──これは夢か?
暗闇で目覚めた啓介が一番に思ったことは、それだった。
意識が浮上していく。
徐々に目覚めの瞬間が近付く中で、頭が重いことに気が付いた。
心なしか、瞼も重い。
それでも何とか目を開くと、少しずつ焦点が合っていく。
そして、視界に映ったのは──
薄暗い、殺風景な部屋だった。
何もないわけではない。ベッドも、タンスも、机も、本棚もある。
なのに、どこか空虚な印象。
モデルルームのように、生活調度品は揃っていても生活感がない。
カーテンの掛かった四角い窓が、一つ。
そこから差し込む、ぼんやりとした外灯の明かり。
それから、人工のそれより更に明るく煌々と光る、月の光。
白い月光は、時刻が夜であることを教えてくれる。
何故か、部屋にある電灯は一つも点いていない。
徐々に暗さに目が慣れていき、月の光もあることから、さして不自由は感じないけれど。
──ここは、一体どこなんだ………?
見知らぬ場所にいるというだけで、漂う空気を、不気味に感じた。
眠りから覚めたのだから、夢ではないはずだ。
だが、どこかリアルさが欠けている状況だった。
床に敷き詰められた硬い絨毯が、頬に当たる。
啓介は、その感触と寝心地の悪さに嫌気が差し、身を起こそうとして床に手をついた。
とにかく現状を把握することが先決で、そのためには色々と自分で動いて確かめなければならないのだ。
まずは起きて、ここがどこかを確認することが先決だ。
そう考え、床についた手に、啓介はゆっくり力を込めた。
けれど、くたりとしたその腕は、いつもの力の半分も発揮することができない。
体を支えることすらできず、起きることは叶わなかった。
もう一度確認してみたが、結果は同じだ。
…不覚にも、起き上がれない。
諦めて、溜息を吐く。
寝返りは打てる。多少の身動きなら取れる。
だが、腕に殆ど力が入らず、起き上がることはおろか、立つこともままならなかった。
──何で、こんなにも力が入らない?
啓介にはわからなかった。
──どうして、こんな見覚えのないところにオレはいるんだ?
それも、わからない。
こんな、隔離部屋みたいな場所に、見覚えなどあるはずがなかった。
知らない部屋。
痛いほどの鎮静。
起きることもできない自分。
この世にただ一人取り残されたような錯覚にとらわれて、寒気が背筋を走り抜ける。
だが、その直後、まさかという思いで一つ頭を横に振った。
──そんなバカなことがあり得るもんか。
内心で弱気な自分を叱咤し、啓介は最後の記憶を辿ってみた。
…確か。自分は、夜、峠を走った。
一人じゃない。藤原拓海といた。
会ったのは峠。赤城ではなく、秋名だ。
自分が呼び出した。…ような気がする。
はっきり覚えてないが、おそらく。
…それから?
それから後は、どうしたんだろう。
自分は? 藤原は? いつまで一緒にいた?
考えに没頭しようとした瞬間、落ち着いた声が部屋に響いた。
「気が付きましたか?」
思ったよりも近くで響いた、知っている声。
突然のことに心底びっくりした啓介は、反射的に声のする方を振り向いた。
誰もいないと思っていたこの部屋に、果たしてその声の主は、いた。
「藤原…」
そう、この男だ。
自分がこの男を、秋名に着いてからわざわざ呼んだのだ。
啓介は、逸る思いで彼に訊ねた。
「なあ、どこだココ? 何でオレ…──」
「寒い、ですか?」
啓介を遮った拓海の問い掛けに、啓介は少し間を置き、再び口を開いた。
「………少し寒いけど。そうじゃなくて、ちゃんと答えろよ。ここはどこなんだ? 何でオレ…」
言い掛けた啓介は、台詞を途切れさせた。
不意に、拓海が動いたのだ。
スイ、と物音も立てず、獣のような滑らかな動作でこちらに近寄ってくる。
無表情で、けれどガラス玉のような瞳は、一見冷たいようでいながら、熱っぽく啓介を見つめていた。
そうしてすぐ側まで来ると、ゆっくりとしゃがんだ。
拓海の視線が啓介を真っ直ぐ射抜く。
いつもと少し違うその視線は、啓介を落ち着かなくさせた。
「何で、って…。覚えてないんですか?」
小さく微笑んで、拓海は小首を傾げる。
困ったような、それでいて余裕のある仕草に、啓介は眉を顰め、訝しみながらも正直に答えた。
「…何をだよ。オレ…、全然、何にも覚えてねえんだけど」
すると、拓海は啓介の頬にそっと手を伸ばした。
