そんなふうに、拓海が考え事をしていた──その時だった。
「………だろ?」
「えっ?」
拓海は自分の世界に一人沈み込み過ぎて、折角話し掛けてくれていた啓介の言葉が、聞き取れなかった。
ハタと我に返って啓介を仰ぐと、少々呆れた目とぶつかる。
聞いてなかったのかよ、という不満を拓海に視線であからさまに伝えてはきたが、口に出して文句を言うことはなく、これ見よがしに大きな溜息を吐きながら啓介は再び繰り返した。
「ったく………だからー、興味ないっつっても、お前だって貰える当てはあるんだろって言ったんだよ」
「チョコとかですか? ないですよ…そんなん」
即答する拓海を、啓介は器用に片眉を上げ、首を傾げて意外そうに見やった。
その視線がまるで疑いの眼差しのようにも見えて、拓海は少々居心地が悪くなり、喋る気などなかったにも関わらず、気が付けば次の言葉を滑らせていた。
「ホントですって。…啓介さんみたいにモテる人は別でしょうけど」
「やめろって」
間髪入れず、本当に嫌そうに啓介が強い口調で言う。次いで、
「そういうの、オレ、全ッ然興味ねえ」
照れるでなく、『全然』に力を込め、そっけなさを通り越して不快そうに顰めっ面をしてみせる啓介に、拓海は暫し呆気にとられた。
啓介のその言い方や態度は、ムクれているように拓海には見えた。そこら辺のモテない男の負け惜しみと、殆ど大差ない。
──そんなふてくされたように『興味ない』って………それをこの啓介さんが言うか?
啓介が嘘や隠し事のできない性格だということは、既に拓海とて知っているし、はっきり言って彼を知る人達の間ではそんなことくらい周知の事実だ。よって、今の彼の言葉も、本心からのものであることは疑いない。
彼の言う『そういうの』とは彼女云々のことで、つまりは恋愛沙汰にはとんと興味がないと、啓介は言っているのだ。
──この人のことは、そりゃあ、いろんな意味ですげーと思うよ………オレだって。最初はケンカ腰でよくわかんなかったけど、案外面倒見が良くて、いい人だし。同性から見たってカッコいいし、クルマだって速くて上手いし。だから…あんだけ男女問わずファンがいるの、わかる気がする。
…なのに。興味ないだって? しかも、全然?
少なくとも、一応好意を持たれているからには啓介としても悪い気はしていないんじゃないかと、拓海は思っていた。だがこれは、ポーズではないことは明らかだし、関心がないどころか本当に不愉快なようだ。
そんなことを考えている間、余程間抜けな顔をしていたのだろうか。啓介が拓海の顔を見て、いきなりククッと笑った。
「お前、何つー顔してんだよ」
「はあ…。何て言うか………人は見かけによらないんだなあ、と………」
放心したまま、言葉も選ばず正直に感想を宣ってしまったために、啓介の不興を買った。
楽しそうな笑みを瞬時に引っ込めた啓介が、ギロッと元々目つきのよろしくない三白眼で睨み付けてくる。拓海は慌てて両手を左右に振り、違うんだというようにジェスチャーで告げた。
が、時既に遅し。
啓介は和んでいた先程までの雰囲気を一切捨て、不穏な空気を纏っていた。
「藤原…お前な、さっきからオレに何が言いたいワケ? 甘いもんがどうとかバレンタインとか、わけわかんねえことばっか──しかもお前、何笑ってんだよ。………そんなにおかしいかよ、オレの言ったことが」
指摘されて、拓海は慌てて緩んだ頬を引き締めた。
多くは望んでいない拓海であっても、啓介本人により、特定の彼女がいないということが判明したのは何となく嬉しくて。それでどうやら、ついつい喜びを表情に出してしまった──らしい。不覚にも。
「…や、その…おかしくはないです。ただ嬉しくて………つい」
言って直ぐに、啓介のびっくり眼と目がかち合い、マズイことを言ったと拓海は臍を噛む。
「てか、あのっ、えーと…、つ、つまりですね、啓介さんは甘さ控えめの方が好きってコトっすか? オレ、それが知りたかったんですけどっ!」
更に慌てた拓海は、ごまかすために声高に言って啓介の方へズイ、と身を乗り出し、逸れそうになった話を強引に戻した。
