ほのかに甘く-3- 

2001.10.9.up

 日付変更線を超えてから、数時間後──
 まだ薄暗い夜明け前、身も凍る鋭い寒さが、衣類を通して肌を刺す。
 だが、辺りは暗くとも、雨や雪が降るような雲行きではない。向こう側が透かし見えるほどにうっすらとした霧が、山全体を覆っている。

 赤城山では随分前から、早朝頻繁に目にも鮮やかな黄色いFDが疾駆するのを幾人かが見掛けている。
 しかし、赤城へ行けば、今日も黄色のFDが走る姿を拝める──というわけでは、今日この日に限っては、残念ながらなかった。
 啓介は、交通量の少なさから、峠を走り込むのを深夜から早朝へと切り替えていた。件の赤城峠に出没するFDは、彼の愛車である。何年も走り込んで尚、100%満足のいく完璧な走りがないように、いつでも試行錯誤を繰り返して走っている。
 ただ、プロジェクトDの遠征後は、極稀に、もう一人のDのドライバーである藤原拓海のホームコース、秋名へ向かうことが、啓介にはあった。
 但し、秋名を走るのが目的ではない。
 時折、拓海のハチロクの、甲高いエキゾーストノートを耳にしたくなるのだ。Dの遠征地では飽きるほど聴いているにも関わらず、拓海のホームである秋名で、ハチロクのその音を聴きたくなる。そして、彼自身も自分と同じように更なる速さを目指して走り込んでいるか、この目で確認してみたくなる。
 余計な時間を費やす暇など、自分にはこれっぽっちもないはずなのだ。本来なら、自分だって走り込みを彼以上にしなければならない。
 なのに、彼が自分のライバルに相応しいかどうか、折に触れ、品定めをせずにはいられなかった。
 見縊ってなんか、いない。
 確かめたいだけだ。
 彼が、自分と並ぶに足る者かどうか。
 そして、見たいのだ──自分を魅了する、彼独特のその走りを。
 
 
 
 狙い通りの時間。
 鮮烈な印象を残して下る、秋名のハチロクのダウンヒル──
 正確なコーナリングと小気味良いリズムで風を切って駆っていくそれを望み通り目にし、啓介は、満足げに微笑む。
「いい走りしてんじゃん…」
 ──これだから、ヤんなるぜ。
 言葉の割に、全然嫌ではなさそうに目を細めて呟き、降り立った広い駐車スペースで煙草をくわえ直した。
 この一本を吸い終わったら赤城へ直行しようか、と冷えた片手をポケットに突っ込み、啓介は至極いい気分でその一服を満喫した。
 そうして数分が過ぎ、短くなった煙草に時を告げられて火を消し、踵を返した時だった。
 夜明け早々のこの時間に、クルマが一台峠を上ってくる音がする。
 聞き覚えのあるその音に、まさか、との思いが過ぎる。
 間もなく目の前に颯爽と現れたのは、啓介の予想に違わず、拓海のハチロクだった。
 
