『好きです』
言いかけて、拓海はやはりその言葉を飲み込んだ。
夏の午後、涼介が「たまには飯でも奢るぜ」と誘ってくれた。
涼介にしてみればそれは単なる気紛れであったかもしれないし、Dのリーダーとしてのドライバーへの配慮なのかもしれなかった。
それでも、プラベートで会うのは初めてだったから、拓海はとても嬉しかった。
テーブルを挟んで差し向かいに座る涼介の横顔に、窓ガラス越しに夏の陽光がきらきらと降り注いでいる。思わず拓海は見惚れていた。
鋭さとそれに相反する穏かさを併せ持つ、理知的で聡明な、涼介独特の雰囲気が柔らかな光に溶かされ、尚更その印象を強調している。
無口というわけではないが、拓海も涼介もお互い口数の多い方ではなかったから、オーダーしたメニューを待つ間、空間には沈黙が満ちていた。けれども、それは決して気まずいものではなく、とても自然で穏かな沈黙だった。
この雰囲気の中、涼介と出会ってからずっと胸に秘めていた想いを、告げてしまおうかと思った。
けれどタイミング悪くウエイトレスが現れて、拓海としてはその言葉を再び仕舞い込む他なかった。
「折角の休みに突然呼び出して悪かったな」
「いえ、涼介さんの方が忙しいのにすみません」
当たり障りのない表面的な会話だったが、こうしてプライベートで涼介と言葉を交わせることが拓海には幸せに感じられた。
昼の光の中で涼介に会う機会は滅多にない。
夜の峠で見る涼介は、その闇を味方につけて峠に君臨する文字通りのカリスマだったが、こうして見ると、その眩しい程の夏の日光も涼介に似合っていると思うのだ。
つまる所、そこに涼介がいるならば、全てが意味を持つ。拓海にとってはそういう存在だった。
「そろそろ行くか?」
食事を終え、立ち上がった涼介はカウンターに向かった。その背中を慌てて追う。
「会計は、おれにさせて下さい」
「俺が誘ったんだ。お前が気にする事はない」
そう言い、涼介は財布を取り出す。拓海は思わずその腕を抑えた。
直に触れる肌。初めてだ。涼介がめずらしく少し驚いたような顔をした。
拓海は俯きながら言った。
「……おれに、払わせて下さい」
少しの間を挟み、涼介が仕方ないなと言うようにふわりと微笑んだ。
「どうする?
もう帰るか。お前は明日も仕事だろ?」
「……秋名湖、行きませんか?
綺麗なんすよ、とっても。……あ、涼介さんの時間が平気だったらですけど……」
突然そんな事を口走った自分の積極性に一番驚いたのは拓海本人だった。
確かに、あともう少し涼介と共にいたかったのは真実だが、口下手な自分がこんなにもストレートに思いを口にできるとは思ってもいなかったのだ。
「……秋名湖か。そういえば秋名は道を攻略するだけで、観光したことはなかったな」
涼介は呆気なく頷いてくれ、FCに乗り込もうとして一度拓海を振り返った。
「どうした? 藤原」
「あの……ガス代勿体ねーから、一台で行きませんか?
って、おれ、みみっちいかな……」
小声でぼそぼそと言い訳をした拓海に柔らかい笑みを見せ、涼介は承諾した。
「分かったよ。お前、今日は何だか面白いな」
「そ……そうすか?」
「乗れよ、藤原」
ガス代が勿体無いと言った拓海の言葉を真に受け、涼介は自らのFCの扉を開いた。
「はい。……あの、おれが運転しましょうか?
