欲-epilog1- 

2000.12.10.up

act.2-1(side Keisuke)

 ふと、目が覚めて。
 気付かぬうちに眠っていたことを悟った。
 静かな──けれど、音がないわけではないこの部屋。
 啓介はもう一度ゆっくりと目を閉じ、耳を澄ませる。
 すると、遠くでサアサアと、静かな雨の音が優しく聞こえた。
 そして、それに重なるもう一つの水音。
 壁一枚隔てた間近から、響く。
 水の跳ねる音。
 涼しげなそれが、シャワーの音だと気付く。
 それと。
 …サラリとした、己の肌の触感。
 掌で体を撫でてみると、汗と体液の残っていそうな箇所も、少しもベタついてない。
 何故なのか、と思考を巡らせようとした時に水音が止まり、啓介は僅かに身構えた。
 咄嗟に、目を閉じる。
 特に理由はなかった。
 
 
 
 人の気配。
 目を瞑っていても、静寂が支配するこんな密室では、明らかにそれとわかる。
 間近に来れば尚のこと、息遣いや、体の動きに伴う微かな空気の移動を感じる。
 彼が近付けば、それだけ意識が集中する。
 自分の様子を窺っているようだということは、何となくわかった。
 今──視覚以外の全感覚を用いて、啓介は拓海の気配を追っていた。
 見られている。
 けれど、それだけというのは、ものすごく居心地が悪い。だからと言って、他の何かを期待しているのでもない。
 眠っているフリをしてしまった手前、何をどうすることも今はできなくて、そろそろ目を開けようかと啓介が思った時だった。
 また、自分の名前を呼ばれた。
 小さく囁く声に、啓介は返事をしなかった。
 自ら狸寝入りだとバラす真似は、できない。それ以前に、何も言う気がしない。
 
      繰り返される言葉は。
      台詞ではなく、固有名詞。
      だが、自分を呼んでいるのでもない。
      口調が違う。
 
      声のトーン、ゆっくり音を辿る舌。
      静寂を壊すほどではないのに。
      啓介の心臓に、揺さぶりをかける。
      何度か、同じように呼ばれて。
      今度こそ、堪えられなくなった。
 
「何だよ…?」
 啓介の掠れた問いかけは、彼の声とは反対に、いやに大きく響いた。
 
 
 
 
 
act.2-2(side Takumi)

 拓海は、音を立てないように、ドアを静かに開けた。
 ドア越しにベッドを見やり、啓介が未だ起きていないことに安堵した。
 息を潜めながら、ベッドサイドまで歩を進める。
 すぐ傍らで足を止め、立ったまま啓介の端正な顔をじっと見下ろした。
 朱色に染まる、腫れぼったい目尻。多分涙を流したからだろうそれに、拓海の心が少し軋んだ。
 どれほど痛々しくても、自分は途中でやめたりはしなかった。
 赤い目元は、苦痛ゆえの生理的な涙の名残。
 その時の啓介の、苦悶の表情を思い出す。
 …後悔してはいない。
 
      たった一度でも。
      成りゆきで…無理矢理でも。
      二度と、叶わなくても。
 
 拓海は、安っぽい絨毯の敷き詰められた床に、膝をついた。
 気配を出来るだけ殺して。
「啓介さん………?」
 眠りを妨げないよう、小さく呼ぶ。
 動かない啓介にホッとして、啓介の顔を見つめた。
 間近でじっくりと見る機会は、殆どなかった。
 …眦の上がった目が閉じられているだけで、随分と大人しい印象。薄目の唇は引き結ばれ、頬のラインが緩やかなカーブを描いている。
 表情豊かな彼が眠る姿は、いつもとは別人のようだった。
 目を覚ますまでの限られた時間だけ、こうやって見ることが許される。
 拓海は、彼に触れたくなる衝動に駆られるのを、幾度となく押し殺した。
 ──多分、これは深い眠りではない。触れれば、きっと目を覚ます。そうしたら………
 その先を考えることを、拓海は最初から放棄していた。
「…啓介さん」
 再度の呼びかけに、やはり啓介からの答えはない。
 寝顔をもっと近くで見たくて、そっと覗き込んだ。
 温かさが、間近にいると空気を介して少しだけ伝わってくる。
 触れる寸前まで近づいて、拓海は目を伏せた。
 
      どうしても消せない感情。
      どうにもならない結末。
      …二つがぶつかりあう、ジレンマ。
      彼の意思を無視し、許しを乞う気もない自分。
      その自分に、彼から下される断罪。
 
      自分は、今それを待っているのだ。
      
 啓介が目覚める時が、幕引きの合図。
 爆発しそうな感情が心の中で渦巻いていて、それを彼に断ち切ってほしいと思う。身勝手は承知の上で。
 ………自分で、コントロールできない。だからこその、この現実。
 自分は、こんなにも利己主義な人間だったのだ。
「…啓介さん………」
 震える吐息とともに、拓海が小さく呟いた。
 次の瞬間、意識のないはずの啓介の、掠れた声が耳に届いた。
 拓海はギクリと身を強張らせ、慌てて上体を起こした。



.....続く     

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