情火-その後- 

2000.4.24.up

 埃の落ちる音さえ聞こえそうなくらい、静まり返った部屋の中。
 まだ外の明るさがカーテン越しに届いていた。明かりを灯さない一室で、光源は窓から漏れてくるその光のみである。
 けれども、そんな些事は、今の彼らには取るに足りないことだった。



 顎のラインを、耳朶から緩やかに人差し指で辿り、ゆっくりと、少しずつ下を目指す。少し尖った喉仏──そして、鎖骨へ。
 その間、お互いの視線は合わせたままだった。けれども、言葉は交わすこともなく。

 今、宮田の目に映るのは、少し照れたような彼の表情、時折瞬きを繰り返す瞳──
 …今までも、数えきれないほど、自分と彼とは体を重ねてきた。触れなかった箇所などない──そう断言できるほどに、隅々まで知り尽くした体。だが、こうして、改めて日も暮れていない明るみの中でじっくり見ると、新鮮な感じがする。…ある意味、初めて触れるような、不思議な違和感。
 だが、徐々に高揚する気持ちは、どんどん膨れ上がる一方だった。
 宮田は、自分の体の奥で緩やかにうねりながら上昇していく”熱”の感覚を楽しみつつ、逃げられないように、そうっと両の腕で彼を囲った。
 ボクシングにおいて国内最強の拳を持つフェザー級王者である幕之内一歩が、こんなふうに誰かの腕の中に囚われている姿なんて、誰も見たことがないだろう。…また、誰も想像などできないに違いない。
 躊躇いがちにしどけなく体重を預ける仕草も、やや幼く見えるその顔に艶めいた表情を浮かべるアンバランスさも。
 誰も、知らない。
 ──他の誰にも、見せるものか。…知っているのは、このオレだけ。
 わけもない優越感に、僅かに口元を緩ませ、宮田は一歩の顔に自分のそれを近づけた。
 触れる寸前まで、その視線が逸らされることはなかった。だが、吐息が掛かる瞬間、一歩の瞼がそっと伏せられる。
 それが、全てを委ねるかに感じられて、宮田の心臓がトクンと大きく脈打った。
 おかげで体温がまた上がった気がする。少しずつ上昇していく”熱”に後押しされるように、ほんの僅か近づき、唇を触れ合わせた。
 触れる柔らかさと温かさに、ぞくりと鳥肌が立った。



 どうしてなのか。
 初めて一歩と寝たときよりも、自分の心臓は口から飛び出しそうにバクバクと跳ねている。…まあ、あのときは………興味本位の衝動と言えばそれまでで。比べられはしないのだが、他に比較対象になるものも思いつかず。
 ──鎮まれ、と何度も唱えるが、ちっとも言うことをきかない。
 唇を重ねただけ、なのに。
 二度、三度と触れるだけのキスを繰り返しても、相変わらず心臓は泡を食っていて。
 油断すれば、きっと指先もみっともなく震えることだろう、と宮田は思う。

 何となく、深いキスはもう少しだけ先送りにしたくなって、ふと目についた一歩の目尻に、唇を寄せた。
 それから、頬へ、耳朶へと、先程指で辿った軌跡を、唇と舌先でなぞる。
 自分の背に遠慮がちに触れているだけの一歩の腕に、徐々に力がこもってくるのを感じた。…しがみつく、という言葉にふさわしいくらいの力が。

 不意に。
 吐息混じりに、掠れた声で、一歩に名を呼ばれた。
 ──その呼びかけには、どういう意味が込められているのか。
 訊ねようと思った端から、半ば開いた唇とそこから覗く舌が誘っているように見えて、宮田はまた己の唇でそれを塞いだ。
 今度は遠慮無く舌を侵入させて、濡れた柔らかな一歩の舌を探り、ゆっくりと絡ませる。擦り合わせては吸い、離してはまた絡める。
 次第に激しくなる口づけに、苦しいのか、感じているのか………一歩の鼻に掛かったような喘ぎ声がこぼれた。

 ──欲は尽きなくて。
 触れれば触れるほど、もっと欲しくなる貪欲さ。
 傷つけないように限りなく優しくしたい感情と、乱暴なまでに力尽くで奪いたい感情とが、混在する。
 だが、名残を惜しみつつも宮田はようやく唇を離した。
「………みやたくん………」
 もう一度、一歩に呼ばれる。それは、無意識に発した言葉のようだった。
 急に、愛しさがこみあげてきて、宮田は一歩を力強く抱き締めた。



 そうか、と宮田は思い至った。
 何故今日は今までと違うのか、やっと気付いた。
 今までは、夜にしか会わなかった。ボクサーである幕之内一歩以外のことを考えまいとしていた。心と体は別物だと思っていた。
 その逆を、望むことすら、頭になかった。
 望めば叶うものだとは、知らなかった。
 ──でも、今日は違う。
 自分の想いが一歩にあること。一歩の想いが自分にあること。
 知ったのはつい先日だったが、そのときは驚きの方が先に立っていて。
 だから、今日が初めてなのだ。
 …初めて、夜でもないのに二人で会った。
 オレもこいつに負けず劣らずバカなのかもな、と思いながら、宮田は口元が緩むのを抑えられなかった。
「…幕之内」
「………?」
 不思議そうに見上げる一歩に微笑んで、今、無性に言いたくなった言葉を伝えるべく、宮田は耳元に唇を寄せた。
 それは、今まで誰にも言ったことがない言葉だった。
 これからも、多分この男以外に対してはつかわない、言葉。

 囁くと、一歩は真っ赤になりながらも、宮田の期待通りの答えを返してくれた。



終     

   

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