「………放せよ」
踵を返して立ち去ろうとした途端のことだった。
ぐいっと手首を掴まれ、それ以上歩を進めるのを妨げられる。
無造作にその手を振り解こうとしたが、放すまいと逆に力を込められた。
「逃げるの…?」
向けられるその瞳はどこかしら獰猛さが漂い、そしてさらに淫靡な色でけぶっている。殊更静かな声音は普段より少々低く掠れ、挑むような視線と相俟って、何となく──ヤバい、と思った。
彼が手首を放す気配は微塵もなく、その拘束する力はだんだん強くなり、結果、それは痛みとして伝わってくる。
「帰りたいから帰るんだ」
別に逃げてるんじゃねえ、とどうでもいいように答えると、手を放さないまま、彼は少し微笑んだ。
その笑みには、いつものような彼独特ののほほんとした雰囲気も、温かさも、優しさも、あまり感じられなかった。代わりにそこにあるのは──どちらかというと、常の穏やかさとは全く対極のもの。
「少しだけでいいから、ボクに時間くれない…?」
…少しも何もあったものではない。
何せ、ここはボクシングの試合会場。全ての試合が終了した今の時刻はおよそ午後9時半で、決して早くはない。まして、先程偶然にもあんなにたくさん人がいる中で目が合い、強引に人気のないこの場所まで、彼に連れてこられた──ただそれだけ。
用などない筈の彼に与える時間など、自分はこれっぽっちも持ち合わせていない。
従って、返事は考えるまでもなく。
「断る」
間髪入れずの返答に、『そんなふうに即答されると傷つくなぁ』と苦笑して見せた彼の顔は、台詞の割にちっとも傷ついた感じではなかった。
掴まえた手首を放そうとは、やはり、しない。
「…そうやって、いっつも意固地に突っぱねるし。………だからボクが多少強引になっても、しょうがないと思わない?」
さらに力強く手首を握られて、思わず眉間にしわが寄る。だが、そんな様子にも彼は頓着せず、ゆっくりと近づき、空いていた腕で抗おうとした体を抱き寄せた。
背に回された腕にやや力が込もる。それは、本気で抗えば難無く払えるような、その程度の力。
伸ばされた彼の腕に、抵抗するつもりだった。
互いの腕力には差があれど、この態勢で、一本の腕に対して逆らう力など、この自分にあって当然。その余地も十分にある。今だって、この場から早く立ち去りたいと思っている。
なのに──どうしてなのか、意思に反して、体が動かない。腕に、力が入らない。
………もう少し力を入れれば、きっとこの抱擁から逃れられるのに。
拒みたいというこの自分の思いは、胸に渦巻くだけで表面化することはなく。
だから結局、互いの体が密着する。…一分の隙間もない程、抱きすくめられる。
やがて、彼は僅かに顔を傾け、耳元に息を吹きかけるように、囁いた。
「…好きだよ………。…キミだけ、特別に好きなんだって………何度言ったら信じてくれる?」
──何度言われても、信じるものか。
信じない。絶対に。
…心の中だけで、彼に向かってそう反駁した。
けれど、その温かい腕に、抗う気はもうなかった。
***
「…んん………ッ…」
ねっとりと、合わさる唇。侵入を許してしまったその舌で、口腔内を丹念にねぶられる。角度を変えては舌の裏側を舐め、舌全体を吸われ。じんじんと頭が痺れているのは、その摩擦のせいか………それともこの体を徐々に支配する悦楽のせいか。
飲み込みきれない唾液は、首筋へとゆっくり伝い落ちていく。その感触すらも、鋭敏になった肌は感じとり、ゾクリと肌を粟立たせた。
悪戯な彼の片手は、そろそろと胸を這い回る。色づいた突起を指で摘んでは、押し潰す。徐々にしこってきた先端を、コロコロと遊びのように指の腹で転がされた。
指が動く度に、体はピクンと痙攣を繰り返し、小さな快感の波が止めどなく押し寄せてくる。それは消えることなく、肉体という器にとどまり続けるのだ──解放の時まで。
体が、疼く。
少しずつ大きくなるそのうねり。
…何だか、常より早い己の反応からして、臨界点までそう遠くはないかもしれない、とも思う。………とりあえず、まだ、耐えきれないほどではない。
第一、二人がいるのが会場内の個室トイレという場所柄、与えられる一つ一つの刺激があまり強烈すぎてもまずいのだ。
今は、立った状態という限定された姿勢で行われている、行為なのだから。
………加えて、音にせよ声にせよ、音量は限りなくゼロに近いのが、望ましい。
「…ねえ、感じてくれてる………?」
ようやっと長い口づけから解放される。
だが、直後にそう問われても、舌は思うように動かなかった。反対に、まともに喋れる彼の方がどうかしてるんじゃないかと、そのことに少し疑問を覚える。
いずれにしても、ちゃんと話せる状態だったところで、彼のその質問に答えるつもりなんか、自分にはなかった。
