配のあることを示していた。
横たわり、うなじから肩胛骨にかけて白く肌理の細かい肌を覗かせている男は、おもむろに寝返りを打ってうつ伏せになった。一糸纏わぬ姿で柔らかい羽布団に半身埋もれ、さも心地よさそうに己のベッドの中で微睡んでいる。
惜しげもなく素肌を曝す彼に、彼の隣を陣取っている拓海の心臓は、不規則な鼓動を打った。
同じベッドの上である。
雑魚寝と称して同じ寝床に入るのはまだしも、二人ともが布一枚身につけていない素っ裸の、今のような状態というのは、そうはない事態だ。しかも、男同士で。
誰が見ても、不自然でおかしい場面だと思うに違いない。事実、この場所で二人でしていた行為は常識範囲のことではなかった。
と、そこで拓海は、彼の首筋に鬱血の跡を見つけた。
不意に、記憶が蘇る。互いの肌の温度を教え合った時間とその詳細──熱い吐息、途切れがちに耳に届く自分の名前、そして自分に熱く絡みつく彼の………
いけない、と自制する。
未だ自分は相手の体温をすぐさま感じ取れる距離にいる。少し身動きするだけで、素肌が触れ合うのは必至である。…またぞろ、欲望が鎌首を擡げてくるやもしれない──そんな現時点の危うさを感じ、爽やかな早朝から再び身を投じるのは避けなければ、と、いつの間にか釘付けになっていた彼への視線をツイと外した。
そして同時に、ずっと考え続けていた疑問の一端が無意識のうちにするりと滑り出た。
「………涼介さんは、何で…あんな簡単に、頷いたんですか…」
「ん?」
口の中で呟く声は小さすぎて聞き取りにくく、涼介は眼を瞬かせ、もう一度態勢を変えて拓海の方を向き、顔を見上げた。
その表情は、まるで峠でクルマの傍らにいる時と何ら変わりない。拓海の疑問はますます増える一方だった。
「オレ…わかんないです…。涼介さんが、どうしてオレと…その………」
「寝たのか、か?」
ストレートな物言いに、拓海は頬を赤らめて口を閉ざす。
涼介を窺うと、微苦笑を浮かべていた。しょうがないな、とでも言いそうな眼差しは、とても穏やかなものだった。
「…藤原。オレもお前に訊きたいんだが…仮に弾みであったとしても、望まないことをオレがすると本気で思うのか? この、オレが?」
拓海の質問にはわざと答えず、不遜にも、涼介はそんなことを堂々と言ってのけた。そして、ひょいと上体を軽く捻らせ、拓海の顔を覗き込む。
望まないことはしない──それは裏を返せば、『己はしたくないことはしないでも許されるほどに価値のある人間だ』と言っているのと同じだと、拓海は思う。
ごく普通の口調で言われたのであわや聞き逃しそうになったが、その内容は傲慢と表しても差し支えない。
「…自信過剰すね」
わざと嫌味に聞こえるように拓海が言うと、フッと意味有りげな微笑みだけが返ってきた。
涼介の台詞にケチをつけたものの、拓海にもわかっている。
彼の場合、過剰なんかじゃなく、正当な自信──正真正銘、本物の実力に裏打ちされた自信だ。過小でも過大でもなく、涼介は自分のことをきちんと把握している。
十分わかってはいるが、それとこれとは話が別だ。
涼介が拓海の要求に応じたことそのものが、拓海にはどこか軽々しく感じられてならないのだ。どうにも、涼介にそぐわない選択だという気持ちが、今以て拭えない。
何しろ、無茶を承知で口にしたのだ。その割には、自分はかなりあがってしまったけれど。
ともかくも、軽く躱されるに違いないと思っていた。なのに、涼介がまともに受けとめた上にあっさり頷くなんて。
………やっぱりどう考えてもおかしい。彼らしくない気がする。
夕べのやりとりは、こんなふうだった──
”オレ、涼介さんのこと…すげー尊敬してるんすけど”
そもそもの始まりは、拓海のそんな台詞からだ。
涼介は一瞬驚いたような顔をし、次いで口元を綻ばせた。
「…それは光栄だな」
