雨が降らない日の方が珍しくなって来た6月中旬。
数日前にかかって来た史浩の電話に指示された通り、拓海はいつも行っているファミレスに足を向けた。
今日は文太にハチロクをとられたしまったので、傘をさし、公共の交通機関で来た拓海のジーンズの裾はすっかり雨に濡れてしまっている。
彼が歩く度に、足元で跳ねる小さな水飛沫が、水で重くなった彼の足をまた重くしていた。
「いらっしゃいませー」
1階は駐車場、2階は店舗、という造りになっているファミレスのドアを開ければ、拓海は外の雨などとは比べ物にならないような明るい店員の声に迎えられ、一度ぐるりと店内を見回した。
それらしき人影がないのを確認して、その後自分の腕時計にも目をやる。
すると、指示された時間までは、まだ20分ほど時間があった。
どうやら、今日は珍しく一番に着いてしまったらしい。
プロジェクトDのメンバーは誰も店内にいなかった。
「お一人さまですか?」
ボケっと突っ立っているだけになっていた拓海に、ウェイトレスが笑顔で声をかけた。
セミロングのストレートヘアーが綺麗な、小柄な女性である。
「っと…、後で5人ぐらい来ると思うんだけど」
「6名様でよろしいですか?」
「まぁ、それぐらいで」
「かしこまりました。お席にご案内致します」
最後まで笑顔のままで話し、彼女は拓海を席まで案内した。
向かい合わせに3人ずつ座れる、比較的ゆったりした、窓際の席。
しかし6人掛けのそこに、拓海一人で座っているのはどこかむずがゆかった。
「先にお飲み物だけでも、伺いましょうか?」
また可愛らしい笑顔を拓海は向けられたが、そんな事になどまるで無頓着な彼はドリンクのメニューを一通り見てから、けっきょくいつも通りアイスコーヒーを注文した。
メニューを見ようが見まいが、拓海がコーヒー以外のものを頼むことはほとんどない。
本当にごく稀に、清涼飲料を頼むとき以外は…。
「アイスコーヒーだけでよろしいでしょうか?」
「うん」
かしこまりました、と食べ物のメニューだけを残して、なかなか美人のウェイトレスは拓海の前を後にした。
拓海がアイスコーヒーで渇いた喉を潤しながら眺める街中の様子は、雨の中で色々な色の傘が走ったり歩いたりしていて、少しだけいつもよりも楽しいものになっていた。
つい、メンバーの車が通ってファミレスの駐車場に入っても、全く気付かないほどに、拓海は外を見る事に躍起になっていた。
「よぉ、藤原ーっ!」
いつもよりも随分早く、今日のミーティングにはスタッフが揃った。
と言っても、啓介は指示された時間より少し遅れて来たのだが……。
「何スかー?何でそんなにテンション高いんスか、啓介さん」
「いや、別に普通だぜ?」
いつでもどこでも、自分の気分が良い時はかなりハイテンションになって挨拶してくる啓介に、拓海は軽く溜息をついた。
本当に軽く軽くついたつもりだったのだが、啓介にはしっかり聞こえていたらしく…。
「あ、お前今俺に向かって溜息ついただろ?」
しっかり突っ込まれた。
「ついてませんよー。ちょっと深呼吸しただけで…っていて!」
バレバレの嘘をつきかけたところで、拓海は啓介に手を縦にして振り下ろされた。
脳天直撃の、チョップ攻撃である。
これが手加減したものならまだしも、啓介の場合常に本気であるため、かなり痛い。
「ってぇ……、ちょっとは手加減してくださいよ、ホントに痛いんですから」
「バレバレの嘘をつこうとするお前が悪い」
「あんたがこういう事してくるからこっちだって嘘つきたくなるんだろ?」
「あぁ?何だと〜?」
二人の間に軽くバチバチとプラズマが飛び始めるかと思われたとき、史浩の声が二人を制止させた。
「はいはい、そこまで。二人とも躍起になりすぎだ」