涼介さん、疲れてるみたいだし」
勢いでそう言った拓海の前で涼介が一瞬無表情になる。
しまった、と拓海は後悔した。大切にしている自分の車を他人に運転されたくなかったのかもしれない。だとしたら、自分の申し出はお節介を通り越して、相手を不愉快にさせてしまった。
だが、涼介はすぐにいつもの顔に戻った。
「……そうだな。なら、お言葉に甘えようか」
「……いいんですか?」
「いいも悪いも、お前相手に今更だろう」
拓海の鼓動が音を立てる。信頼してくれている。そして涼介の中で自分は特別なのだと思うと、嬉しくて仕方が無い。
あけ渡してくれたドライビングシートに身を沈ませ、ステアリングに手を添える。
涼介が何度も何度も握ったステアリング。このシートから、幾つもの光景を涼介は見てきた。
「じゃあ行きます」
普段より丁寧に、拓海はFCを発車させた。
少し緊張気味の拓海を、助手席の涼介は面白そうに見ていた。
綺麗だなんて言ってしまった事を、拓海は後悔していた。
秋名湖はどこにでもある普通の湖にすぎず、この時間帯は特に、湖面からの照り返しがきつい。
FCから降りた涼介の背中を追い、拓海も湖に近付いた。
西日が涼介の真っ白なシャツに反射している。夏の匂いを孕む風がゆっくりと吹き、そのシャツと涼介の髪をそよがせていた。
出会った頃よりは近づけたと思うけれど、相変らず涼介は無機質で透明な存在だった。
いついかなる時でも、本心を見せてはくれない。
涼介の後ろ姿。手を伸ばせば簡単に届くのに、自分達の間に横たわる距離はそれとは裏腹にやけに遠く感じられた。
きっと今、ふたりきりの雰囲気に呑まれて「好きだ」と告げた所で、その距離は縮まりはしないだろう。
「……涼介さん、本当なんですか?
……Dが終わったら、走るのやめちゃうって……」
唐突な拓海の言葉にやや興味を引かれたように、涼介が振り返った。
西の空に傾きかけている太陽の光が、彼のその輪郭を縁取って金色に輝かせている。
「そうだけど? どうしたんだ、急に」
「……でも、時々は走りに行ったりするんですよね……?」
「……どうだろうな。……俺は白黒つけなきゃ気がすまない性分だから、きっぱり止める可能性が高いけどな」
「そんな……涼介さんあんなに速いのに、勿体ねえと思います……」
拓海の言葉に、涼介は吐息で微笑した。
「若いな、お前は」
「……子供扱いしないで下さい」
拓海はめずらしく涼介相手にむっとする。はぐらかされている、と思った。
涼介は、拓海の走りに興味があった。だから己が立ち上げる新チームに誘った。
だが引退し、涼介の中でかなりの割合を占めていた走りの要素がゼロになった時、彼の中での自分の価値はもうなくなってしまうのではないか。拓海はそんな風に危惧していた。
兄弟である啓介とは違う。親友である史浩とも違う。
自分と涼介は、走りという接点しか持っていないのだ。
「涼介さんからしてみたら子供かもしんねえけど、俺もう一応働いてるし、子供じゃねえです」
「……そうだったな、社会人としてはお前の方が先輩だったな。悪い、そういうつもりで言ったわけじゃない」
その謝罪のどこまでが本気なのか判断がつかなかったが、涼介はそれ以上言及する隙を与えなかった。
何度も口にしようとした告白。
けれど一度だってそれは成功せず、出会ってから一年半、拓海は自分の気持ちを伝えられずにいた。
「好きだ」と言ってみても、相変らず涼介はそのポーカーフェイスではぐらかすだけだろう。
冬が近い。
もうすぐ、Dは終了を遂げる。全ての任務を遂行し終えて。
(このままで、いいのか……?)
いいわけがないと。拓海は自問に即答する。
涼介には、伝えられない言葉がふたつある。ひとつは、好きだという言葉。そして、もうひとつは……。
瞳に決意を宿して、拓海は受話器を手にした。
あの夏の日ふたりで行った秋名湖に、拓海と涼介は佇んでいた。
この寒い中、わざわざ風通しの良い湖畔に足を運ぶ酔狂な人間などいやしない。景色の中には、ふたりしか存在していなかった。
「お前は成長したよ。予想以上にこの一年の間で伸びた」
曇り空の下で、端正な横顔が言った。物憂げな表情を拓海はただ見詰めている。
「……この後はどうするんだ?」
涼介の問いに、拓海ははっきりと言った。迷いはなかった。
「プロを目指します」
「そうか」
どこか嬉しそうに涼介は唇に笑みを乗せた。
「……涼介さんは?
