宣誓 

2008.3.9.up

 何をしていても、ふとした拍子に思い浮かべてしまう人がいる。
 釣り船の舵を握っていても、ロードワークをしていても。
 何かに集中している時には他のことは何も頭に過ぎらないし、試合前には対戦相手のことしか考えられないこの自分が、だ。
 ほんのちょっとした隙間があると、気が付けば彼の姿を脳裏に浮かべているのだ。
 その度に、一歩は内心苦笑せずにはいられなかった。
 
 ずっと背中を追いかけていた。
 いや、今も追いかけている。
 近づいたかと思うと必ず離されて、追いつけない自分に歯噛みをする。
 近寄れない、力不足の自分自身が情けなくてしょうがない。
 
 遠い背中。すらりとした体躯。
 漆黒の艶やかな髪をなびかせて、けれど決して後ろは振り向かない彼の背中。

 直接本人から聞かされた台詞を思い起こす。
 言葉少ない彼の言葉は、一語一句違わずはっきり覚えている。
 雑誌に掲載されている彼の情報は、逃さずチェックしている。
 見に行ける試合は欠かさず観戦している。
 だからこそ、あの台詞は衝撃的だった。
 
『縁がなかったと思ってくれ』
 
 そう言われた瞬間、怒りに震えるよりも打ちひしがれて呆然とした。頭が真っ白になった。だがその後、疑問と苛立ちと虚脱感に苛まれた時間は、結果として案外短かった。後々事情も知って、納得はした。
 仕方がない。そう思えるだけの、どうしても譲れない事情が宮田にはあった。
 宮田に頑張れと言えるくらいに、彼の心情は一歩にとって理解できるものだったのだ。
 だから宮田の言う通りに、諦めた。縁がなかった、それは確かなことだから。その通りに自分は承服した。
 
 しかし、わかっていながら彼の背中を追いかけるのを完全に止めることは、できなかった。
 
 今、一歩は、現在の自分を形作ることになった原点に立ち返り、思い描いた道筋ではなく新たな道を開拓し、目標に向かって走り出している。
 自分の掲げた目標は、源にあるものは、初めから何も変わってなどいなかったのだから。
 違うのは、彼との対戦はもうできないということ。
 納得した。受け入れざるを得なかった。それと同時に、宮田が出逢った頃と変わらぬ志でボクシングをしていることがわかって、嬉しかった。応援したい気持ちも生まれた。
 けれど、一歩の中で、彼を追おうとする心が消えることはなく。対戦したい思いは宙ぶらりんのまま、進む方向を見失って未ださまよい続けている。
 
 これまでとは異なるアプローチで世界の頂点を目指すべく、手探り状態で一歩は一歩の道を進む。
 そうしながらも、自分の中での宮田の位置づけは変わることがない。
 状況は全く違う筈で、東洋太平洋チャンプの宮田が一歩の挑戦状をはねのけた形になった以上、彼を視界に入れられるような、また彼の視界に入れるような、大それた立場の自分ではない。一歩は国内のチャンピオンで、宮田は東洋太平洋。彼の方が何歩も先を歩んでいる。
 にも関わらず、そうすることが癖になったかのように、未練がましく彼を追い続けてしまう。対戦相手は一歩ではなくなったけれど、早々に臨むであろうタイトルマッチを頑張って欲しい、勝って欲しい。そういう気持ちは十分にあるのに、それとは別の、リングで彼と拳を交えたいという思いが心の底辺にこびりついて離れない。
 消し去ることができるようなものではなくなっていたのだ。

 バカだなと一歩は自嘲した。
 延々と、成就しない片想いを続けているようなものだ、これは。
 たとえ互いの気持ちが同じでも、タイミングが合わなければ擦れ違うばかりで恋は叶わない。
 向き合うことができないと知っていてもその気持ちを捨てきれない未練は、自分の心をただ磨耗させていくだけだろう。
「…でも、ボクは…」
 見るなと、宮田の姿を追うなとたとえ鴨川会長に言われても、それだけはできないだろうことを知っていた。自分のことは自分がよく理解している。はい、わかりましたと本心からは応えられない。そんな自信は、一歩には全くと言っていいほどなかった。
 