で? と、拓海の言葉がまだ終わっていないことを察し、やんわりと目で先を促す涼介に、拓海は慌てて下を向いた。目がバッチリ合ってしまったのだ。
涼介と目を合わせていると、自分のペースで話すことができない。ペースどころか、話す内容までが頭から吹っ飛んでしまう。
すぐに顔が赤くなるのも、無性に自分がガキくさく感じられ、我ながら情けないと常々思っている。
よって拓海は、どうしても何かを伝えたい時には、それを全て言い終えるまで涼介と極力目を合わせないようにしているのだ。
「や、あの、…だからかどうかは…わかんねーんすけど………。涼介さんのこと知りたくて、ずっと見てんのに………オレってバカだから…全然わからなくて。…で、直接確かめなくちゃって、思って………」
脈絡のない話ぶりでどうも理解し辛かったが、拓海がどもりながら喋るのを、涼介は黙って聞いていた。
涼介から見れば、拓海はそれはもう、目に見えるほどカチンコチンに緊張しているのだ。その拓海が、結局何を言おうとしているのか。正直、興味が湧くところである。
「オレ、オレ………涼介さんが…好きです。…随分前にも、言いましたよね? …覚えてて、くれてますか………?」
上目遣いでこちらを窺う拓海の視線とその消えそうな声音に、涼介はクスリと笑った。
「…ああ、覚えてる」
オレも応えたはずだけど? と半分からかうように拓海に言った。
確か、その時に初めてキスを交わした。子供だましみたいな、単に触れるだけの掠めるような口づけだったけれど、それでも藤原拓海の言う『好き』の意味を知るには充分だった。それ以降は二人きりの時間を作れた試しはあまりなく、そんな機会は今までで片手で数えるほどしかない。
涼介は、自分の持つ感情が拓海の気持ちと同じだとは断定できなくて、『好き』という言葉を口にはしなかった。が、普通以上の好意を拓海に抱いていたこともあり、付き合うという形に落ち着いたのだ。それを涼介自らが言い出したからには、交際自体を冗談や遊びで片づける気は全くなかった。そこまで悪趣味ではないつもりだ。
拓海の、想いを伝えたことを確かめる不安げな口調に、涼介は安心させるように微笑んだ。だが、拓海がその後何を言うつもりなのかは、全く検討がつかなかった。
………まあ、確かに。『好きだ』という告白を覚えているかどうか、涼介本人に確認するのも納得がいくくらい、拓海からのそれらしいアプローチは今まで無きに等しかったのだが。
一方拓海は、涼介の返答と微笑みに勇気づけられたのか、小さく、よかった、とだけポツリと呟き、再び口を開いた。
相変わらず、拓海は涼介の目を見ないままである。
「あの、ですね………、いつでもいいんですけど、休みの間に…オレと会ってくれませんか? 年末でも、年始でも…涼介さんの忙しくない時でいいんで。………できれば…その、二日くらい、涼介さんとずっといたいなって………そんで、オレ、もっと涼介さんのこと…知りたいんです」
──『二日』。
妙な言い回しだと思う以前に、拓海の言わんとしていることが涼介にはわかった。
つまり、夜も含めて二人きりでいたい、ということだろう。
「それって…」
不意に漏れてしまった涼介の呟きに、拓海は慌てて言った。
「………や、えっと、別にダメだったらいいですっ。そーじゃなくて、休みだから都合つけやすいだろうし、邪魔にならないだろうと思って。だから、半日でも…時間が空いてたら──」
会いたいんですけど、とようやく仄かに赤い顔を上げた拓海と目が合い、涼介は自分の中で何かが音を立てて崩れるのを感じた。
何か──それは、理性か、あるいはプライドか。
崩れたものを再構築することなど考えも及ばず、ただ涼介は拓海を見つめていた。
.....続く
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