そして指先で、軽く触れる。
羽根のような僅かな触れ合いに、啓介の背筋に震えが走った。
サアッと肌が粟立つ、その感覚。
寒いから震えたのではない。 少なくとも、今は寒さを感じない。
では、寒さ以外の何のせいで己の体が震えたのかというと、それがわからない。
「じゃあ、思い出して下さい。………啓介さんが、オレを呼び出したんですよ?」
「それは…何となく覚えてる…」
躊躇いがちに、啓介は頷いた。
だが、何故拓海を呼び出したかまでは、覚えていなかった。
多分、特に用もなくたまたま秋名を走りたくなって、峠に着いてからの思いつきで、自分はこの男を呼んだんだろう。
思い立ったら即行動する啓介は、その行動に至るまでの動機を覚えていないことが普段から多かった。
「じゃ、呼び出したワケとか、啓介さんがオレに言った内容は、覚えてます?」
…それは、残念ながら啓介の記憶にはなかった。己の発した台詞は、頭の中からすっぽりと抜け落ちている。
拓海の質問に答えられず、啓介は黙って頭を横に振った。
拓海は軽い溜息を一つ吐いて、ゆっくりと説明した。
「………オレをいきなり峠に呼ぶってのもどうかと思うけど…、でも、眠れないからっていう理由で、オレを呼びつけたんですよ、アンタ。それって一体どういうコトです? しかもオレの顔見た途端に、『その眠そうなツラが』とか何とかうわ言みたいに言いながら、崩れるようにして倒れちまって………。驚いたなんてモンじゃなかったんですからね。色々確認したら、結局眠ってるだけだし。言いたかねーけど、アンタ、失礼過ぎ」
仏頂面できっぱり宣う拓海に、そうだったっけ、と啓介は数時間前にあったらしきことを思い出そうとした。
確かに昨日、体は睡眠を欲しているのに、自律神経が上手く働かず、寝入ることができなかった。
神経質な方ではないはずなのに、時折こうなることがある。神経が興奮して、眠れないことが。
実は昨日だけではなく、ここ数日、そういう日が途切れなく続いて、そろそろ肉体的に限界だと思ってはいたのだ。
それがまさか、藤原拓海を呼び出すことになろうとは、啓介も予想だにしていなかった。
「…悪ィ…。けどよ、お前、そう言う割にはあんまし怒ってないように見えるぜ…?」
拓海にしでかした己の行動が失礼だったという自覚は、あった。
だが、自分を責めている割には少しも憤慨してなさそうな拓海の様子が、啓介には不思議だった。
拓海が不機嫌なのは間違いないだろう。それでも、拓海が本当に本気で怒るとこんな程度ではないことを、啓介は知っている。
短気でキレやすいのだ。この藤原拓海という男は。
総じて考えてみると、拓海は啓介に文句を言っているものの、怒っているのではなさそうである。
「ホントは怒ってないだろ? お前」
啓介が再度問うと、深々と、拓海の口から溜息が漏れた。
「怒ってませんよ。単に、呆れてるだけです。………あのですね、啓介さん、少し考えてみて下さい。突然誰かに呼び出されて、顔合わせた直後に目の前で倒れられたら、自分ならどう反応すると思います?」
言われた通りのことを、啓介は頭にシミュレートしてみた。
思い描くその情景──たとえば拓海に突然呼び出されて会ったはいいが、自分と目が合ったと同時に、倒れられたら──?
「…んー、そうだな…病気で倒れたかもって思って…ビックリする、かな………?」
思いつくまま啓介がポツリポツリ言うと、拓海はこっくり頷いた。
「………そうですか。じゃあ、そん時オレがどれだけビックリして心配したかも、わかるでしょう?」
啓介は、拓海に指摘されてやっと理解した。
拓海が怒っていないはずである。啓介の意識が戻るまで、ずっと心配していたのだろう。きっと。
そして啓介が目覚めるのを、拓海は今か今かと待っていたのだろう。
そのことに思い至り、啓介はゆっくりと瞬きをして、自分の頬に馴染んだ彼の指の感覚に意識を移した。
啓介の頬に触れたままになっている拓海の手は、時折軽く撫でては、優しいぬくもりを伝えてくる。
呆れた、と啓介に言い放った拓海の瞳は、意外に呆れてはおらず、そこには自分の顔が映し出されている。
言葉にならない拓海の感情を認め、啓介は何とも言えない微苦笑を浮かべた。
.....続く
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