キルアはテーブルに肘を突き、テーブルの向こう側、つまり正面に座っているクラピカを眺めていた。
眺めていた、というのは語弊がある。むしろ、見つめていたといった方が正しい。それも、穴が空くほどひたすら凝視。 遠慮などそこには欠片もなかった。
けれど、クラピカは全く知らん顔である。
何の文献を読んでいるのやら、やたらとごつい表紙の古ぼけた本を読んでいる。
左から右へと文字を目で追う姿はどう見ても読むのに夢中のようだが、それでもキルアのしつこい視線にはおそらく気付いているだろう。
キルアはクラピカを見つめながらそう思った。
多分気付いていてその上でキルアに目もくれない──それは即ち、今の時点においてはキルアよりも読書の方がクラピカにとって優先すべき事柄だということだ。
もちろんキルアのそれは、知っていてわざとクラピカの優先事項──読書──に対抗しているのである。
本当に気付いていないなら気付くまで。気付いていて知らぬ振りを決め込んでいるのなら、キルアを無視できなくなるまで──
早くこっち振り向かないかな、とその瞬間を心待ちにしながら、キルアは延々クラピカの顔をじーっと見つめ続けていた。キルアにとってそれは根比べに等しかった。
すると数分後、ようやくクラピカが顔を上げた。
「…キルア。さっきから何なんだ、お前は」
あからさまに呆れた表情をして溜息を吐き、クラピカはキルアを咎める。
「私に言いたいことがあるのなら、さっさと声を掛けたらいいだろう」
本当に素気ない言い方だったが、その冷ややかな眼差しはキルアをまともに射抜いている。
やっとのことで自分を見てくれたクラピカに、キルアは喜色に瞳を輝かせ、喉を鳴らす猫のように目を細めて笑った。
「だって、読書の邪魔しちゃ悪いじゃん? オレの視線に気付いてるくせにわざとシカトしてくれちゃってさー、それって邪魔されたくなかったからだろ? でもオレ、どうしてもクラピカに訊きたいことがあったから。そんじゃあ待つしかないかなって思って読み終わるの待ってたんだ」
「……あれだけあからさまに見ておきながら、『待っていた』とはよく言うものだな」
「えー、何でだよ。ちゃんとオレ、クラピカから声掛けてくれるまで黙ってオトナシク待ってたもん」
な、と上機嫌に笑うキルアの言葉は確かに正しい。黙って待っていたというのは明確な事実だ。
しかしその言葉を聞いたクラピカの眉は、一瞬ピクリと不愉快そうに顰められた。
──その通りだ。だが、無言は無言でも、思いっきり目で物を言っていたではないか!
クラピカは内心で声高に叫んだ。だが、直接キルアには言おうなどとは思わなかった。
言っても、また屁理屈で返されるだけだからだ。
不承不承反論を飲み込み、クラピカはすっかり冷えた紅茶の入ったカップを手に取った。
「でさ。早速なんだけど、訊いてもいい?」
「ん?」
カップを傾け、一口分の紅茶を口に含む。
クラピカが液体を飲み込もうとした瞬間、キルアはずっと訊きたくて仕方なかった質問を喜び勇んで口にした。──それはまるでアンタの血液型は何?とでも訊ねるかのように、気安い態度で。
「クラピカってセックスしたことあんの?」
がふッ。
飲み込むどころか、クラピカは半ば以上噴き出してしまった。
残り半分はいくらか気管に入り、思いの外派手にゲホゴホ咳きこんだ。
「うわッ、きったねーなぁ。何やってんだよあんた?」
嫌そうに顔を歪ませ、少し上体を仰け反らせて遠ざかるキルアに、クラピカは少々腹が立った。
──悪いのは私ではない、間違いなくお前だ!