落ちついた様子の史浩に止められ、二人の間のプラズマは消える。
それぞれのメカニックも、「その通り」と顔に書いたまま、うんうんと頷いている。
「藤原、お前は小さな子供じゃないんだから」
と、松本が声に出して言えば。
「啓介さんもそんなにムキにならなくて良いでしょう?」
と、啓介専属のメカニックもメガネを吹きながら啓介をたしなめた。
「どうかしたのか?」
二人が反省の色を顔に浮かべると同時に、それまではその場にいなかった人物の声が響いて場の空気を一掃した。
「アニキ」
「涼介さん」
二人が声を発したのは、ほぼ同時だった。
「涼介、お前の弟をもう少し大人になるようしつけてくれ」
溜息混じりに史浩に言われ、涼介はわけが分からない、と首を傾げる。
「藤原と対等に喧嘩してるんだからな。とても20超えたようには見えん」
啓介に向き直り、少し眉をしかめながら涼介は苦笑した。
当の啓介と拓海はお互いそっぽを向いたように、視線を合わせようとしない。
「啓介も藤原も、ほどほどにしとけよ?また史浩の胃薬の量が増えてしまうからな」
ただ単に諌められるのよりも、怖い言葉をさらっと吐き、涼介は拓海の前に腰を下ろした。
いきなり自分の名前が出た史浩は、またきりきりと痛み出した胃のあたりを押さえながら、鞄の中の小瓶を探る。
かくして、この日のプロジェクトDのミーティングは始まった。
一際窓を打ちつける雨音が大きくなったのに気付き、拓海は窓の外へ目をやった。
もう大分前に飲み干してしまったアイスコーヒーのグラスを、意味もなく傾けて音を鳴らす。
からん、と高い音を立てて氷が揺れ、小さい雫がグラスを伝ってテーブルに落ちた。
外に降る雨は拓海がこのファミレスへ入って来たときよりも雨足を増し、窓を打ちつける雨の音もするどく大きくなっている。
「すごい雨だな」
拓海の前に座る涼介が、とつぜん拓海に声をかけた。
少しの沈黙があった後だったのでいきなり涼介に話しかけられたのを、拓海は初め気付かなかった。
誰か、他の人物に話しかけたのかと思ったのだ。
「え、あぁ、そうですね」
しかし一度周りを見回してみれば、メカニック二人は大方のミーティングが終わってからは所用で帰ってしまったし、啓介はちょうど用を足しに席をたっている。
史浩も大学の用事があるらしく、つい先ほど席を立ってしまった。
「藤原は今日、車じゃないのか?」
次の遠征先のコースがプリントアウトされた資料に目を通しながら涼介が問う。
「違いますけど。どうして知ってるんですか?」
今日拓海が愛車に乗って来ていないことは、涼介に会ってから一度も言っていないし、もちろんミーティング中にそんな話になったわけでもない。
「駐車場になかったからな、お前の車」
あぁ、なるほど。
と、拓海は無言のうちに小さく頷いた。あまり感情が表情に現れない拓海のことを涼介は理解していたので、言葉になって出て来なかった言葉を、読み取ったらしい。
低く腹に響くような音を聞いた気がして、拓海は再び窓の外へ目を向けた。
空には重い色をした暗雲がたちこめ拓海が聞いたその音の主が、一瞬目をくらませる。
「雷か…藤原、お前歩いて帰れるのか?」
涼介が拓海の顔を覗きこむように少し首を傾げた。
「何なら送っていってやろうか?」
「え、いいですよそんな!!」
涼介の申し出に、普段見せないほどの早さで拓海は否定の言葉を返した。
「そんなの悪いじゃないですか。別にバスも電車もあるし、雨もやむかもしれないし」
「明日まで降り続くぞ、この雨は」
即答に近いほどすかさず返され、拓海はうっと言葉に詰まってしまう。
「遠慮するな。送って行ってやるさ」
けっきょく、涼介の申し出に拓海は首を縦に振ったのだった……。
「あ、次の角を右にお願いします」