「…知るか」
何とかそれだけ呟き、のぼせて火照った顔を間近で覗き込まれるのが嫌で、ふいと横を向いた。
途端に苦笑する気配を感じる。と、頬に軽いキスが降り、彼は、合わせていた体を少し下方へと移動させた。
片方の手は乳首をいじるのをやめず、今度はもう片方の乳首を、彼はペロリと一舐めしてから口に含んだ。
いきなりきつく吸われ、知らず体が大きくしなる。同時に甘い痺れが腰に走った。
「………ッ…」
「…もしかして、もう保たない…?」
早すぎるんじゃない、と言って彼は胸元から顔を上げ、クスリと笑ってから、腰に回していた手を離したかと思うとその掌で股間をズボンの上から軽く握った。
「…ふ、ゥ………」
いきなりの刺激がたまらなくて、無意識に腰が揺れる。
それに対し、彼は片腕で腰を固定し、片手で器用にジッパーを下ろすと、既に濡れて猛ったモノの先端を、躊躇い無く口に含んだ。
「はあ…っ」
意外と大きく響いた声に、カッと頬と耳が熱くなる。
だが、そんなことに気を取られるのも一瞬で、すぐにきつい悦楽に翻弄された。
…形に添うように舌全体で優しく舐められた後、まるで跡でも付けるように強く吸われる。
先端にばかりそんな愛撫を繰り返され、その強烈さの余り、膝ががくがくと震えた。
彼の、腰を支える力強い腕がなければ、立っていられないくらいの──快感だった。
「…いいよ、出しても」
「くう………ッッ」
銜えたまま言った直後の、彼の今まで以上の刺激に──堪えうる筈がなかった。
***
少しも服装の乱れていない彼は、イったばかりの自分が荒い息を整える間にも、自ら乱した服を一つずつ丁寧に直していく──力の抜けた体を支えながら。
「………もう、立てる…?」
少し気遣わしげに問うた彼への返事とばかりに、垂れたままだった両腕で軽く彼を突き放して、キッと睨んだ。
…睨んでも、目元や頬の赤みは取れていないとはわかっていたけれど。
案の定、少しだけ困ったような表情で、彼に小首を傾げられた。
「…そんな潤んだ目で睨まれても、なんか逆効果だと思うんだけど…」
「………何で、オレにこんなことする?」
「キミだから、だよ」
──そんなのウソだ。
咄嗟にそう思う。
根拠だって、ある。
いつも彼の周りには、彼を好きな人間達で一杯だ。同時にそれは、彼『が』好きな人間達だ。男女問わず、身近でも身近じゃなくても、そんな人が彼にはたくさんいるではないか。
そして、そんな人達の中で、彼はいつだって楽しそうに幸せそうに笑っているではないか。
…なのに何故、この自分に、たった一人に、そんなお前が拘る必要がある?
「キミのことが好きだから…するんだ」
改めて、至近距離でじっと見つめられる。
その彼の瞳はどこまでも真っ直ぐで、真摯なものだった。先程の淫猥な情念はきれいに拭い去られ、けれど一途な情を感じさせる、熱っぽい眼差し。
「…まだ、ボクのこと信じられない………?」
僅かに歪んだ微笑みから、彼の寂しさが伝わってきて──何故かツキンと胸が痛んだ。
疼く胸の痛みには目を瞑り、ようやっとのことで絡んでいた視線を解いて、彼の質問に答えることなくドアの鍵を外した。
そのまま外に出ようとすると、彼に肩を掴まれて引き留められる。
自分が振り向かないであろうことを予想の上でか、彼は、背中に向かって静かに言った。
「…本気で拒まないんなら、ボクは、諦めないから。ボクの気持ちを信じてくれるまで──好きになってもらえるまで。………だけど…それまでキミのこと傷つけないでいられるかは………ちょっと自信ない」
彼の、いっそ厳かなまでの宣言に、ゆっくりと彼の方を向いて、言い返した。
「信じてねえよ。………けど、その後は全部、お前次第だろうが」
自分の台詞に呆然と立ちすくむ彼の様子に、幾分か満足し、踵を返して今度こそこの場から去った。
『オレだけが好き』だなんてのは、信じない。
お前の言う全てを信じないのではなく、それだけは、絶対に信じない。
誰かと同じものを共有するのは、イヤだ。
その他大勢にも与えられているものなんか、要らない。
たった一つのものじゃないと、要らない。
自分だけのものじゃないと、要らない。
でなければ、そんなもの最初からない方がマシ。
お前がオレを追い続けるのはわかってるから──ずっと、オレはウソをつき続ける。
お前が、オレのことだけ考えるようになるまで。
お前が、オレのことしか見えなくなるまで。
『信じてない』なんていう、真っ赤なウソを。
好きか嫌いかは訊かれてないから、『好きじゃない』ってウソは、まだついてないけど。
終
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