リズミカルにキーボードを弾く音が耳に入ってくる。
長い指の先が器用に動くのを、遼は壁に背中を預け、座って眺めていた。手持ち無沙汰なので、近くにあった枕を手元に引き寄せて腕に抱く。
視線の先はパソコンの前の当麻。寝ぼすけの彼が自分より早く起きていることなんて、過去にあっただろうか。
終わりの見えない軽やかな指捌きは、彼の機嫌も上々なのだと物語っているかのようだ。
暫く当麻を見てから、遼は口を開いた。
「当麻、何やってんだ?」
「…あ、すまん。起こしたか」
──いや、それは別にいいんだけど。
声に出さず返事をして、振り返りもせず作業を続けている当麻の背を眺め続けた。
ほんの時折指が止まり、考える素振りを見せてから、また暫くキーを叩き続ける。指の動きだけを見ていると、何か有鍵楽器の鍵盤でも弾いているんじゃないかと錯覚してしまう。
「珍しいよな〜。当麻が俺より早く起きてることって、今までなかった気がする」
──それで、今は一体何のことで賢い頭を一杯にしてんだろ。
気になって当麻に聞くと、説明されても全然わからない小難しいことばかりということがかなり多い。だが遼は、それでもめげずに、気になった時には最低一回は必ず聞いてみることにしている。
わからなくても少しでも知りたいんだから仕方ないじゃないか、と遼が誰にともなく心の中で言い訳をしていると、当麻はクスリと小さく笑う。
「遼より先に、俺が起きる? 事実なら『珍しい』を通り越して『奇跡』だな。別に俺は早起きしたわけじゃない」
そうやって喋りながらも、形の良い指は変わらずキーボードの上を滑るように動き続けている。
こんなふうに会話とパソコン操作を同時にやってみろと遼が言われたら、今の当麻のようには絶対にできない。その点、当麻は本当に器用だなと感心する。
「でも今、現に起きてるじゃないか」
「単に昨日から寝てないだけだ」
夕べ横になった時の横顔から、しっかり寝入ったと思い込んでいた遼は、目を丸くした。
暇さえあればしょっちゅう惰眠を貪っている当麻が忙しくもなかったのに眠れていないとは、何事だろう。不健康だと咎めたり体調を心配するよりも、驚きの方が先に立ってしまう。
未だこちらを振り返らないでパソコンと相対している背中に向かって、思わず問い掛けた。
「ホントに? 全く、全っ然、眠ってないのか?」
何かに没頭している時を除いては、ベッドに入れば一分と経たず安らかな寝息が聞こえるのが当麻の常である。昨晩はというと、読書といえば新聞を読む程度だったし、パソコンと睨めっこしてもいない筈だ。悩みを抱えているふうでもなかった。
「んー……」
当麻からは生返事しか返ってこない。
遼が首を傾げて不思議に思うその間も当麻の指は動き、様々なキーを弾く。キーを押した分だけ文字なり記号なりが画面一杯に映されているのだろうが、当麻の身体に隠れていて遼の位置からは見えなかった。
遼は腕に抱いていた枕を手放し、ベッドから下りて当麻の背後に歩み寄った。
これだけ近付いても反応を返さない当麻に、えいっと両腕を後ろから胸元に巻き付けるように回す。肘を肩辺りに当てて軽く体重を掛けてじゃれついてみると、腕の中の身体が身じろいだ。
「遼」
邪魔をするな、と当麻が身体を捻って咎め、背後の遼を斜睨む。
だが、本気で嫌がっているのではないとわかるから、些細な抵抗などお構いなしに、遼は質問の答えを督促した。
「眠れなかったって何でだ? 考え事でもしてたのか?」
拘束する腕がなかなか外れず、当麻は溜息を吐いて諦め、身体の力を抜いた。
「…少しな。それに、誰かさんのおかげで寝床も狭かった」
遼は、むっつりと口をへの時の曲げて無言で抗議する。
「冗談だよ、ムクれんな」
からかいを含んだ声音がすぐ傍で聞こえ、当麻の胸元で交差していた遼の腕を宥めるように撫でられる。
残る感触は温かくて擽ったかったが、子供扱いされたと感じた遼は仕返しにぎゅうっと当麻の首回りをきつく抱き締めた。
「ちょっ…、バカ、力を加減しろッ、苦しいだろうが」
「…これでも少しは加減してる」
「…………あのな」
呆れた声が聞こえてくるが、響きは何となく優しい。
ちょっとした我侭を言う時、他愛ないことで少しだけ我を通した時、仕方がないなと折れてくる当麻はいつもより優しいと遼は思う。
本人は気付いていないんだろうな、と良い気分に浸りながら、心持ち力を緩めてじっとしていると、不意に当麻が口を開いた。
「…ある程度まとまったら、一番にお前に教えてやるよ」
「え?」
「こいつの中身。知りたいんだろ?」
コツコツと指でパソコンを叩きながら向けられた微笑みに、それが最初にした質問の答えなのだと、ようやく気付く。
「──ああ。絶対、一番にだぞ」
「了解。…だからな、遼、今みたいに不用意にあまり俺にくっついたりするなよな」
「何で?」
「お前に欲情するから」
妙なことをいきなり口走る当麻に吃驚して、目をぱちぱちさせて蒼い瞳をじっと見つめる。
からかい混じりなのは視線だけ。結構本音の入った台詞のようだ。が、しかし──
「俺は構わないぜ」
「……へ?」
間の抜けた声が上がるのを完全に流し、当麻に言い聞かせるように、遼の余裕な発言は続く。
「だってそうだろ。当麻がどんなこと考えてたって、俺が嫌だと思うことは絶対しないってわかってるもんな」
自信満々に断言して、遼は当麻ににこりと笑った。
当麻は何か言いたそうな表情をしているが、結局何も言わない。
その様子を見、楽しそうに目を細めてクスクス笑う遼に向かって、少しの間黙っていた当麻は苦々しく呟いた。
「可愛くなくなったよな、お前……」
「当麻が悪いんだぜ。そういう冗談ばっかり言われたら、いくら俺でも免疫つくよ」
じゃコーヒーでも入れてこようかな、と案外あっさり手を離した遼を、当麻が思わず目で追った。
すると、少し上がった顎に指が添えられ、素早く触れるだけのキスが唇に降りてくる。
呆気に取られた当麻は、ご機嫌にさっさと身を翻す遼の背中をぽかんとしたまま無言で見送ってしまう。
姿が完全に見えなくなってから、恨みがましい目つきでその方向を睨んだ。
「…ホンット、ヤな奴」
からかうつもりが逆にからかわれては、全く以て割に合わない。
不機嫌と羞恥を混和させた奇妙な表情で、当麻は文句を言いながらパソコンの電源を落とした。
終
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