いつもは見ているだけだったFCの助手席に座り、拓海は運転席に座る涼介を眺める。
ときおり自分の家までの道を涼介に告げながら、ギアを変える手つきや慣れたハンドルのさばき方、クラッチやアクセルを踏む一挙手一動に見入ってしまっていたのだ。
「けっこう距離あるじゃないか。歩いて来たんだろ?」
信号が青に変わったところで、比較的大きな交差点を指示された通り涼介が右に曲がる。
「え、一応バス乗り継いで来ましたよ。電車乗ったら早いんですけど、俺金ないんで」
車に乗れるようになってから、バスや電車などめったに使わなくなった拓海は今日かなり戸惑ってバスを乗り継いだのだ。
まさか家から最寄りのバス停まで迷ったわけではないが、バスを乗りかえるときに乗り場をすっかり忘れてしまっており、バスターミナルを一回りした挙句けっきょく分からずに、止まっているバスのドライバーに尋ねた……。
もちろん、そんなことまで涼介には喋らなかったが。
雨の勢いは時間を増すごとに強く激しくなり、フロントガラスにかかる雨粒を一掃する為、ワイパーがせわしなく動いている。
「梅雨と言えど、久しぶりだなこんな雨は」
涼介から提供された話題に、拓海は不自然な答えにならないよう注意して答えた。
「そうですねぇ。あ、洗濯もの溜まってたのになぁ…」
もう涼介と出会い会話を交わすようになってから1年近くの年月が流れているのに、いまだ拓海は涼介とまともな心理状態で会話できたことがない。
たとえばイツキとなら、目を合わせて会話することもできるし、会話しながら話の流れを考えることができる。
同じ兄弟でも、啓介とならそれなりにとんとん拍子に進む会話をすることもできる。
ファミレスで涼介が来る直前までしていたように、喧嘩をすることだってできるのに。
何故なのか涼介とはただの一度もまともに喋ったことがないのである。
ちらり、とハンドルを握りつつ雨が打ちつけるフロントガラスを見つめる涼介を、拓海は盗み見た。
まじまじと眺めると、改めてその整い過ぎた顔立ちに見入ってしまうのだった。
すっと通った鼻筋は高すぎず低すぎず上品で、切れ長ぎみの目は常に涼しげな印象を人にあたえる。そして何よりも拓海が気になるのは……。
額に落ちかかる前髪の黒さを際立たせている、肌の白さなのだ。
夏も近くなり、空に雲が出ないときはほとんど真夏に近い陽射しが降り注ぐため、屋外に出て働くことの多い拓海などはだいぶ日焼けしている。
大学生ということで、屋内にいることが明らかに多いだろう涼介だがしかし、少しぐらい肌の色が変わっても良さそうなものなのに。
冬の時期とほとんど肌の白さは変わりない。
陶器を思わせる、木目の細かさもとても男とは思えない…。
「涼介さんって、肌綺麗っすよね」
「……は?」
一瞬、FCの中の空気が凍りついた。
だがその事に気付いたのは涼介だけで、拓海は信号にひっかかった為に自分の方を向いた涼介を何ら表情を変えることなく見つめている。
その視線はまるで、無邪気な子供そのものである。
「いや、ずっと前から思ってたんスよ。涼介さんの肌って綺麗だなぁって」
「……そう、特別に綺麗なわけじゃないだろう」
毎日時間をかけて手入れしているわけでもなし…。
と、涼介は苦笑しかけたのだが、拓海の次の行動にはかなり敏感に反応した。
否、せざるを得なかった。
助手席に座っている拓海の右手がそっと、涼介の左頬を包むように伸ばされたのだ。
親指以外の4本の指が涼介の顎のラインをそっとなぞり、まるで何事もなかったかのようにするりともとの位置に戻る。
その間、わずか2秒。
だがしかし、男同士としては当然不自然その行動に、車内の空気は一層温度を低くしたのだった。
完全に固まってしまった涼介を、拓海はまるで他人事のようにぽかんと眺めている。