「お…お前…がっ、変な…ことを、言うから…!」
ケホケホと、空咳はなかなかとまらない。息が苦しくて涙目になりながら、それでもクラピカはキルアを睨み付け、咳の合間にそう言った。
「変って何が? ──あ、表現ロコツ過ぎた? わりーわりー」
全然悪いとは思っていない言い方で謝って、にぱっと笑う。
「まあいいじゃん、ンな細かいこと。どんな言い方しても同じだって。で、どうなの?」
「……………………ノーコメントだ」
やっと咳が治まったクラピカは渋顔で、口元を拭ってそう答えた。
おそらくは興味本位でしかないキルアのこの質問に、正直に答えなければならない謂れはない。
また、真っ当な答えを返しでもしたら、イエスだろうがノーだろうが薮蛇になりそうな気がする。
だが、どんな返答をしようとも関係ないのかもしれない。
こんな質問をされた時点で、クラピカはとても嫌な予感がしていた。
「じゃあ経験なしってこと? へーえそうなんだ。…でも、その割にはさぁ」
チロリ、と流し目でキルアはクラピカを見た。
乾いた唇をペロ、と舌で潤し、にやりと笑う。
「すっげエロいキス、してくれたよな。あん時」
煽るような上目遣いと意味深な言葉に、クラピカの頬と目元が朱に染まった。
──あの時。
アルコールだと思い込んで飲んだものが、何者かによって変成され、媚薬となっていたあの時。
あらゆる毒に耐性のあるキルアと違い、クラピカはまともに効いてしまい、結果として理性を手放した。
ついでに記憶も手放すことができればよかったのだが、そんな都合良くはいかなかった。
効力が切れ、起きてキルアの顔を見てすぐにコトの次第を理解したクラピカは、穴があったら入りたいくらいに恥ずかしかった。はっきり言って、あの時ほどバツが悪いことといったらなかった。もう史上最悪なほどだと言い表してもいい。
あの時の出来事は、クラピカにとって、忘れたいランキングナンバーワンなのだった。
「……もう言うな、と私は言ったはずだ」
苦虫を潰した顔で、クラピカはグッと拳を握り締める。
キルアはそれを視界に収めながらも、口を閉ざさなかった。
──否、閉ざすわけにはいかなかった。
本題はこれからなのだから。
「んーそれはそうなんだけど、さ」
「『けど』じゃない。忘れろ」
「うーん、クラピカの頼みだからそうしたいのは山々なんだけど」
のらりくらりと言い訳を重ねつつ、無理、とキルアは最後に厳かに断言した。
それを聞いたクラピカは溜息を吐いて頭を抱えた。あっさり無理だと言われると、ちょっとばかりくじけそうになる。
だが、こんなことではいけないと自身を奮い立たせ、真剣な面持ちで理詰めの説得をキルアに対して試みた。
「なあキルア。そりゃあもちろん、文字通り記憶を抹消するのは不可能だ。だが、あれは薬のせいで起きたアクシデントに過ぎない。迂闊にもあの飲み物の正体を暴かなかった私が悪いのに、お前にこんなことを言うのもなんだが、一刻も早く忘れ去るべきだ。いや、そうしてほしいのだよ、私は」
姿勢も前のめりにキルアの方へと詰め寄りながら、必死な形相をしているクラピカを見て、キルアは困った顔で小さく笑った。
「オレ、あんたがそうしてほしいってのはわかってんだよね。でも、そうできないオレの事情ってのもあるワケで」
「事情…」
「そ。隠しても始まんないから言うけど、オレ──あんたとああいうこと、もっとシタイんだ」
キルアは小首を傾げてにっこりと、自分にしては可愛らしく言ってみた。
だが、その効果はちっともなかったようである。
キルアの台詞を聞いた途端、ガタンッ、と椅子をひっくり返しかねない勢いで、クラピカは体を引いた。
怒りのせいだろうか、顔の紅潮とともにクラピカの頬がひきつっているのが、キルアの方からありありと見て取れた。
「………………き…貴様は……っさっきから私が真剣に話をしているのに……なんという不埒なことを…っ!」
あまりの動揺っぷりと時代錯誤なその台詞に、キルアはたまらず噴き出した。
「くっ…あはは、あんたってホンットおかしい!」
けらけらと笑うキルアに、クラピカは少しばかり両肩の力が抜ける。
「…じょ、冗談…なのか…?」
「いや、至って本気。すっげーマジ。──大体、あんなキスされて煽られないって方が無理だって」
キルアの衒いのない言葉にカチンときたクラピカは、勢いよく立ち上がってキルアを見下ろした。
「巫山戯るのも大概にしろ。煽る煽らないの問題ではないっ。そういうことをしたいのなら、私ではなく他を当たることだ!」
眦をつり上げて怒るクラピカに、キルアは慌てて否定した。
「ちょ、待ってよ違うって、あれは単なるきっかけ! そうじゃなくて、あれからずっと考えてたんだ。クラピカが他のヤツとするとこなんて見たくないなって」
早々自分の思ったことを曝け出したりしないキルアだが、こればかりは本当だった。
全く偽りのない、正直な気持ちだ。
クラピカ本人に根本的なところで誤解されては、元も子もない。
頑固な彼がもし誤解をしたら、それはそう簡単に解けはしないと思うから。
