「宮田くん。だいぶ体調は良くなった?」
ふわりと微笑むその笑顔はアルカイック。宮田は一歩に返事をするのをしばし躊躇った。
随分前に知られてしまった宮田のアパートに、一歩が押しかけてきたのがついさっき。
こんばんは、と、まるで中学か高校の友人宅を訪れるかのごとく、のほほんとやってきた一歩だった。何の連絡もなく、前触れもない唐突な訪問に虚をつかれ、一瞬拒むのを忘れた宮田を他所に、一歩はお邪魔しますとご丁寧に挨拶をしてから部屋に入ってきた。
待てよ、と言おうとして宮田は口を開くが、それより先に一歩の強い視線が宮田を刺して声を制す。
そして一歩から出てきたのが、先程の台詞だ。
返事に躊躇いはしたが、宮田が何も言わずにこの場が終わるはずもない。
一つ溜息を吐いて、宮田は口を開いた。
「…んなの見りゃわかるだろ。それよりお前、何でこんな時間にオレん家来やがる」
「こんな時間も何も、宮田くん、これくらい遅い時間じゃないと家にいないでしょ?」
そういう問題ではない。『こんな時間』を強調したかったのではなく、そもそも『来るな』と言っているのだ。
同じやり取りを幾度したことだろうか。なのに一歩は聞き入れない。この宮田の住むアパートを知られたのが、やはりまずかったのだと今更ながらに思う。宮田の与り知らぬところで知られていたのだから、自分に否はない、と思う。あるとすれば、一歩に知られないようにもっと注意を払うべきだった。一歩にバレるとは露ほども思っていなかったのだ。
「……あのな、」
「怪我は完治したの?」
繰り返し問う一歩は微笑んでいる。柔らかい親しみのこもったものだ。……そのはずだ。だが、そうではないんじゃないかという疑いが何故か晴れない。
「見たまんまだ、と言ってる」
「…見たまま? ボクには見えないけど。だって宮田くん、服着てるんだもん」
「服? 馬鹿か、んなの、……」
当たり前だろ、と言い掛けて、止まる。失敗した、と思った時には一歩に腕を掴まれていた。
「っ、おい」
「見せて。確かめさせてよ。…全部、治ったのかどうか」
距離が近い。一歩との間合いがこれでは、一歩の思う壺だ。純粋に力勝負になったとて、体格は宮田が上でも今は少しも有利ではない。対象が一歩で、怪我も治りたての状況下ではどうにもならない。
「離せ、幕之内」
嫌な汗が背中を伝う。試合でも練習でもこんな汗は出ない。焦りが宮田の動きを鈍らせ、もたつく手足は一歩の手を止めることができない。更に苛々する。が、自身の思いとは裏腹に、やはり一歩を完全には振りほどけなかった。
互いがバンデージを巻いていれば、グローブをしていれば、殴れたかもしれない。しかし素手では危険率が高く、たとえ加減していても危うく思えて、拳を握ることは避けたい。
宮田は一歩を殴りたいのではない。ただ、一歩のしようとしていることを止めさせたいだけだ。今のように身体を密着させていなくても、わかってしまう一歩の欲望。それに我が身が晒されることが、嫌なのだ。
一歩の手が服の裾をたくし上げる。既に上から伸しかかられて下肢は動かない。太い右腕が宮田の左腕を床に押さえつけ、もう片方の手は宮田の脇腹を下から上へと撫で上げる。
「試合の時、この辺、随分打たれてたよね…。痣は消えてるみたいだけど、骨にも異常あったんじゃない? それも、もう完治したのかな…?」
宮田に確認しているのか、独り言を言っているのか、一歩はそう呟きながらも這わせた手のひらを未だ触れていない先へと伸ばす。乳首を掠めた時、宮田の身体はぴくりと痙攣した。
「ここも、怪我した?」
くすりと一歩は笑う。腕を解こうと宮田は抵抗を続けているのに、まるで何の力も入れていないかのようにこの男は余裕だ。フェザー級にあるまじきパワーで、嫉妬心すら湧く。
宮田の身体を、まるで自分の物のように勝手に扱う一歩が、むかついて仕方ない。宮田の言うことを無視して手を伸ばしてくる一歩に、一発蹴りを入れてやろうとして膝を立てようとするが、逆に体重を掛けられて、身動きが今まで以上に取れなくなった。
