昨日と比べるとやや冷たい風が、肌を刺す。
──気温がいつもより低い分、空気はいつもよりも澄んでいる──
そんな錯覚に陥る。
だからといって、寒いわけではない。夏が過ぎ、秋に入り──ようやく、直接浴びる陽の光に、『暑さ』ではなく『暖かさ』を感じるようになった。だが、特別寒くはなくとも、風を受ければ受けるほど、体の末端から体温が少しずつ奪われていく。
それでも、こんな真夜中でありながら、過ごしやすいと表現するにふさわしい涼しさだった。
「………ねえ、宮田くん。寒くない?」
隣にいる人物に気遣わしげに話しかける男の名は、幕之内一歩といった。
幕之内一歩、そして声を掛けられた宮田一郎──両名ともに、現役のプロボクサーである。プロのライセンスを取得する以前からの知り合いだが、同階級であることに加え、過去に拳を交えて一勝一敗という、互いに相手を好敵手とみなす間柄なのだ。
より強くなるためには、より強い相手が。そして自ら勝負を挑みたくなるような相手が、必要だ。その強い思いや願いが積もり、血肉に染み込み──いつしか遠くない将来、それが強さを求める上でのエネルギーとなり、頑強なバネになる。
それなくして、強さを求めることは難しい。強さとは、切磋琢磨することにより磨かれるものなのだ。比較対照されるものがなければ、強さも弱さもない。…肉体的なものに限らず、精神的なものであったとしても、同様に。
そういう意味において、互いの存在を認め合えた彼らは、幸運であった。
ただ、今は…その繋がりだけでは、ない。
ライバルとしての、繋がり。それは、随分前からお互いの心の内に、さも当たり前のようにあっものだ。だが、いつしかそれに加えて、それとは全く異質な思いが、新たな関係を築き上げた──自分と相手の、互いに向ける特別な感情が同じだと知ったときに。
二人は今、さして広くもない部屋の中にいた。
暖房も冷房もいらない季節でも、深夜ともなれば、閉め切った室内においても『寒さ』を感じるのは否めない。
にも関わらず、先程、外の空気に触れたいと言って宮田が窓を開け放したのだ。それからずっと宮田は窓の側で佇んでいるが、いつまで経っても窓辺から動こうとしない。
真っ白の薄いカーテンが、薄暗がりの部屋の中、風でふわふわと軽やかに舞っていた。
宮田は、一歩の問いかけにしばらく沈黙を通した後、ゆっくりと口を開いた。
「…いや、気持ちいいぜ。お前は寒いのか?」
後ろから声を掛ける一歩の方を振り向きもせずに、宮田は心地よさそうに目をすがめて風に当たっていた。
その様子に、一歩は苦笑する。別段、寒いというわけではなく…。
「そうじゃなくて。…そんな薄着だったら、風邪ひいちゃうよ?」
そう言ってから、宮田に近づき、僅かに躊躇ってからそっと背後から腕を回してみた。宮田はそれに抗うことなく、逆にほんの少しだけ体重を一歩へと預けた。
直に触れてみて、予想に違わないことを、一歩は知った。
「………ほら。やっぱり、冷えてる」
恨み言のように呟く一歩に、宮田は口元に仄かな笑みを浮かべた。
「これくらいで風邪ひくほど、オレはヤワじゃないぜ。………でもまあ、薄着なのは認める」
現に、宮田はシャツを一枚肩から羽織っただけの姿だった。他には下着しか身に着けてはいない。つまり、素肌の殆どを外気にさらしているわけで、体温を奪われるのも当然である。
「それで?」
宮田におもしろそうに問い返されて、一歩は戸惑う。
「それで………って? な、何?」
一歩は、これ以上冷えないようにと思ったのだ。どれだけ冷えたのかを宮田の体に触れて確かめてみると、思ったよりもその体温は温かかったので、少し安心したけれど。
単にそれだけで、だからこそ一歩には、その先を問い返される理由が思いつかない。
すると、宮田は自分の体に回されたままの一歩の腕を少々強引に振りほどいて、向き直った。
「オレの体は冷えてるんだろ?…それで、お前はどうしてくれるってんだ?」
言葉の意味をようやく悟って、一瞬一歩は驚いて目を見開いた。
宮田の意外な切り返しに…どこか、こそばゆさを感じながら。
「…そりゃあもちろん、温めた方がいいんじゃないかなって、ボクは思うんだけど………?」
そう言って、窓際の傍らにあるベッドをチラリと目の端におさめてから、宮田の体をその上にゆっくりと横たえた。二人分の重みを受けて、軋む音とともにベッドが二、三度揺れた。
宮田が羽織っていたシャツは、ボタン一つすら填めていない。脱がせるのには、するりと肩からすべり落とすだけで、事足りた。
一歩は片手で脇腹から腰骨にかけて愛撫しつつ、唇で耳たぶを軽く噛んだ。
いつの間にか己の背に回された宮田の腕の重みを、面映ゆく感じながら、そのまま宮田の耳元で囁いた。
「…いいの? 温まるっていうより…熱くなるかもよ?」
「へえ………できるのか、そんなこと?」
間近で絡み合った宮田のその瞳は、『できるものならやってみろ』と語っていた。
何事においても屈することをよしとしない、意志の宿った、強い眼差し。今はその奥に、情欲の炎をくゆらせている。
宮田の視線を受け止め、一歩はゾクリと全身の肌が粟立つのを感じた。………それは、肌寒さからくるものじゃない…紛れもなく──快感から、だった。
ともすれば、一歩の心の片隅に埋もれていた『征服欲』をまざまざと見せつけられるような、感覚。
真っ直ぐなその瞳を、その心を、自分だけに向けて欲しい──そんなありもしない幻想を、こんなとき望みそうになる。
独占、支配、征服──言い方はどうであれ、一人の人に対して持つには、贅沢で強欲に過ぎる、その欲望。
不意に、苦笑が一歩の口元に浮かんだ。
もしも今のこの瞬間、宮田が誘っているつもりでないのなら、彼自身が困ることになるのでは、と内心思った。彼の口調も、仕草も、瞳も…一歩の情欲を煽るものでしかなかったのだ。
「………どうかな。…でもとりあえずは、冷えちゃった体を、温めないとね………」
そう言って、一歩はゆっくりと宮田に顔を寄せ、触れるだけの口づけをした。少し乾いていた宮田の唇を舌で潤してから、角度を変えて、再び唇を重ねる。幾度目か繰り返した後は、互いに薄く口を開き、濡れた舌先の触れ合う感触を楽しみながら、なま暖かい口腔内を行き来し合った。
これが──はじまりの合図。
誰も知らない、二人だけの。
いつもの………夜への誘い、だった──
終
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