 
 ドアを開けるなり、拓海が啓介の方へと駆け寄ってくる。
「啓介さん…! 何で、ここに………?」
 目を見開き、本気で驚いている拓海に、啓介は仕方ない、と肩を竦めた。
「…バレるとは思わなかったな。………オレさ、たまーに、ここに来んだ」
 理由は聞くなよ、と心の中でだけそう付け加えて、言う。
 それが通じたわけではないだろうが、拓海は、敢えて理由を啓介に訊ねることはなかった。
「…そうなんすか………。…あの、オレ、さっき峠下ってた時、なんか目の端に黄色い色、見た気がしたから………。それで、もしかしてって思って…戻ってきたんですけど…」
「………ふーん…。黄色だと、即オレなわけ?」
 場所は選んで目立たないようにしてたつもりだったけど、と啓介が首を傾げると、拓海がはあ? と素っ頓狂な声を上げた。
「だって…こんな時間に、この秋名で黄色いクルマですよ? 啓介さんのFD以外に、オレ見たことないですけど…」
 でも、よかった。
 と、安堵の息とともに、拓海の言葉はそう続けられた。
 その意味を啓介は理解できず、何が、と訊き返すと、すかさず拓海から答えが返ってくる。
「すれ違いにならなくて、よかったな、って。………オレ、配達終わったら、即行で赤城に行こうと思ってたんすよ…。今日はオレ、会社遅出だから大丈夫だし、啓介さんも、朝に峠行ってるって話だったから………」
 真っ直ぐ啓介を見る拓海の迷いのない話ぶりから察するに、拓海が啓介に会いに赤城に来ようとしていたことだけは、取りあえず理解できた。
「お前、オレに何か用があったのか?」
 啓介が確認すると、何故か拓海は、うっと一瞬押し黙った。
 言いにくいことなのだろうか、と啓介が思っていると。
「………用、というか………あのっ、ちょっと待っててくれますか」
 ごまかすように拓海は慌ててハチロクへ向かい、そして荷物をごそごそ漁ったかと思うと、再び小走りに啓介の元へと戻ってきた。
「…えっと…、ですね…。はい、これ」
「………何?」
 拓海の手にある、真新しいけれど、何やら荷造り用の薄茶色の包装紙で不器用にラッピングされた、代物。
 その物と、拓海の顔を交互に見ながら、啓介は受け取らないまま訊ねた。
 さもあろう。
 理由もなく、はい、と拓海から渡されるようなものなど、何もないのだ。拓海に物を貸した覚えはないから、返してもらうこともあり得ず、誕生日もとうに過ぎているから、これがバースデープレゼントというわけでもない。
 首を傾げて暫し悩む啓介を、見上げながら拓海は言った。
「今日、2月14日ですよね」
「ん? ああ…そういや、そうだっけ? ………えっ、ていうことは、まさか…」
「その、まさかです」
 やっと、啓介は思い出した。
 先日の、拓海とのあの珍妙な会話──あれは、2月14日がキーワードだった。
 ハイどうぞ、と啓介に向かって差し伸べる拓海は、仄かに自慢げで嬉しそうだ。
「………って…お前の、手作り…?」
「…まあ、一応。お菓子じゃなくて、料理の方ですけど」
 拓海に全く自覚はないようだが、柔らかな表情で微笑んでいた。ここで拒絶の言葉を吐いてこの笑顔を崩すのは、もったいないんじゃないか、と啓介が思うくらいには。
 もしかしたら初めて見るかもしれない拓海の優しげな微笑みに、啓介はドキリとした。こんなふうに微笑うと、藤原って意外に優男っぽく見えるんだな…と心のどこかで思った。顔の造作は、まだ幼さが残っているけれど、かなり整っている。
 そして同時に、相当に驚いていたのだ。
 よもや、バレンタインのプレゼントと思しきモノを本当に持ってくるとは、啓介は思わなかった。先日のあの時、確かに拓海は本気で言っていたみたいだったが、結局その場限りのことだと、内心で納得していた。
 だが今、啓介の目の前に差し出されているものは、イベントに悪ノリしたとはいえ、目下啓介がライバルと認める彼のお手製である。
 男、しかもあの藤原拓海の手によるものなど、今を逃せば次はいつお目に掛かれれることやら。
 拓海が面倒臭がりなのは、啓介も知っている。なのに、わざわざこんな手の込んだことまで自分のためにしてくれたのだ。
 ──この際、理由がシャレだろうが何だろうが、素直に喜んでも…いいよな………?
 そう思った。
「………………サンキュ」
 躊躇いがちに礼を言って、啓介はそのやや小さな箱を受け取った。意外に見た目よりも重みがあるそれは、差し出された啓介の手の中へと移り、拓海の指から離れていく。
 その光景を、拓海は信じられない思いで見つめていた。
「………あれ…、何で…?」
「あ?」
「…受け取ってくれるんですか? 啓介さん」
 わざわざ啓介に渡しに来たのは自分の方だというのに、つい拓海は呆然とそう訊いてしまった。
 啓介には、それが嫌味に聞こえた。
 途端に眉間に皺が寄り、ぶすくれた表情へと変わる。
「受け取って欲しくなかったのかよ。…だったら、返す」
 即座に突っ返すようにして、ホラよ、と箱をぞんざいに突き出される。それを拓海はブンブン首を左右に振ることで拒否した。
 心外だった。
 ………そうではないのだ。そういう意味で言ったんじゃない。
「…ち、違います! この前、啓介さん…義理でも受け取らないって言ってたから………てっきりオレは…」
「てっきり、何だよ。オレが受け取らないと思ってたのか? …じゃあ、何で持ってきたんだ」
 啓介は首を傾げて突っ込んだ。
「それは………」
 啓介が訊くのも当然である。けれど拓海は答えられなかった。
 こうして手作りのものを啓介に渡すことは、拓海の中では決定事項。この前はっきり言ったことを覆すのも癪に触ったから、是が非でも実行に移そうとは思っていた。