対する啓介は拓海の勢いに飲まれ、身を引き気味に、んあ? と間抜けな声を上げてしまう。
「あー…まあ、その方が好き…だけど………。それが、何」
先程の不快さも忘れてしまったかのように、すっかり毒気を失いキョトンとする啓介に、拓海はちょっとだけ肩の力を抜く。
──高橋啓介という男の最も愛すべき所は、この単純さと素直さだ。
いつだったか、プロジェクトDの誰かが言った標語のような言葉を、改めて認識し、それに多大に感謝しつつ。
拓海は、啓介曰くの『わけのわからない』会話なるものを続けた。
間の抜けていることに、もう既に、拓海も自分で言っててわけがわからなくなっている。…のだが、これ以上啓介のご機嫌を損ねないために、そうは見えなくても結構必死だった。
「ええっと…、じゃあ、甘さ控えめだったら、啓介さんがプレゼント断る可能性は低いってわけで…──」
「………あのなァ、んなコト誰が言ったよ? 今まで何を聞いてたんだテメーは。オレは、誰からだろうが何だろうが、受け取んねえっつってんだろが。…そういうコト言ってっと、キリがねえんだよ」
「──あ」
そっか、そうでしたよね、とコクコク焦って頷いて納得した拓海に、啓介は呆れ返り、大仰にハアア、と嘆息した。
バレンタインから派生した、藤原拓海の数々のわからない質問群。暇だからと付き合ってやったが、『甘さ控えめだったら』なんて台詞が拓海の口から出ることにこそ、啓介は途轍もなく違和感を感じる。
一瞬、誰か知り合いの女にでも頼まれて自分のことをリサーチしているのかと啓介は訝しんだが、絶対ありえないことだと心の中で即座に否定した。
拓海は、そんな器用なことをできるタマでもなければ、つまらない面倒なことを安易に引き受ける男でもない。
だが、スッ惚けた朴念仁の拓海にして、イベントを意識した台詞──しかもそういうことに疎い男であることも踏まえると、ものすごいミスマッチに思えて仕方ない。どうにも理解できなくて、納得し難くて、啓介はブツブツと口の中で呟いた。
「………ナニが甘さ控えめなんだか…。…バレンタイン直前の女みてーなコト言ってんの、こいつ自分でわかってっか?」
男にそれとなく食べ物の好みを確認する女は、割と多い。恋愛絡みのイベント前は、特にだ。それは、啓介自身が実体験として知っていた。
「は? あの、…啓介さん、何か言いました? …よく聞こえなかったんすけど………」
「………んでもねえよ」
拓海に聞かせるために言ったわけでもない啓介は、素気なくごまかした。
そんな啓介を不思議そうに見てから、拓海はぼんやりと正面に広がる薄暗い山の風景に目をゆっくりと移した。
──まあ、いっか………啓介さんに特別なヒトがいないってわかったし。それだけでいいや。んなコトよりも、だ。明日の飯だよな………
どうすっかな、と、自分の日常へと思考を一転させていると。
「飯?」
怪訝な顔で、新しい煙草に火をつけていた啓介がこちらを振り返る。
しまった、と拓海は少し恥ずかしくなった。知らぬうちに、拓海は思っていることを声に出していたようだ。
啓介を前にして、耳に聞こえるような独り言を漏らしていたなんて──拓海としても些か羞恥を感じる。
が、少しも気にしていない啓介の素振りに、内心ホッとした。
「あ、いえ…明日親父いねーし、オレ一人なんで、何作ろうかと………」
「…ふーん?」
くわえ煙草で、目を細めてうっすら微笑う啓介の表情は柔らかく、まるで喉を鳴らす猫のようだった。
思わぬタイミングで微笑まれ、少し拓海はドキリとした。
時折、啓介が何を考えているのか、とても気になる瞬間が拓海にはある。現に、今がそうだった。
きつく眦の上がった切れ長の目で、普段はジッと見られるかあるいは睨まれることの多い拓海は、ごく稀に優しい眼差しを啓介から向けられることがあった。そうされると、もうダメだった。途端に自分の心臓は落ち着きをなくすのだ。冷静でいなければ、と思っている時点で、既に自分は冷静ではない。
そして、いつも決まって、そんなふうに啓介に見られる理由は、拓海には全くわからないのである。
今回はどういう理由でこんなふうにオレを見るんだろう、と内心首を傾げ、少しドキドキしながら拓海が黙っていると。
