ぬるま湯にたゆたうような、茫洋たる意識の中は、まるでモノトーンの濃淡だけの、至って平坦な世界。
藤原拓海にとって、変化の激しさは好むところではない。
よって、過ごす日々もそれに相応しく平和そのもの。もちろんそれに、さしたる不満はなかった。
が。
その中に、半年ほど前から、極彩色を放つ存在が一つできた。
無視することを許さない、その鮮烈さ。
一度目にすれば、まともにぶつけられる鋭い眼光が網膜に焼き付いて離れず。
直接接すれば、その直情的で激しい感情の波に浚われて。
目を奪われる──どころではなく。
気が付けば、心もすっかり奪われていた。
高橋啓介、という名の人物に。
* * *
「っとにトボけたヤローだぜ、てめーは」
啓介が不満そうに眉を顰め、じり、とこちらににじり寄ってくる。
拓海はその表情をチラリと見、気付かれないように嘆息した。
──絡み酒。
そうとわかっていれば、酒など勧めなかったものを、と自分の軽率さを恨んだ。そして、それを先に教えてくれなかった他の面々にも、胸中でちょっとだけ文句を垂れた。
プロジェクトDの初遠征と初勝利。
始まったばかりで全てはこれからなのだが、長い道のりの第一歩において成功を収めたことは、メンバー全員にとって、祝杯をあげるに足る出来事だった。
誰が言い出したのかは定かではない。が、あれよあれよという間に、酒やら食料の買い出し部隊が結成され、宿泊している部屋に集まり、無礼講が始まったわけである。…場所柄ゆえ、少々音声を低めにしての。
チームリーダーたる涼介の反応は、微苦笑を浮かべて肩を竦めるというもので。
それは即ち、承諾の印だった。明日が祝日で、誰もが予定のない日であることを、涼介がきちんと踏まえてのことである。
そして現在、小一時間が経ったところであるが──
拓海は手にした日本酒をちびちび舐めながら、無言で隣の人物に意識を向けた。
はっきり言って、向けざるを得ないのだ。先程から何だかんだと絡んできては、すぐ側でビールを盛大に煽っている。最初の方こそ、酒量が多くなれば眠くなって静かになってくれるかも、と期待していたが、その予想は大幅に外れてしまった。絡み酒と知った今は、啓介にあまり飲んで欲しくない。
これ以上酒が入ったら今以上に自分に絡んでくるんじゃないかと、そういう懸念を抱いているのだ。
現に、今もじりじりと近付いてきているではないか。
「もう、あんまり飲まない方がいいんじゃないですか?」
拓海は、当たり障りのないと思われる方向に話を持っていった。
「ぁに言ってんだよ、こんなん序の口じゃねーか! ………何だ、その不満そうな目つきは」
「…別に、不満てわけじゃ………」
「じゃー、一体何なワケ」
「………」
啓介は、いちいち拓海の言葉尻を取ってくる。さっきからずっと、答える必要も感じられないような会話ばかりで、拓海はガクリと頭を垂れ、はあ〜っと大きく溜息を吐いた。
「ああ〜? てめー何だァそのワザとらしい溜息は!」
ずしっ。
と、啓介に、斜め後ろから肘を肩にのせられ、拓海の体は少々前のめりになってグラリと揺れた。
…瞬間高鳴り始めた鼓動に対し、拓海は意識的に無視を決め込む。
「………啓介さん、重いっす…」
その様子に、拓海の反対側の隣に座っていた、ハチロクのメカニック担当・松本がクスクス笑う。
「懐かれてるなあ、藤原」
はあ? と拓海は心外だという顔を見せた。
「………懐くってのとは、なんか違うんじゃないすか………?」
げんなりと、疲れた声で反論する拓海に、史浩が返した。
「いやー、ホント懐いてるって。…しっかし驚きだな、いつも藤原のこと敵対視してるのに」
少し目を見開き、後半部分を独り言のように呟く史浩に、確かにそうですね、と松本が頷く。
その会話が聞こえているのかいないのか、啓介はそれに反応することはなく、肘を支点に拓海へと体重を預けた態勢で、酒を飲んではつまみをばくばく食っている。
晩飯からこっち、そう時間は経っていない。なのに、よくもこれだけ飲み食いすることができるものだと、拓海は啓介を横目で見て、別の意味で感心した。
「啓介が涼介以外に絡んでるの、初めて見たな、オレ」
史浩の発言に、え、と拓海は思わず正面にいる涼介を見やった。
すると、涼介はチラリと啓介と拓海を見、クスッと笑った。
「…だな。オレはまあ、こうなることは予想してたけど…。と、いうわけで、藤原。がんばって構ってやってくれ。大型犬に懐かれてるとでも思えばいいから」
にこり。
完璧な微笑みを向ける涼介に、拓海は少しどぎまぎしながら、本気で言ってるのだろうか…と判断に迷った。
「だーれが大型犬だ、アニキっ! そういうことは聞こえるように言うなよな!」
「この際、自覚してもらおうと思ってだな…」
──大型犬。イメージぴったり………
「なにおぅっ?」
ぐるんと、啓介は涼介ではなく拓海の方に向き直った。
「へ…?」
「今ピッタリだとか言っただろ?」
拓海は聞こえないように呟いたつもりだったのだが、どうやら啓介は相当耳が良いようだ。…不覚である。
「い、…言ってません………」
「いいや、確かに聞いた!」
──ついさっきまで涼介さんに突っかかってたのに、何でまたオレに………?
拓海は助けを求めて涼介や史浩にそろりと視線を送ったが、歓談していて既にこちらに意識を向けてはいなかった。反対隣の松本は、啓介のメカニック担当と楽しくお話に花を咲かせている。
ふう、と拓海は一息吐いた。
啓介のことを涼介がああ言うならば多少の羽目外しは許されるかな、と思い、日本酒の入ったカップを目の高さに持ってきて、はい、と啓介に言った。
──酒量なんか、もう考えないでいいや。
拓海は、大人しく啓介に付き合うことに決めた。
「あ? 何だそりゃ?」
「…これって祝勝会なんでしょ? だから、乾杯。…勝ててよかったですね」
啓介は一瞬目を丸くして、次いで嬉しそうに目を細めて笑った。
思いがけない鮮やかな表情に、拓海は思わず見惚れてしまう。
「今更だけど──お互いにな」
カチン、と鳴る音は、缶とガラスとで、少しだけ鈍く聞こえた。
.....続く
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