 けれど実は、その時啓介がどういう反応をして断るだろう、としか、拓海は考えていなかったのである。
 受け取り拒否をされて当然だった。自分は女ではないし、あの啓介との会話を思い出したって、拒まれるのが自然の成り行きというものだ。
 それを承知で、やってみたかっただけの話だ。
 バレンタインという日に乗じて、プレゼントを贈るという行為を。
 そうすれば、どういう反応が啓介から返ってくるのか──あれこれ想像するだけでも、意外に楽しかった。呆れるだろうけど、同時に笑ってくれるだろうとも思った。『オレが男のお前から貰ってどうすんだ』とか、『あんな冗談、本気でとるヤツがいるかよ?』とか、そう言って笑い飛ばしてくれそうな気がした。『バッカじゃねえの?』と、呆れの方が多分に混じっていても構わない。少しでも笑ってくれたらそれでいい、と思ったから、啓介に渡すために持ってきたのだった。
 貰ってくれるかどうかじゃなくて、拓海の心の中ではそれは既に、渡した時の啓介の反応を見たいがためにしでかした行動だという認識に、すり変わっていた。
 自分にだけに向けられる、啓介の表情を見たかった。
 ただ、それだけだった。
 どんなものでも構わないから。
 できれば笑ってくれたらいいな、なんて少しだけ期待しつつ。
 …少し自虐的か、と自嘲しながら、けれど拓海は本当にそんなふうに思っていた。実際に贈り物を拒まれたらそれはそれで傷つくだろうが、第一自分から言った約束でもあるし、こんな機会はきっと二度とないから。
 だから、拓海は啓介の『何故渡しに来たのか』という問いに、答えられなかった。
 理由をバカ正直に啓介に白状すれば、『要らない』と突き返されるに違いない。事実、今だってあっさり返されかけた。
 それでも、ウソをつくわけにもいかず。
 拓海は答えに窮し、口を閉ざしてしまった。
 啓介はというと、実は、別に明確な答えを要していたわけではなかった。なので、黙ってしまった拓海の旋毛を見ながら、どうしたもんかな、と内心唸っていた。
 拓海の反応が薄いとか鈍いとか、それに慣れてしまった自分に少し感心しながら、いつまでも続きそうな拓海のだんまりに、痺れを切らした啓介が苦笑して、軽く肩を竦める。
 そして、手の中にある箱を見つめ、指先で箱の端を弄びながら言った。
「…ま、取りあえず、くれるってんなら貰っとく。いいんだろ、それで?」
 突然聞こえた啓介の台詞に、拓海はハッと顔を上げ、啓介を見る。
 自分のはっきりしない態度に苛立つこともなく拓海を見つめる啓介に、少し戸惑いつつも呟いた。
「あ、はい………どうも…ありがとーございます………」
 すると、啓介が突然クスリと笑みを漏らす。何だろう、と拓海が首を傾げると、そのままクックッと肩を揺すっておかしそうに笑っていた。
「いや、悪ぃ…。──全然関係ない話なんだけど、ちょっと思い出しちまった。………あのさ、アニキの話なんだけど…。アニキのバレンタインって、チョコくらいじゃ済まねえんだよ」
「…はあ………。涼介さん? …ですか?」
 拓海が訊くと、そう、と軽く啓介は頷いた。
「言っとくけど、女からだけじゃなくて、男からだぞ? 元々バレンタインとか関係なく、マジでモーション掛けられたことが、一度や二度じゃねえんだ」
「え? ………お、男から………マジで…ですか………?」
 言われて、涼介の面差しを、拓海は反射的に脳裏に浮かべた。
 ──啓介とは好対照の、彼の兄。啓介とは別の意味で、男女問わず熱い視線を送られていることだろう類稀な容姿。洗練された身のこなしに加え、滑らかに話すその内容と口調から窺える、豊富な知識と優れた話術。そうして会話の中で低く艶やかなあの声を聴き、あの美貌で柔らかな眼差しとともにニコリと微笑まれたりなんかしたら──その気がなくともよろめくに違いない。女ならば誰しもが。そして…もしかしたら、男も、あり得なくはないかもしれないと思えた。
 拓海とて、今は幾分か慣れたとはいえ、不意打ちに涼介に微笑まれると頬が赤らんでしまうくらいだ。
「………あ…でも………なんか、言われてみれば…想像つくっていうか………」
「だろ? 女だけでも結構うんざりしてるみたいだからさ、相手が男でしつこいヤツだったりすると、もうすっげー鬼みてえな形相してんだよ。…で、普段からそんなんだから、今日のアニキ、多分、並大抵の怖さじゃねえぜ。『オレに近寄んな』ってオーラ、ビシバシ醸し出してんだろうな」
 一見の価値はありだとオレは思うけど、もし会ったら、目ェ合わせんなよ。
 クスクス含み笑いをする啓介は、他人事ゆえの気楽さでその状況を楽しんでいるようだった。
 そして、ふと何かに気付いたように、啓介は表情を改めて、微かに目を伏せた。
「…でも…。…オレは…まあ、シャレとはいえ、男にこういうの貰うのは…初めてだけど………さ」
 ヤな感じは全然しねえけどな。
 ──………え?
 あまりに自然に言われたために、拓海は一瞬聞き流しそうになった。
「え…あの、けいす…──」
「んじゃな。…オレは、これから赤城で走り込みすっから」
「………あ、はい。それじゃあ………また」
 少し、躱された気もしないではなかった拓海だが、啓介のクルマに対する熱意を知っているだけに、その邪魔だけは決してできない。
 あっさり引き下がる拓海を、啓介は暫しじっと見つめてから、ふわりと微笑う。
「──今度は、Dでな」
 拓海の瞳を覗き込むようにしてそう言い置き、スイと身を翻した啓介は、FDへと足を向けた。



.....続く     

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