「そういや藤原って、自炊できるんだっけ? …でも、作るっつってもアレだろ。カレーとか、野菜炒めとか…そんなとこだろ?」
啓介は表情を変え、チロリ、と拓海に意味有りげな流し目をくれた。その態度は、頭っから料理がヘタだろう、とナメてかかられているようで。
それは、拓海にとっては非常に心外であった。
実際に御飯を作る機会は少ないけれど、自分の方が父親の文太より旨いメシが作れる、と拓海は密かに自負しているのだった。料理をするのは結構面倒臭いし、自営業のため文太がずっと在宅しているしで、事実はというと大概三度のメシの支度は文太に任せっぱなしなのだが。
料理の腕の方は、少なくとも文太のそれより良い──はずであり、男の割にはマシなつもりである。
「そんなことないです。得意とまでいかないですけど………でも、できますよ」
キッパリと、珍しいくらいに拓海は断言した。
妙に拘って、負けず嫌いの片鱗を見せる辺りが、僅かでもプライドを持っている証拠である。
意外な反応に、へえ、と啓介が眉を上げる。
「…そうなのか? けど、できたところで、かなり大胆な名もない家庭料理とかばっかりなんじゃねえの」
言いながら、啓介が悪戯っぽく瞳を輝かせたのに対し、拓海はムッとして、再びはっきりと否定した。
「…そこまでひどくありませんよ。ちゃんと、作れます」
拓海自身、自分でムキになっていることに何となく気付いてはいた。だが何故こんなことくらいで意地になっているのか、自分でもよくわからない。
すると、啓介は納得していない顔で、腕組みをする。
「………んー、そう言われてもなぁ…。実際想像できねえぜ? 藤原が何か作ってるトコ」
啓介は腕を組んだまま器用に肩を竦め、金髪に近いほどにブリーチした髪を軽く揺らすのに、拓海は思わず断言していた。
「何なら、今度作ってきますよ」
「………は?」
「今度、何か作って持ってきます。………ウソじゃないですから、オレの言ったこと」
少々唇を尖らせて、啓介に向かって言った。
惚けてポカンと口を開けている啓介に、本気ですよオレ、とダメ押しで付け加えた。
ここまで啓介に言い切ったからには、拓海としても、どうあろうと退けない。
前言撤回など、男にはあるまじき行為だ。──どんな些細なことであっても。
…そう、たとえ心の奥底では『なんか、変なコトになったなあ…』などと思っていようとも。
啓介は啓介で、何だか妙な具合に話が流れたな、と内心考えながら、拓海の少し据わった目を見ていた。
暫く二人して、ただ見つめ合う。…別に、その行為に深い意味はない。
と、そこに、離れたところから、拓海を呼ぶ史浩の声が聞こえた。
「…あ、なんか、オレ呼ばれてるみたいなんで…。行きます」
あっさりと、二人の間に漂っていた妙な空気を断ち切り、軽く目礼をしてから、拓海は啓介の横をするりと抜けて去っていく。
啓介は、ただその背中を黙って見送っていた。
──実の所、奇妙な話の展開に、少なからず呆気にとられていた啓介である。
一人残され、誰も近くにいないのにポツリと問い掛けていた。
「──なあ、そんで? 結局オレって、あいつと何の話してたんだっけ………?」
確か最初、話し掛けてきたのは拓海の方からだった。だが、どうにも自分の感覚ではついていけない話であった…ように思う。しかも、最後は拓海が一人でまとめてしまった気がする。
──気がする、じゃなくて実際そうなんだろうなぁ…。この場合、どう考えても。
拓海が何を言いたいのかわからなかったが、聞いてるうちに拓海の反応が面白くなって、少し遊んで煽ってしまったのだけれど。
最終的な、拓海の反応はと言ったら──
「…本気か、あいつ?」
作ってくる、と言っていた。ものぐさ太郎も真っ青の、あの藤原拓海が。
本気にしろ冗談にしろ、拓海のああいう反応は滅多に見られないだろう、と啓介は思った。
急におかしくなる。
啓介はプッと吹き出してから、変なヤツ、とひとしきり肩を震わせ、声を殺して一人で笑っていた。
.....続く
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