雪 

2008.1.27.up

 ふわりと、目の端を掠める、小さな白い花びら。
 ──いや、花びらじゃない。これは……
 吐く息の白さが物語る、寒さ。それも、今日は一際冷え冷えとしている空気で、体の末端の感覚が鈍く痺れている。
 凍てついた真っ暗な夜の帳に浮かび上がる、小指の爪の垢ほどもない小さな白いもの。
 気がついて見回すと、ちらほらと周辺に降り落ちている。
 立ち止まり、顔を上げて空を見上げれば、それは無数に風に舞っていた。
 ──雪か……
 これから本格的な冬がやってくる──と、告げているようだった。
 光源などどこにもないかに思えるほど辺りは暗い。なのに、軽やかに落ちてくる粉雪は、ほんの僅かな光を反射して真っ白に輝いている。
 自分は、風流を殊更愛する方ではないが、かといって、決して解さないというわけでもない。
 こうやって家路を辿る道すがらであっても、頬を凍てつかせ、手や足の指を麻痺させる冷たい空気の中、空から舞い降りる白い雪は掛け値なしに美しかった。月のない闇夜の暗さを完全にはねのける、純白の輝き。
 ──きれいではあるけど、あんまり嬉しくはないな。
 男は苦笑した。
 KAWAHARA BOXING GYMと書かれたジャンパーを羽織っている。肩にはスポーツバッグ。
 男の名は、宮田一郎といった。
 
 
 
 本来ならば、宮田は冬も雪も嫌いではない。むしろ好きな方だった。
 だが、今は子供の頃のようには無邪気に喜べはしない。その最大の理由は、何と言っても自分がボクシングをプロとしてやっていく身の上であり、体調や体の仕上がり具合をベストに持っていくことが難しくなるから、という一点に尽きた。
 四季折々の中で、気温も湿度も低い冬の時期は、極端に減量の微調整がしづらくなる。それだけでなく体調そのものを崩しやすい。けれど、万人のボクサーに降りかかるこの悪条件下で、自分がこれだと焦点を定めた階級に己の体重を合わせる──ボクサーならば当然のことである。更に言うなら、その全てはボクサーとして強さを競う前段階の話であり、できないようではプロとして失格。もちろんそれが最終的にできなかったことは、宮田自身今までただの一度もない。けれど、それでもこのように、肌を刺す寒さの中に己の身を投じていれば、体のコンディションを整えることは困難極まりなく、神経質なほど気にしていなければならないことが容易に予測できる。
 正直、苦痛以外の何ものでもなかった。
 だからこそ宮田は、昔とは違い、冬に対して苦手意識を持つようになっていた。
 冬の到来や雪景色に、嬉しさと楽しさのみを感じていた、遠い昔。……そして、今。
 比べてみて、ふと、感傷的な気分になった。
 昔に還りたいとは思わない。宮田にはこれからすべきことやしたいことが山とあって、後ろなど振り返ってなんかいられない。そんな暇などありはしない。
 けれど、懐かしい、とでも言えばいいのだろうか──雪の日には、何かと思い出がある。
 宮田にとって特別な日には、必ず雪が降っていた。
 いつも決まって、体の芯まで凍る寒さを味わっている、冬の日だった。
 ──高校卒業と同時に、ボクシングの本物の強さを身につけるべく海外へと武者修行に旅立つことを、『彼』に伝えた日。
 ──自分が幾度もたたきつけたはずの『彼』への挑戦状が、いつまで経っても無視され続けているその理由を、直接聞きに行った日。
 それ以外にも、宮田自身が特別だと思うような出来事は、たとえ雪が降らずとも得てして寒さに身を震わせる時期ばかりに起こっているような気がする。
 多分、それだからこそ雪の降る今、こんな懐古めいた気分にさせられるのだろう。
 寒さの厳しい冬を宮田が歓迎すべき理由は、今は何一つない。しかし、この清冽な冷気がある種の清澄な空気を送り込んでくれるのか、凍えそうな身体はともかくとして、気分的には何故か安らぎがあった。
 心にこびりついた凝りが淡雪のように消えて、澄んだ気持ちになり、常よりも素直に本心と向かい合っていられる。
 四季の中でも自然とこういった気分になるのは、皮肉にも苦手としている冬だけに起こり得ることだ。
 ──たまになら、こういう気分も悪くないな……
 やや感傷的な自分に、フッと一つ苦笑を漏らしながら、宮田は暫く止めていた足を動かし、再び歩き出した。
 舞い降りる粉雪が、ふうわりと軽やかに地に落ちる。
 地熱ですぐにも溶けてしまう軽さで、けれどその数は無数で限りがなく、時を追う毎に地面が純白に埋め尽くされていく。
 天から舞うその小さく白い花びらは、暫くは止みそうになかった。
 
 
 
 
 サクサクと、歩を進める度に雪が鳴る。
 積もったと言えるほどではなくとも、地面の殆どは既に、雪で白く染められていた。
 そろそろ帰途の三分の二を超えた所だろうか。
 外灯なしに、雪明かりでうっすらと白く照らされた道の向こうに、人影が見えた。
 深夜と呼ぶには早過ぎる今の時刻、人の行き来があるのは当然のことだった。
 何の不審も抱かず、その人影の方へは目もくれず、宮田はただひたすらに己の進む行く先を真っ直ぐ見つめていた。



終     

   

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