不埒な指が宮田の腹筋をゆるゆる辿る。その感触を追い、腰にじわりと快感が滲んでくる。徐々に心臓が鼓動を早めていく。けれど、誓って言うが、宮田は決してその先を期待してはいない。
「…聞こえなかったのか。離せ。オレの上から退け」
「……わかってないなぁ、宮田くん。もっと、自覚しといた方がいいと思うよ」
宮田を抑えつけながら、器用に一歩は肩を竦め、苦笑した。
何を、と言うつもりだったが、宮田の口から出たのは──
「ぅあ…っ」
呻きだった。痛みと快感が同等に襲ってきた。いきなり股間を服の上から乱暴に握られて、声を殺すのも間に合わなかった。顎が上がり、無防備に喉をさらけ出してのけぞったのも、一歩の望んだだろうこととわかるから、余計に腹が立つ。一歩にも、自分にもだ。
「宮田くんは、ボクに抗う気なんかないんだよ、本当は」
「…っ、ふざ、けんな、馬鹿も休み休み言え」
「本当に嫌なら、簡単にボクの手は退けられるのにね。…気付いてないの? 宮田くん、ちっとも力入れてないよ?」
呆れたような言い方と薄笑いに、伸しかかる一歩の顔をぎろりと睨む。視線で息の根を止められるというなら、十分今だって可能だと宮田は思う。それに、この自分が力を全く入れていないなど、そんなはずはない。一歩の力が強すぎるだけだ。
宮田のきつい視線を、一歩はじっと受け止める。
しばらくして、丸い頬を綻ばせて、嬉しそうに笑った。
わけがわからない。どうしてそんな反応が返ってくるのか、一歩の心情が宮田には全く理解できなかった。
「ボクはいいんだ、宮田くんが気付いててもいなくても。わかってて知らない振りしてるのでも、何でも。だって、ちゃんと……」
「や、めろ…、っう、あ、っ……」
手っ取り早く、一歩は手の中にある宮田のものを揉みしだき始める。急所であり、男なら誰でも反応するそこを刺激され、宮田は身体を震わせた。
「家を訪ねれば、ボクを入れてくれる。こうして触れば、君の心も身体も、反応する。ボクのこと受け入れてくれてるってことでしょ?」
床に縫い止められた左腕が、熱い。強く掴まれすぎて痛いから熱く感じるのだと思う。決して、一歩との行為を思い出しての反応ではない。
一歩の台詞はいいがかりだ、と宮田はふつふつと憤りを内心に膨らませた。勝手な言い分も程々にしてほしい。気付くとか気付かないとか、全く意味がわからない。知らない振り? そんなもの、何の話なんだと思い切り言いたい。
だが、現状は打開策が見当たらない。一歩を止めることも退かすこともできず、一歩のしたいようにさせるしかない。
こちらが望みもしないものを、一方的に、押しつけ差し出してくるのだ。出会った頃からずっとそうだった。宮田の気も知らないで。
痛みの先にある快楽を、無理矢理この男に覚えさせられた。もどかしく、狂おしく、境目がなくなりそうなあれに溺れたら、あの深みに堕ちたら、一人では抜け出せない。それがわかるから、遠ざけていたい。忘れ去りたい。
本気でそう思っている自分が、一歩を心の奥底では拒んでいないなんて、あり得るものか。
「宮田くん……」
うっとりとした声で、一歩が宮田の耳元で囁く。低く艶めいた声音に、ぞくりと鳥肌が立つ。ふわりと香る、嗅いだことのある一歩の体臭に、宮田の脳の一部が麻痺を起こす。
──違う。こんなもの、要らない。欲しいと思ったことなどない。
思いは強くなるばかりだ。どうしたら一歩を止められるかと、それのみを考えている。拒みたくて、だが物理的に今の自分では不可能で、終わりのないジレンマに歯痒さは最高潮に達する。
だが。
強引な口づけに舌を差し入れられても、一歩の舌が我が物顔で宮田の口腔内を犯しても、舌や唇を噛んで止めさせるという考えは、宮田の中に浮かんではこず。不快そうに眉を寄せながらも目を伏せ、長い睫毛が端正な顔に小さな影を落としたのだった。
終
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