「他を当たれって言われても、そんなの真っ平御免だ。誰でもいいなんて思ってない。あんたじゃなきゃオレはヤなの!」
他の誰でもなくクラピカにだけはそれをわかってほしいと願うキルアの気持ちが届いたのか、怒りを収めたクラピカはキルアの目を暫くの間凝視した。
面倒事を敬遠するキルアがクラピカに対して正面切って反意を述べることは、滅多にない。あるとすれば、それは譲れない何かを主張する時だけだ。
それを知っていたクラピカは、そういう意思をキルアの瞳に認め、力無くヘタリと腰を下ろした。
「……正気か? お前は……自分が何を言っているのかわかってるのか?」
「もちろん。わかってるよ、オレはね。……で、あんたは? あんたもオレと同じなんじゃないの?」
「……私が…?」
「だってそうだろ? あんたが知ってるのかどうかはわかんないけどさ。媚薬っていうのは本来、自分の気持ちを助長させるだけの代物じゃん。だからいくらあの時オレしか側にいなかったからって、男のオレを相手にしようなんてことには普通ならない。少しでも好きじゃなきゃね」
キルアが同意を求めると、クラピカは一拍置いてから、溜息混じりに頷いた。
「…………その類の話は…私も聞いたことがある。だが──……」
考えを巡らせているのか過去聞いた話を思い出しているのか、やや首を傾げて金色の髪をサラリと揺らせ、言葉を少し途切らせながら言葉を紡ぐ。
たとえ回想しながらであったとしても、普段通り滔々と滑らかに話せないクラピカというのは珍しくて、キルアは目を細めた。
「我々は仲間なのだから、それ相応の好意を抱いているのはごく普通の──」
「あのさ。それ、本気でそう思ってる? クラピカ」
ずい、とキルアは机の上に上半身を乗り出し、距離が少し近くなったクラピカの瞳をじっと見つめた。
瞳を覗き込めば、その奧にある感情も何となく掴めるものである。──と少なくともキルアはそう思っていた。クジ運などは滅法悪いが、相手の気持ちを読み取る能力は全くないわけじゃないし、状況判断や分析能力には割と自信がある。
自分の能力を信じるとするならば、多分、こうだ。
クラピカは、自分の言っていることを正論だと思ってはいる。けれど完全に納得しているわけではない。見たところ、どこかに矛盾を含んだまま、その小さなひっかかりを無視しきれない──そんな表情をしている。
惑う光の明滅する瞳は濡れているようで、綺麗だった。
何か言いたそうなクラピカの唇は薄く開き、キルアを誘っているかのように映る。
その柔らかさを、熱を、舌の動きを、キルアは知っている。たった一度だけの接触だったが。
けれど、瞳に燻る妖しい熱も、それに煽られたことも、己の身体は鮮明に覚えている。
──忘れられなくて、時々思い出すのだ。あの感触を。
「……キルア、それはどういう意味だ。真偽を疑っているのか? 私がお前を仲間だと思っているのは別に嘘などではな──」
「うん。そう思ってくれてんのは知ってる。でも本当にそれだけかっていうと、ちょっと違うんじゃないのかな──って。違うといいなってオレは思ってるワケ。それさ、仲間としての好意じゃなくて、もっと別のものだったり……しない?」
キルアはことりと首を傾けて、見つめたままクラピカに問いを投げ掛けた。
「ホントの所はどうなのかが知りたい。…だからさ」
そして、クラピカの頬を両手で軽く挟んだ。
驚いて目を見開く綺麗なその瞳には今、自分しか映っていない。
「試してみない? 素面ん時にこうしたら、どんな気持ちになるか」
逃げられないように片手をクラピカの後頭部へとずらしてから、キルアは唇を塞いだ。
* * *
クラピカは眉根に皺を寄せて、悩ましく盛大な溜息を吐いた。
「…何、その不景気な顔」
気分は上々ながらも唇を尖らせるキルアをチラリと横目で見たクラピカは、片手で自分の頭髪をぐしゃりとかきまぜ、再び大きく嘆息する。
その仕草はまるで、キルアのせいで滅入っているのだと言っているかのようだ。
キルアが文句を言おうと息を吸い込むと、しかし言う前にクラピカに遮られた。
「いいからお前は何も言うな」
「何で」
「余計なことしか言わないからだ」
「なっ…」
そんな言いぐさはないんじゃないかと抗議すべく、キルアは口を開いた。
が、クラピカにきつく睨まれて、先に続くはずの言葉は一つも音にならなかった。
いくら眦がつり上がってても目元やら頬が紅潮しているのではいくら睨まれたって迫力の欠片もなかったが、それはそれなりにキルアに対しては威力があったようである。
しかし何よりも──
「わざわざこんなこと試さなくても本当はわかっていたことなんだよ。だけど私はどうこうする気はなかった、お前が本気でその気になるとは思わなかったしな。…なのにまったく、お前のせいで──」
全て計算が狂ったではないか、という溜息混じりの甘い恨み言が、キルアの言葉を奪うのに最も効果を発揮した。
口説き文句をあっさり口にするクラピカって狡い。──とは言えないまま、キルアは照れ隠しにキッとクラピカを無言で睨み返した。
終
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