 空を仰ぎ、息を吐く。そしてふと前を向くと、まだ遠くにいる人影が、宮田のシルエットに見えた。
 ドクンと心臓が高鳴る。
 都合の良い偶然、という表現は、この場合ふさわしくない。一歩はまだ、平然と宮田と顔を合わせられるような心の落ち着きを取り戻してはいない。
 一歩は足を止め、こちらへと少しずつ近付く前方の人物をじっと見つめた。前方の彼の歩みに躊躇いはなく、顔を上げて真っ直ぐに、一歩のいる方向へと向かってくる。
 近付けば近付くほど、宮田以外の誰でもないことがはっきりした。ジャージ姿ではないからロードワークではない。ジムに行く最中か、或いはトレーニングが終わって帰途に就いているのか。
 いずれにしても、宮田だって一歩がここにいることに気付いているだろう。一歩としても、無視するわけにはいかなかった。
 だが、話すことは何もない。一歩もそうだが、宮田もだ。
 だから余計に、胸の高鳴りは止まらない。
 無視はしない。けれど宮田はどうだろう。一歩を見なかった振りをしてさっさと通り過ぎるだろうか。
 宮田に声を掛けなければと思う。だけど一体何を話す? ボクシング以外の話題なんか全く思いつかない。
 ドクドクと響く心臓の音は、確実に血流を増していることを示している。その割には、緊張しているせいで指先は冷たい。微かに震えてもいる。
 そうこうしているうちに、宮田はどんどんこちらに近付いてくる。
 1mほどの距離を空けて、一歩の正面で宮田が立ち止まった。
 内面はパニック状態のまま、一歩は口をこじ開けた。
 
「あ…あの……こんちは。偶然、だね…こんなところで」
 上手く笑えたかはわからないが、一歩は笑みを浮かべたつもりだった。
 目の前の宮田もまた、複雑な顔をしている。こんな偶然の邂逅は、宮田としても望んでいなかったのだろう。
「…………ああ」
 一言、ボソリとそれだけ言って、宮田は押し黙る。
 暫くしてから何かを言おうとその整った薄い唇が緩んだが、迷った仕草で結局何も言わないまま溜息だけを一つ吐き、またきゅっと引き結ばれる。
 その宮田の様子を見ていた一歩は、眉尻を下げて苦笑した。
 お互いに、挨拶一つロクに言えもしない。わかっていたことだけれど、何だかおかしかった。
「…何笑ってんだ」
「え、や…何でもないよ」
 憮然とした顔の宮田に低く呟かれ、慌てて首をぷるぷる横に振る。
 じっと一歩の様子を睨むように眺めていたが、区切りを付けるようにふっと息を吐いてから、宮田は一歩から目を逸らした。
「…じゃあな」
 え、と目を剥く一歩を後目に、宮田は一歩のすぐ脇を通り過ぎる。
 いつも宮田は突然現れる。そして踵を返し、一歩に背を向けるその時に、別れの挨拶を言われた覚えは限りなくゼロに等しい。
 だから一歩は驚いた。そんな台詞でも言わなければ立ち去りづらい、宮田にしてみればただそれだけのことだろうが、宮田にとって特別意味のあることではなくても、一歩にとっては大きな事件だった。
「み、宮田くん!」
 引き止めたのは、何となく、ではなくて。
 何か一言、言いたかったからだ。宮田にはどうでもいいことだとしても、一歩はそうしたかった。
 少し離れたところで、宮田が足を止める。
 振り向かなくても良かったから、その背中に一歩は話し掛けた。
「今度の…宮田くんの試合」
 頑張って、と言うのは立場上できない。誇り高い宮田がこの自分に土下座までしたのに、そんなことを言ったらその彼のプライドを傷つける形になる。だから。
「会場で見てる、から」
 そう言うと、宮田がゆっくり振り返り、皮肉げに口角を上げて笑った。
「……鴨川ジムが主催で、ましてメインは鷹村さんだ。お前が会場にいて試合を観戦するかもしれないってのはわかってる」
「そういう意味じゃないよ。ボクは…ボクの意思で、最初から最後まで、宮田くんの試合を見る。一瞬だって見逃さないから」
 自分の気持ちを宮田にわかって貰いたい。そんな気持ちもあるにはある。
 けれど、理解されようがされまいが、今言った言葉が一歩の本心なのだ。
 宮田との対戦を長く待ちすぎた。もう『約束』とは言えなくなったのかもしれない。それでも変わらず宮田のボクシングをこれからも見るのだという意思表示を、一歩は宮田にしたのだった。
 その言葉に、宮田の表情が変わる。
 驚きと、あとは何だろうか。一歩には読み取れなかった。
 黙ったまま、宮田は一歩を見つめる。
 穴が開きそうだと一歩が思う頃、宮田の返事が聞こえた。
「そいつは、光栄だな」
 一瞬だけ柔らかく微笑んだ。…ような気がしたのは一歩の気のせいか。
 ぽかんとする一歩を置いて、宮田は背を向けて歩き出した。
 遠ざかる後ろ姿を凝視するも、今度は一歩も声が掛けられない。
 刹那絡んだ視線が何かを言っているようで、だが言葉もなしにその意味を汲み取ることは一歩には難しくて。
 わからないまま、宮田の姿が視界から消えるまでずっと追っていた。
 
 わかるのは、一歩の気持ちが宮田に伝わっただろうこと。宮田がそれを疎んじていないこと。
 些細なことなのかもしれないが、その事実が胸をほわりと暖かくしてくれて、何だか嬉しい。
 大した会話もしていないのに、と思いながらも、一歩は困ったように頭を掻いて、口元を緩めた。



終     

   

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