啓介のFDが完全に去るのを見送ってから、拓海はハチロクに乗り込んだ。
シートに座り、ふう、と一息吐いて、セルを回す。
暫くそのエンジン音を聞いてから、アクセルを開けた。
──受け取ってくれるなんて、思わなかった。啓介さん、今日は特別、機嫌が良かったのかな………
拒まれると思っていたのに、受け取ってくれた。
それだけじゃない。
雑談めいた話の話題は、啓介や拓海のことではなかったけれど、本当に珍しくも、啓介は拓海にたくさん笑顔を振りまいてくれたのだ。無論それは、拓海レベルでの”たくさん”なので、言うほどではないのかもしれないが。
それでも、険の立つ表情や挑戦的な顔しかいつもは見せてくれない啓介が、楽しそうだった。
拓海にとっては、過去一年分以上にも匹敵するほどの笑顔の大盤振舞いだった。
『…サンキュ』
プレゼントを受け取る時、そう言いながら、少しはにかむような微笑みを浮かべていた。
そして、最後の挨拶と、不敵な微笑み。
『今度は、Dでな』
一番印象的だった。
啓介への想いを吹っ切りたくて、本当に吹っ切れたつもりでいても、ああいう表情を見せられると期待を捨て切れない。後で辛くなるのは、きっと自分なのに。
けれど正直な所、単純と言われようが、やはり、この上なく嬉しい。
──今度はDで、か。………オレ、今、全然負ける気しねえよ。…啓介さんにも、誰にも。
内心で呟きつつ、拓海はハチロクのステアリングを華麗にさばいていた。
◇ ◇ ◇
一方、群馬県は高崎市にある、某高橋邸では。
早朝、帰宅後間もなく、居間のテーブル上に置かれた箱の中身をじぃっと眺める、次男の姿があった。
それを包装していたであろう紙は脇に丸められ、箱は蓋が開けられている。箱、というか、正確にはそれはプラスチック製のタッパーだった。
しばらく啓介がそうしていると、不意に階上からドアの開閉音が聞こえてくる。
二階から降りてくる自分以外の人間と言えば、兄しかいない。
よって、居間に入ってきた人物に、振り向きもせずに啓介は声を掛けた。
「…おはよ、アニキ」
「おはよう」
涼介は、自分に背を向けたままの啓介の目の先にあるものを見やり、首を傾げた。
どうやら弟はそれにご執心の様子で、今は何を言ってもイマイチ反応が鈍そうな感じだ。
だが、その理由がよくわからない。何故なら、啓介の目に映るものと言えば、別に何の変哲もない──
「弁当のおかず? …だよな? どうしたんだ、それ」
「………んー、いや、貰ったんだ」
タッパーの中のメニューは、小芋の煮っ転がしと、切り干し大根。量の割には栄養価も高く、朝食のメニューと思しきものだ。
「貰った? 誰に?」
訊くと、うーん、と唸ったきり啓介ははっきり答えようとしない。
答える気があるのかないのか判別できず、取りあえず放っておくか、と涼介がキッチンに向かおうとした時、ようやく啓介が口を開いた。
「…オレさぁ。まさかホントに作ってくるなんて、思わなかったんだよなー…」
涼介が振り返ると、頬杖をつきながらタッパーの中身を見て苦笑する啓介の横顔があった。
「そりゃあ確かに、かなり挑発はしたけどさ………。料理してる姿なんか想像できねえとか、他にも色々言ったけど、全部ホントにそう思ってたし………。でも、面倒臭がりのあいつが、だぜ? いっくら自分から言い出したっつっても、マジで作って持ってくるなんて、誰が思うよ?」
「………って、そういうこと言われてもな、啓介。全然答えになってないぞ、それ」
何とも遠回しすぎる言い分に、答えを推測する材料さえ見い出せず、涼介は微苦笑を漏らす。
そこで、ようやく啓介は涼介を振り返って、ニヤリと笑う。
「実はこれ、ついさっき貰ったとこなんだ。いきなり種明かししちまうけど、調理人はなんと、秋名のハチロク、…だったりして」
驚いて、声もなく瞠目する涼介に、悦に入った啓介はクスクス笑いながら続けた。
「な、ビックリだろ? 一気に目ぇ覚めただろ? 今日の天気、雨どころか嵐じゃねえかな?」
「…藤原、か? 藤原拓海?」
「そうだってば。秋名のハチロクが他にいるかよ?」
涼介の滅多にない驚きぶりに、啓介は満足そうに肩を揺らせて笑っていた。
そうして暫く笑い続け、ようやくそれが収まってから、もう一度、拓海から貰ったそれに視線を当てて、ゆるりと微笑む。
「でも、さ………マジで意外だったっていうか………。…なんか、最初はわざわざ赤城まで持ってくるみたいなこと言ってたし…んな面倒なこと、いくら約束だっつったって、絶対しそうにねえのにな、あいつ」
啓介のその様子を見、台詞を聞いて、涼介はようやく回転しだした頭で、一つの結論に達していた。
多分こういうことだろう、と思いながら、啓介に言ってみる。
「啓介、本当は…わかってるんだろ?」
え、と戸惑いがちに振り向く啓介に、クスリと余裕の笑みを見せて、腕を組みながら涼介は続ける。
「藤原は、余程の事じゃない限り、自ら動いたりしない。したくないことは一切しない、そんなタイプだよな…。その藤原が、手作り持参で、わざわざ赤城まで来る、だって? それを、単に挑発に乗って約束してしまったからだと本気で思ってるのか? だとしたら、随分とお目出たいヤツだったんだな、お前って」
そこで一旦言葉を切り、どうなんだ、と涼介が流し目をくれてやると、啓介は目元をうっすら赤らめて睨み返してきた。
「………るせーな。だったらどうだっつーんだよ…」
掠れた啓介の呟きは、明らかな、嘘。
それに一層笑みを深め、涼介は更に続けた。
「で? どうするつもりなんだ? ………お前が藤原を必要以上に気にしていたのも、結局同じことなんだろう」
涼介は楽しそうに笑っている。けれど、啓介を見るその瞳に、からかっている様子はない。
だから、啓介は小さくクスリと笑い、正直に答えた。
「…別に? このまま、何もしねえよ」
──このままで、かまわない。
「先のことなんかは、どうなるか知んねえけど………今は、いいんだ…このまんまで」
くすぐったい気持ちのまま、啓介はほんのりと微笑んだ。
今はこのままで、幸せな気分だった。
激しい変化は、好むところではない。
急ぎ過ぎずに、このままで。
互いの心に燻る熱が、時間を経て──消えるか、消えないか。
それがわかるまで。
…おそらく、短い間だけの。
啓介の気持ちを知らない拓海には、悪いけれど。
ほのかに甘い幸せを、甘受してみたいのだ。
終
|