薬 

2004.11.25.up

 静かに部屋に足を踏み入れると、少々薄暗い中、クラピカはベッドに横になり、上掛けのタオルケットを握り締めていた。
 苦しそうに歪められたクラピカの顔を目の当たりにして、キルアは少し胸が痛んだ。
 思わず、汗で額にくっついた前髪を払おうと手を伸ばす。
 そうして、触れる直前だった。
「触るな」
 厳しい声音に、キルアの手は止まる。
 あともう少しで、クラピカに触れられるはずだったのに。
「…私に触るな」
 けれど、二度もきっぱり拒絶されてはそれ以上何もできない。
 キルアは唇を噛んで、その手を下ろした。
 クラピカの表情は、尚も苦しそうだった。
 眉間には皺が寄り、呼吸も荒く、肌は汗ばんでいるようだ。
 頬には赤みが差していて、熱が上がってきていることが見てとれる。
「私に構うな…。いいから、もう出ていってくれないか」
「そんなことできないよ。だってあんたのソレ、半分はオレのせいじゃん」
「…違う」
「でも」
「違うと言っている!」
 キッと睨まれるが、そんな涙目じゃあ迫力なんてないし、そうでなくともキルアとしては到底納得できない。
「どこが違うのさ。オレが何も言わずに薦めちゃったからだろ? …あの媚薬」
「言うなっ!」
 キリキリとクラピカの眦が上がるのを、キルアは眉をへの字にして黙って見つめていた。
 
 
 
 そう、コトは数時間前に遡る。
 キルアはとある店の前を通りがかったのだが、ショーウィンドウに面して飾られていた林立する綺麗な酒瓶のうち、一つだけ気になるものを見つけた。
 目を凝らしてよく見るとオーラを微弱ながら発しているそれは、デザインの凝った琥珀色の瓶だった。
 アルコール専門店のようだから、もちろんそれも酒だ。
 オーラが出ているのが瓶そのものか、それとも中に入っている酒なのかは開けてみないとわからない。だが、キルアは興味をそそられて、どうしてもそれが欲しくなってしまった。形といい模様といい、デザイン的に瓶そのものが大層気に入ったのだ。
 もしそのオーラが瓶に起因するのなら、ただ所持しているだけなら別に何の影響もないはずだから、中身の酒は普通に飲めばいい。逆に、もし酒がオーラを発していたとしたら、どんなものが混入されていようとキルアのこの体に危害を加えることなど殆どできないのだから、やはり何も問題はない。金額的にもお手頃価格で、キルアが手に入れたって誰も咎めはしない。
 そう考えた一分後には、キルアの手の中にその酒瓶はあった。
 
 ご機嫌なキルアは、鼻歌混じりにこう考えていた。
 どうせなら誰かと一緒にこの酒を肴に酒盛りでもしようかな、と。
 そう思ったのが、誤った道への第一歩だったのかもしれない。
 大前提だった無毒化する体というのは、キルア以外には通用しないのだから。
 
 結論的には、キルアは酒だと言って、その瓶をクラピカに差し出した。
 それ自体が異質なものだとはわざわざ言ったりしなかった。
 クラピカだってオーラが見えるなら、キルアと同じように気付くはずだから。
 もちろんクラピカは気が付いた。
 だが、キルアが嬉々として薦めるそれに、クラピカにしては珍しくも何の疑いも抱かなかった。
 グラスに注いだその時に、この液体の正体が何なのかわかったキルアは、お堅いクラピカの反応をワクワクと待っていた。
 しかし、いくら待てども、派手なリアクションもなく。
 おや? とキルアが首を傾げた瞬間目にしたのは、既にグラスに口を付けてしまったクラピカだった。
 
 いろいろ言葉にしなかったところが、どうもマズかった、らしい。
 
 
 
 
 
