愛しき沈黙-1- 

2002.12.24.up

 風と、時折吹く強い風に揺れる木々の葉擦れの音が、一層寒々しさを増していく。
 冷たく凍った空気は、皮膚を遠慮なく冷やし、硬直させる。
 吐く息は、当然の如く白く濁っていた。
 
「さみーな…」
 
 呟く声を聞く者は、近くにいない。
 見渡す限り、辺りには薄い暗がりが広がるばかり。
 この駐車場に、人の気配もクルマの影もない。
 自分と、この黄色いRX-7しか、ここにはない。
 不意に風が止んだ静寂を、自分の声で破り、独り言をポツリと呟くことで強くそれを実感した啓介は、小さく吐息を吐き、ゆっくりとクルマのドアを開けた。
 
 
 
 即行キーを差し込み、エンジンを掛ける。が、それが多少なりとも暖まるまでは、発進することも憚られる。
 車内でも息が白く、外気と大差ないほど冷えているため、暫くは時間が要るだろう。
 数分のことだが、待っている間だけでも楽な態勢を取ろうと、シートを心持ち後方に押しやり、ずるずると腰を前へとずらしてだらしない姿勢で腰を落ち着ける。
 バケットってこういう時だけは不便だな、と内心で溜息を吐く。
 そして、啓介は軽く目を伏せた。
 考えたのは、今日の昼間のこと。そして、明日のこと。
 今月は師走、今日は週の半ば。しかも平日だというのに、某一大イベントに踊らされる人間のなんと多いことかと辟易した一日でもある。他人にとってどれほど重要なものか知らないが、啓介にとっては全く関心のないクリスマスだ。気まぐれにふらりと買い物に出てみたが、姦しい商店街のBGMも、目に鮮やかな色とりどりの飾り物も、自然と耳に入ってくるはしゃいだ声での会話さえ、煩わしいばかりだった。
 元々、賑やかすぎるのは苦手な方なのだ。
 友人にクリスマスパーティなる催しがあるから来てもらえないかと誘われはしたが、結局『用事があるから』と言って断ってしまった。悪いかなと少し思ったが、例え参加しても楽しめないのは行く前からわかっている。
 楽しめるわけがない。
 心を許せる人間は、啓介には多くない。
 ましてや、心から一緒にいたいと思う人間は、そこには絶対にいないのだから。
 ──一緒にいたい、なんて、ンなしおらしいコト言うガラじゃねえけどな………
 自分も。
 きっと、あの年下の男も。
 お互いに、そんな甘い言葉を口にしたことが過去にあるだろうか?
 啓介には覚えはない。また、今後も言うことはないだろう。
 だが、ほんのたまに、顔を見たいと思うことがある。
 そういう時には必ず、啓介は秋名の峠までクルマを走らせた。
 連絡など一本も入れず、ただ秋名へ向かう。会えるか会えないかは別にして、そうすることで半分は気が済んだ。後の半分は、顔を見られれば、あるいはハチロクの下りでも拝めれば満たされるが、それは時の運に任せている。
 そして、今日も今日とて、啓介は来ていた。
 ここへ──秋名へ。
 しかし今日は、あの男の姿もハチロクも、目にする機会などないだろう。いつもは時間を見計らって秋名に来るのだが、今日に限ってはそんなことはおかまいなしに来た。着いて早々は何度か峠を流して、その後はエンジンを切り、散歩がてら湖の水際まで歩いて、新月の浮かぶ秋名湖の水面を眺めた。
 凍えるほどに寒い中、ただじっと湖面を見つめて佇むことで、時間を費やした。
 頭の中なんかからっぽで、防寒着はジャンパーだけという出で立ちでポケットに両手を突っ込み、手足の先が悴んで痛くなるまで、バカみたいに突っ立っていた。
 体が冷えてくしゃみを連発する段階になって、ようやく啓介は我に返り、クルマに戻るかという気になった。
 戻ってみれば、エンジンもすっかり冷えてしまっていて、今こうして少しだけでもと暖気しているわけである。
 ──オレは別に、今日も明日も、何か予定があるワケでもねえし。
 後ほんの数分待つことなど、全く苦にならない。時間的にはゆとりがある。だからといって、今の今まで悠長にだらだらと秋名にいた理由があの男を待つためだということは、決してない。
 たまたま、暇な時間にあかせて、ここにいただけのことである。
 啓介は、軽く目を閉じて、低く唸るロータリーエンジンの音に耳を澄ませた。
 そろそろ、走れる状態になっているのがわかる。
 だが、『そろそろ』という思いとは裏腹に、徐々に意識は薄れていった──
 
 
 
 
 
 ………微かに物音が聞こえる。
 異音。だが、聞いたことのある音。
 だんだん大きく聞こえてくる。
 何だか少しうるさい。
 ──コンコンコン。
 何かをノックする音だ、と思った時、啓介の意識は浮上し始めた。
 ゆっくりと瞼を開け、自分の今いる場所がクルマの中だと悟った。
 その瞬間、ヤバイ、と一気に目が覚める。
 一秒と経たず、全てを思い出した。
 ここは峠で、自分はエンジンを暖めていたのだ。
 いつの間に眠ってしまったのか、全く覚えがない。どれくらい時間が過ぎたのかもさっぱりだ。
 息を呑む啓介が真っ先に目線を向けたのは、窓の外。
 ノックの音がしていたのはクルマの窓で、ノックしていたのは──
「…藤原」
 啓介は呟いてから、慌ててドアを開けた。
 外に出た途端に冷気に曝され、ぶるりと身震いをした。



.....続く     

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