「涼介さん」
それからまた数秒経ったときに、拓海が先に口を開いた。
「信号、青ですけど」
言われて、ふと涼介が視線を前に戻してみれば、前に数台いた筈の車が遥か10メートルほど前方まで走っている。
急いでサイドブレーキを下ろしクラッチとアクセルを踏み込んで、涼介は後ろからクラクションを鳴らされる寸前に雨の中をまた走り出した。
それから暫く、拓海の家に着くまでは涼介から話しかけることをしなかった。
というよりできなかったというのが正しい。
拓海からいきなり予想外のことをされて、戸惑いやら男としての恥ずかしさやら何やらが、涼介の中をぐるぐると渦巻いて抜け道を見つけることができなかったからである。
しかし当の拓海はどう思っていたかと言えば、自分の行動の不自然さに気付くはずもなく、かと言っていきなり車内の空気が冷めてしまった原因が自分であると気付くほど敏感でもなかった。
「涼介さん、何でいきなり黙っちまったんだろ…」
ただそれだけしか頭になく、しかし表情にそれが現れないために、拓海の中で不思議な疑問として残ったのだった。
それぞれがそれぞれの解決しようのない疑問を抱えつつ、FCは雨の中を藤原豆腐店へ疾走していた。
「どうもありがとうございました」
車を降りてから、運転席側に回ってまでわざわざ礼を言ってくれる拓海に、涼介は学校で多用している作り笑いを作り、
「いや、良いさこれくらい」
と爽やかに笑って見せた。
あくまでも外から見れば、の話だが。
「それじゃ、次の遠征で」
「あぁ。雨で体冷やすなよ」
「はい」
淡々と会話を交わし、最後は拓海の心底嬉しそうな笑顔で締めくくられた。
何が嬉しいのかと言えば、それは涼介に自身を気にかけられたこと以外あるわけがない。
雨のせいで、半分ほどの店は午前中に店を閉めてしまったらしい商店街を、FCが大きな音を立てて走り去った。
鍵を開けて家に入り、玄関のわきに傘を立てかけてから、拓海はそれまで傘を握っていた右手を不意に見つめる。
先ほど涼介に触れたときになぜか、何とも形容しがたい感覚が拓海の中に起こったのだ。
じん、と胸が疼くようなあの感覚は一体何だったのか。
人より鈍感な拓海が、まさかその感覚の名前に気付くようなことはありえなかった。
拓海の家がある商店街から少し走ったところで、涼介は車を道路の端に寄せてシートベルトを外した。
決してお世辞にも座り心地が良いとは言えないバケットシートに体を預けて、深く溜息をつく。
一度ゆっくり瞬きをして、もう一度目をつむりながら、先ほど拓海が触れたあごのラインをそっと自分の手でなぞってみる。
あの時ほどではないが、くすぐったいような感覚が涼介の内に甦る。
再び沸き起こったその変な感覚に、少し眉をしかめながら、ふとバックミラーに写った自分の顔を見た涼介は更に何処にもぶつけようのない憤りを抱えることになった。
酒を飲んだときのように目の下から首まで真っ赤になった涼介自身の顔が、その憤りの原因である。
「くそ、あいつ……」
軽く舌打ちしながら、さっきまでそこにいた人物を思い浮かべて涼介は助手席を見やった。
「何が肌が綺麗ですねだよ…」
こっちの気も知らないで。
拓海がまだ涼介と会話する度に緊張しているのは、涼介自身気付いている。
だがしかし…。
それ以上に、涼介が拓海のドライブを見る度、勝利を持ちかえる度、果ては表情一つ一つにまで、どぎまぎしている事に拓海は気付いていない。
涼介の淡い恋心は、まだまだ前途多難なようである。
当面の一番の障害物は、「天然ボケ」という、実は涼介が一番惚れてしまった彼の性格にあるようであった。
終
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