……D終わってからも走り続ける気持ちになってくれましたか?」
「……お前もそれに拘るな」
呆れた口調に、胸のもどかしさが悲鳴を上げる。
もう自分たちに与えられた日々は残り少ない。別離の春は近い。
最後まで、涼介は自分に心を見せてくれない。好きとさえ、言わせてはくれない。
突然、背後から強い力で抱き締められ、涼介は驚いて振り返ろうとした。けれど、前に回された腕がそれをさせない。
「……藤原?」
「涼介さんって……おれと話してても、鏡に向かって話してるみたいだ。目の前にいるのが俺じゃなくても、かまわないんだろ……?」
「……詩的なことを言うんだな、お前は」
「ほら、そうやって……また誤魔化すんだ」
心の中枢をぎゅっと締め付けられたような切なさを自覚して、拓海は目を閉じた。
最後くらい、ちゃんと言わせて。
続けていけないのなら、せめてはっきりと終わらせてほしい。
自分より大きな背中に埋めていた頬が、冷たく濡れた。自らの瞳から流れる涙だと気付く。
「……まだ、離れたくないよ。おれは、涼介さんと一緒にいたい」
涼介の嘆息が聞こえた。
やはり自分のこんな気持ちは負担だったのかもしれない。絶望するが、伝えられただけ良かったと思う。
「藤原、痛えぞ。少し腕の力緩めろ」
そう告げる声は決して拒絶を孕んではおらず、拓海は少々驚いた。
おずおずと腕を解くと、今度は逆にその右腕を拘束された。
「え?」
「受け取れ」
ゆっくりとした動作で、涼介は拓海のてのひらの中に何かを握らせる。冷たい金属の感触。
信じ難い気持ちで、拓海は開いた手の中のそれを見下ろした。
「……涼介さん、これって……」
車のキー。……FC3Sの鍵だった。
「俺なりに思い入れもあったしな……売却して顔も知らない誰かに乗られるくらいなら、潔く廃車にしようと思った。でもどうしても決断できなかった。俺の全てを継ぎ込んできたんだ。相応しい奴にしか渡せない」
「でも……啓介さん拗ねるんじゃ……」
「あいつももう子供じゃないさ。あいつにはFDがあるし、俺達兄弟の走りへのアプローチが異なるくらい分かっているはずだ。お前と俺のそれが同一だとは言わないが……」
そこまで言った時、それまで視線を外していた涼介が拓海を見た。
ずっと憧れていた人。ずっと好きだった人。その人の美しい唇が、静かに動いた。
「俺は、お前に託したい」
鍵を握り締める手が震えた。
「……でも、いいんですか……?
涼介さんがあんなに大事にしてきたFCを……」
「俺は確かに弱くはねえが強くもない。普通の人間だよ、藤原」
走りを辞めると決めるまで、悩みも葛藤もあった。何より、半身であったFCを手放すことの痛みは、想像以上だった。そのことを、涼介は隠そうとはしなかった。この瞬間だけは。
「たまにでいい、走らせてやってくれ。FCも喜ぶと思う」
「……はい……はい、約束します」
強く頷いた拓海に、涼介は微笑みながらも軽く表情を歪ませた。まるで泣いているような顔だった。
この人のこんな顔は初めて見る。
一見クールのようだが、本当は人一倍の情熱をその胸に湛える人。ずっと知っていた。
「……これで、お前とはいつも一緒だな……」
気持ちはいつも共にある、と。
涼介が言った。
誰の隣でもない、お前の隣に、常に俺はいるのだと。
「涼介さん……」
この五歳の歳の差もこの身長差も、そして目蓋の裏に焼き付いている
白い彗星のその奇跡のような走りも、追い抜く事はこの先もできないだろう。けれど。だからこそ。
「おれ、これからラリーに進もうと思ってます」
唐突な話題転換に、涼介がその白眉を寄せた。
断られるのは分かっていた。身を切り裂く思いで決意した彼を再び混乱させるかもしれない。
でも、自分の走りのフィールドには、後にも先にも涼介しかいない。
そして、彼の中にも、自分を目覚めさせた情熱が、まだ潜んでいると、そう確信できる。いま、迷いは必要ない。
彼が、自分をここまで走りに夢中にさせてくれたように、
今度は。
おれが、引っ張り上げる。
迷うな。
彼が自分に与えてくれた走りへの情熱を胸に誇って、言えなかったもうひとつの言葉を、いま。強く、熱く。
「ずっと好きでした。だからこれからも……涼介さん、おれの隣で、いっしょに走ってくれませんか?」
終
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