「……私がちゃんと確かめればよかったのだ…」
 悔しそうに、クラピカは顔を顰めた。
 瓶に貼られたラベルには、誰もが知っているアルコールの名が刻まれていた。
 意匠やデザインが通常のものと違うのは、どうやら何かの記念の品だからのようで、中身は市販されている他のものと変わらない。
 問題は、後に誰かの手がそれに加えられていた、ということだ。
「念能力を使えば、すぐにも読めたはずなのに……っ」
 あんな文字、と吐き捨てるクラピカの心情は、キルアにもよくわかった。
 巫山戯ているとしか言いようがないが、どこの誰だかわからない念能力者がその酒瓶に手を加えていた。
 塵や埃のような小さな文字で、ラベルのすぐ下に書かれていたことは──
 一つ、これが純粋なアルコールではないこと。
 二つ、これを飲めばたちまち元気になること。
 三つ、恋人と過ごす夜に飲むべきであること。
 四つ、個人差があるため効果は保証しないこと。
 この四つが、念を使うことで読めるようになっていたのである。
 三つ目だけで、用途はわかろうというものだ。
 二つ目では、何がどのように元気になるのかは、推して知るべしである。
「そりゃまあね…。オレだって、まさかあんたが確認しないなんて思わなかったから……」
 困ったように、キルアは溜息をついた。
 先にその文字に気付いたのは、キルアだった。
 ──潔癖なところのあるクラピカがその但し書きに気付いたら、一体どんな反応を返すだろう?
 そう思ったキルアは、そっとクラピカの表情が変わるのを盗み見ていたのだった。
 その時、キルアの頭の中ではいろんな想像が飛び交っていた。こんな巫山戯たものを量販店に流通させるなどもってのほかだ、と手を加えた能力者に憤慨するクラピカや、お前はわかっていてこれを購入したのか、とキルアを怒るクラピカなど。そうやってムキになって感情を露にするクラピカを見るのは、キルアにとって密やかな楽しみの一つになっていた。悪趣味だと言われようが、これだけは譲れない。
 だが、結局、飲む前に彼の表情の変化を楽しむことは、残念ながら叶わなかった。
「……うるさい。いいからもう放っておいてくれ」
「だからー、何度言ったらわかるかな……。ソレは無理。放っておくなんてできないってば」
 苛々と言い募るクラピカに、キルアは呆れたように突っぱねた。
「こうやって喋ってれば少しは気が紛れるだろ? だーいじょうぶだって、すぐ効果も薄れてくるよ。『個人差がある』なーんて言葉で逃げちゃってさ、大したことないヤツが作ったに決まってんだから」
 自信満々に言い放つキルアを見上げ、クラピカは二、三度瞬きをした。
「…………『気が紛れる』…ね。なるほど、お前は気を遣ってくれたわけか…。だが、勘違いをしてるぞ」
 鬱陶しい前髪を掻き上げながら、苦笑を浮かべた。
 意味がわからないキルアは、首を傾げる。
「勘違い?」
「…そうだ。『構うな』というのは私ではなくお前のために言ってるんだ……。キルアの気持ちはわかった、感謝する。だから、出ていってくれ」
「ダメ。納得できない」
「納得しなくていいから、構うな」
「やだね」
「………………じゃあ、わからせてやろう」
 気怠い動きをしていたクラピカの腕が突然上がった。
 かと思った瞬間、キルアの視界は反転した。
「う、わぁっ!?」
 ドサリという音と衝撃が体を襲う。
 手首を取られてひっくり返されたのだとキルアが知るのに、0.5秒掛かった。
 大きく目を見開くキルアの顔に、上からサラサラとした金髪が触れた。
 間近に迫るクラピカの顔に、ますますキルアは瞠目した。
「あ、あの………クラピカ…さん?」
 ダラダラと冷や汗が額を伝う。
 わからせてやる、と言った言葉とこの行動を結びつける何かが、キルアにはわからなかった。
「何だ?」
 婉然と微笑むクラピカを見て、綺麗だなと思う心とは裏腹に、身の危険を感じる。
「えーっとぉ……、これは、一体どういうことで………?」
「…わからないなら教えてやろう、と言ってるんだ。……なあ、キルア」
 耳元で囁かれ、熱い息を吹きかけられて、肌がゾクリと粟立つ。
「……あれは何だったか…お前も知ってるだろう」
「……あれって…媚薬?」
