act.2-1(side Keisuke)
ふと、目が覚めて。
気付かぬうちに眠っていたことを悟った。
静かな──けれど、音がないわけではないこの部屋。
啓介はもう一度ゆっくりと目を閉じ、耳を澄ませる。
すると、遠くでサアサアと、静かな雨の音が優しく聞こえた。
そして、それに重なるもう一つの水音。
壁一枚隔てた間近から、響く。
水の跳ねる音。
涼しげなそれが、シャワーの音だと気付く。
それと。
…サラリとした、己の肌の触感。
掌で体を撫でてみると、汗と体液の残っていそうな箇所も、少しもベタついてない。
何故なのか、と思考を巡らせようとした時に水音が止まり、啓介は僅かに身構えた。
咄嗟に、目を閉じる。
特に理由はなかった。
人の気配。
目を瞑っていても、静寂が支配するこんな密室では、明らかにそれとわかる。
間近に来れば尚のこと、息遣いや、体の動きに伴う微かな空気の移動を感じる。
彼が近付けば、それだけ意識が集中する。
自分の様子を窺っているようだということは、何となくわかった。
今──視覚以外の全感覚を用いて、啓介は拓海の気配を追っていた。
見られている。
けれど、それだけというのは、ものすごく居心地が悪い。だからと言って、他の何かを期待しているのでもない。
眠っているフリをしてしまった手前、何をどうすることも今はできなくて、そろそろ目を開けようかと啓介が思った時だった。
また、自分の名前を呼ばれた。
小さく囁く声に、啓介は返事をしなかった。
自ら狸寝入りだとバラす真似は、できない。それ以前に、何も言う気がしない。
繰り返される言葉は。
台詞ではなく、固有名詞。
だが、自分を呼んでいるのでもない。
口調が違う。
声のトーン、ゆっくり音を辿る舌。
静寂を壊すほどではないのに。
啓介の心臓に、揺さぶりをかける。
何度か、同じように呼ばれて。
今度こそ、堪えられなくなった。
「何だよ…?」
啓介の掠れた問いかけは、彼の声とは反対に、いやに大きく響いた。
act.2-2(side Takumi)
拓海は、音を立てないように、ドアを静かに開けた。
ドア越しにベッドを見やり、啓介が未だ起きていないことに安堵した。
息を潜めながら、ベッドサイドまで歩を進める。
すぐ傍らで足を止め、立ったまま啓介の端正な顔をじっと見下ろした。
朱色に染まる、腫れぼったい目尻。多分涙を流したからだろうそれに、拓海の心が少し軋んだ。
どれほど痛々しくても、自分は途中でやめたりはしなかった。
赤い目元は、苦痛ゆえの生理的な涙の名残。
その時の啓介の、苦悶の表情を思い出す。
…後悔してはいない。
たった一度でも。
成りゆきで…無理矢理でも。
二度と、叶わなくても。
拓海は、安っぽい絨毯の敷き詰められた床に、膝をついた。
気配を出来るだけ殺して。
「啓介さん………?」
眠りを妨げないよう、小さく呼ぶ。
動かない啓介にホッとして、啓介の顔を見つめた。
間近でじっくりと見る機会は、殆どなかった。
…眦の上がった目が閉じられているだけで、随分と大人しい印象。薄目の唇は引き結ばれ、頬のラインが緩やかなカーブを描いている。
表情豊かな彼が眠る姿は、いつもとは別人のようだった。
目を覚ますまでの限られた時間だけ、こうやって見ることが許される。
拓海は、彼に触れたくなる衝動に駆られるのを、幾度となく押し殺した。
──多分、これは深い眠りではない。触れれば、きっと目を覚ます。そうしたら………
その先を考えることを、拓海は最初から放棄していた。
「…啓介さん」
再度の呼びかけに、やはり啓介からの答えはない。
寝顔をもっと近くで見たくて、そっと覗き込んだ。
温かさが、間近にいると空気を介して少しだけ伝わってくる。
触れる寸前まで近づいて、拓海は目を伏せた。
どうしても消せない感情。
どうにもならない結末。
…二つがぶつかりあう、ジレンマ。
彼の意思を無視し、許しを乞う気もない自分。
その自分に、彼から下される断罪。
自分は、今それを待っているのだ。
啓介が目覚める時が、幕引きの合図。
爆発しそうな感情が心の中で渦巻いていて、それを彼に断ち切ってほしいと思う。身勝手は承知の上で。
………自分で、コントロールできない。だからこその、この現実。
自分は、こんなにも利己主義な人間だったのだ。
「…啓介さん………」
震える吐息とともに、拓海が小さく呟いた。
次の瞬間、意識のないはずの啓介の、掠れた声が耳に届いた。
拓海はギクリと身を強張らせ、慌てて上体を起こした。
.....続く
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