夜の闇の中、あまり人通りのない駅前のロータリーからこちらに向かって足早に駆けてくる人、一人。
その姿を見、 拓海は口元を綻ばせた。
「…っ悪い、遅れた」
はあ、と涼介は、一つ大きく息を吐いた。
信号にひっかかるまいと少し走ったため、多少息が切れている。
そんな涼介に、拓海は小さくクスリと微笑んだ。
「別に、そんな遅れてはないですけど………それより、大丈夫ですか?」
これ、と言ってそっと手を差し伸べ、涼介の髪を一房掬った。
いつもサラサラとしていて気持ちの良い漆黒の髪は、先程から降り出した雨に濡れてしっとりとしており、触れた拓海の指先を湿らせた。
「結構濡れましたね。降り出して間もないのに」
「そうなんだよな…。油断した」
チッ、と小さく舌打ちをして、涼介は濡れた自分の前髪を指で梳いてみた。そうすると、明らかに水の感触があり、掌の濡れた箇所からは多少なりと熱が奪われていく。ふと己の姿を見れば、着ている服も幾分か水滴を弾いていて、何となく衣類が重たくなったような気さえする。
雲が厚くなってきているようだが、あと暫くは保つだろう──
迂闊にもそんな判断をしてしまった自分のツメの甘さを、涼介は少し呪った。
「…涼介さん」
「ん?」
呼ばれて問い返してみると、返事の代わりにふわりと近付くものがあった。
涼介の視界がやや暗くなる。
肩に手を置かれ、目の前には拓海の首筋から胸元あたりがドアップで見えて。
いきなりの拓海の行動に、涼介はドキリと胸が高鳴った。
「うん。やっぱ、雨の匂いがする………」
拓海は、くんくんと動物のように涼介の前髪を嗅ぎ、囁くように呟いた。
──………これって、まるで瞼か額にキスしてるみたいなラブシーンに見えなくもないと思うんだが、藤原…お前わかってるのか?
きっとわかってない、無意識の行動なんだろうな、と涼介は僅かに鼓動の速まった心臓を持て余し、苦笑した。
拓海の鈍さは今に始まったことではないし、おそらく彼を知る人間全員が認めるところでもある。現に、彼は意外と周囲の目を気にするタチだというのに、時々鈍感さの方が上回るのか、人がいるにも関わらず自覚もなしに大胆な行動に出ることがあるくらいなのだ。
…どうも、今はその場合に当てはまるようであった。
尤も、この時間帯では、駅の改札口といえども人気はなきに等しかったし、男同士でラブシーンも何もあったものではない、とも思うのだが。
そのまま放っておくと、気が済んだのか、拓海が涼介から離れる気配があった。
──と、その時。
一瞬、拓海の唇が涼介の瞼に押し当てられた。
──………えっ?
乾いた、柔らかいぬくもり。
まさに、一瞬。コンマ一秒ほどの。
それでも、涼介は度肝を抜かれた。
涼介の肩から手を下ろし、あっさりと身を離した拓海は、照れ隠しなのかそっぽを向いて早口に言った。
「…本降りにならないうちに、早く行きましょう。オレも傘持ってないし」
涼介から顔を背けているので、その表情は見えない。
──今、藤原がどんな顔してるのか、オレとしてはすごく見たいんだけど………
ある程度の予想はつく。だけど、この目で見てみたい。
「………ああ。じゃ、行こうか」
「…はい」
”背を向ける”とまでいかないが、少なくとも涼介に顔を見られないように、拓海は軽く頷いて返事をした。
──藤原の顔、見たいけど………見れなくて正解だな。
拓海が振り向けば、その表情が見られる。だが、同時に、涼介の顔も彼に見られてしまう。
それはちょっと、今だけは遠慮願いたい。
何故なら──
触れられた箇所がくすぐったくて。
たったこれだけで、こんなに気持ちが浮き立っていて。
それ故に緩んでしまう頬を抑えられなくて。
…そういう感情が、多分全部顔に出ているだろうから。
だから、今拓海が振り返らないのは、涼介にとってはある意味好都合なのだ。
でも──こういうのは。
反則だぞ、藤原。
純粋に嬉しい反面、些細な行為で動揺させられたことをちょっぴり悔しく思いながら、意図せずして自分を振り回す男の横顔を、涼介は盗み見た。
丁度今、駅構内から屋根のない外に出ようとしているところであり、涼介の傍らで空模様を窺っている拓海はまだ雨に濡れてはいない。
けれど、一歩足を踏み出せば、今の涼介同様に水気を帯びるわけで。
だから、雨に濡れない場所まで移動したら、その時に確かめてみようと涼介は思っている。
拓海の細くて柔らかい髪の、水に濡れて茶色から焦げ茶に変わったところを一掬いして匂ったら、雨の匂いがちゃんとするかどうか──
その後はきっと、自分も拓海と同じように触れたくなるだろう、ということまで想像できてしまう。
──自分がそうした時の藤原の反応は、一体どんなだろうか。
思わず含み笑いを漏らす涼介に、拓海が気付くことはなかった。
END
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