「そうだ。ならば、私が今何をしたいのか…お前は充分わかっているはずだよな? わかっていて私に近付いたのだろう?」
 キルアは、わからないと言いたかった。むしろ自分がそういう対象になるとは、考えたこともなかった。
 だが、目前のクラピカがそれを否定する。
 少なくともこの瞬間、キルアを性的対象として認識しているのだと、未だ手首を戒める力強い指が、そして何より欲情を隠さないクラピカのその瞳がそう語っている。
 けれどやはり、いつものクラピカではない。薬のせいで、どうかしているのだ。
 ──ならば、自分は?
 ゴクリ、とキルアは唾を飲み込んだ。鼓動が少し早くなっている。
 今、箍の外れたクラピカを見て、嬉しく思ってしまう自分も、どうかしているのだろうか。
「クラ…」
 彼の名を最後まで言うことなく、キルアは唇を塞がれた。
 重なる唇はあたたかい。舌でツルリと歯列をなぞられ、思わず力を抜くと、迷わずクラピカの舌がキルアの口腔内へと侵入してきた。
 歯茎を辿る、濡れた軟体物のゆっくりとした動きに、背筋を甘い痺れが走る。
 遠慮のない、けれど丁寧な愛撫に、キルアは拒絶する気が起きなくて、本気で困ってしまった。
 正直、どうしていいのかわからない。
 この先を続けてもいいものかどうか。
 自分にとっても、クラピカにとっても。
「…キルア」
 絡めた舌を離して、クラピカが微笑む。
 濡れている赤い唇が艶っぽく光った。
 上から伸し掛かられるのも見下ろされるのも本当は好きじゃないんだけど…クラピカならまあ許せるかも、などと思いながら、キルアが黙ってクラピカを見つめていると。
 重ねられた体躯がどんどん重くなってきた。
「ちょ…っと、クラピカ重い…っ」
 重くなるだけではなく、力も抜けていっている。
 手首の戒めは解け、頭は項垂れてしまい、反応が鈍い上、ずるずると重力に従って下がっていくクラピカの身体。
 ──まさか。
「クラピカ……?」
 クラピカの体の下から抜け出て、キルアが上体を軽く揺さぶってみれば、案の定聞こえてくる安穏たる寝息。
 ほんの数刻前まで苦しそうだった表情は、少し楽になったようだった。頬の火照りはまだ消えず、汗も引かないようだが、荒かった呼吸がここまで楽になったのなら、普段の体調に戻るまでそう時間は掛からないだろう。
 キルアはホッとした。
 と同時に、今し方の困惑が復活してくる。
「ったく……何だよ。ヒトに期待させといてさー…」
 完全に寝入っている様子のクラピカに、改めてタオルケットを掛けながらブツブツと呟いた。
 しかしすぐに己の発言の危うさに気が付いたキルアは、舌打ちをした。
 ──期待じゃねーダロ、期待じゃ。あんだけで終わりかよとか思った…わけでもなくってだな、まあ確かにイヤじゃなかったんだけどオレが押し倒されてる構図ってのが気に食わなかったと言えばそうかなっつーか……いや、それ以前に媚薬飲んだからって何でこのヒトが男のオレにセマってくるのかが最大の疑問で、だからオレも色々その後のことを考えなきゃいけなかったわけで……って、あれ? オレ一体何を言い訳するつもりだったっけ?
「だァーもうッ! わけわかんね」
 こういうことを考えるのには向いてない頭なのだ、自分のソレは。
 感情とか気持ちとか、なかなか整理のつかないものを理屈で説明しようなんて、無理な話だ。
 けれど、とふとクラピカを見て、キルアは思い直した。
 確か、クラピカはそういうことが得意だったはず。
「そだなー、起きたら訊いてみよ」
 キルアの訊きたいことはいろいろあるが、全部答えてくれるのかというと、クラピカの場合は特にそうではなさそうだ。
 だが、本当に本気で問い質したいと思うことには、キルアも手段を選ばないつもりである。
 クラピカの唇や舌の生暖かい感触が未だ残る自分の唇を、指でそっとなぞった。
「オレが薦めた責任ってのもあるけど、クラピカにも自分のしたことに責任持ってもらわないと。何事もフィフティフィフティだろ、やっぱさ」
 聞こえていないだろうクラピカに向かってそう言い、キルアは目を細めてニヤリと笑った。
 
 それは、狩られる者ではなく。
 愛しい獲物を狩る者の瞳、だった。



終     

   

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