広い一戸建ての家の中にあるその一室は、とても静かだった。
平日の真っ昼間に、男が二人もいるのだとしても。
そこが寝室である限り、いついかなる時でも静寂は保たれるべきなのであった──
「………んみゅ〜………」
むにゃむにゃと何か寝言を言っているようだが、うつ伏せになって寝ている瑛里の口元はシーツに埋もれていて、よく聞こえない。
さらさらの薄い茶色の髪が無造作にシーツの上に散っており、部分的には金色に輝いて見えた。
ついでにその両腕に抱えているのは枕…ではなく、ぬいぐるみだ。しかもどでかい。
寝る前には愁一の側にあったはずの物だが、いつの間にか瑛里にしっかと抱えられている。
それは、こうなるだろうことを見越して愁一が隙を見計らい、寝ている瑛里の手の届く範囲にわざわざ置いておいた物だった。
狙い通りに事が運んだことに、愁一は感動の余りむせび泣いた。
──ゆ、由貴ぃぃ〜…あんたって、あんたってホンットーに、寝てる時だけは…っっ!!
なんって可愛いんだー!!
と、心の中で雄叫びを上げた。(たとえ彼が起きていても寝ていても、いつどんな災難が降って湧いてくるかもわからないから口に出しては言えないのだ。)
もごもご何か言いつつシーツを口にくわえ、一度抱いたそのぬいぐるみを離す様子はない。
瑛里は言うなれば比較的大柄の男で決して華奢ではないのに、その仕草といったら、見ているだけで和んでしまう幼児や小動物のかわいらしさに匹敵する。惚れた欲目ではなく誰であろうがそう感じるだろうと、愁一は信じている。
端正な顔をしていて普段は二枚目然としているクールなハンサムが、あっちこっちに跳ねた茶髪をそのままに、大きなぬいぐるみを抱っこして、健やかな寝息を立てていらっしゃるのだ。
無垢で愛らしくて可愛くて、たまらず頬摺りしたりむしゃぶりつきたくなるのを必死で堪えながら、愁一はベッドの上でごろごろ転がり悶えた。
本当は、瑛里が可愛いのは寝てる時だけではない。
いつもは素直じゃない彼がほんの稀に本音を垣間見せたりする時は、照れ隠しに口を尖らせていたり頬を染めていたりする。それもまた、愁一にとってはどうリアクション取っていいのかわからないくらいに嬉しくて幸せで緩む頬を抑えきれないのだけれど、やっぱり口ではツンドラ気候の真っ直中に立たされたかの如く冷たく憎たらしいことを言ってくれちゃうのだ。
愁一に見透かされるのが瑛里は特に嫌なようで、ごまかしついでにいつも以上に冷たくあしらわれることも多くて、愁一的には悲しい思いもたくさんする。
それもこれも、最終的には『っん〜もうっ、ホントはオレのこと好きなくせに由貴ってば素直じゃないんだからぁ』という内心の結論で片が付くわけなのだが。
けれども、夜の明けた朝は──違う。
瑛里が天使の寝顔を見せてくれる『朝』は、瑛里のその美しい眉目に皺が寄ることもなく、薄い唇が刺々しい言葉を吐くこともない。
遠慮なんて何一つすることなく、ただただ安らいだ寝顔をじっくり拝むことができる。
愁一が仕事などで不在でなければ、瑛里の機嫌を損ねたり小説の〆切前だったりしない限り、家に帰ればほぼ毎日こういう姿が見られるのだ。
それは、瑛里の恋人である愁一だけの特権なのである。
ハタと気付くと口の端からヨダレが垂れていて、愁一は慌てて拭う。
ごくりと生唾を飲み込み、それから覚悟を決めて、あらかじめ用意していたカメラ付き携帯電話を瑛里に向けて構えた。
実はこの携帯は仕事用のものである。昨日改めて愁一に支給された。
プライベート用の携帯は別に持っていて、カメラ付きではないが代わりに昔瑛里と一緒に取ったプリクラを隙間なく貼っている。もちろん、愁一の宝物だし肌身離さず持ち歩いている。
仕事用の方はというと、以前から何も装飾もしていなかったが、しかし仕事用である以上はなくてはならない代物なのに、何故かこちらの携帯だけよく落としたりしてしまうのである。既に紛失を三回も重ねるという失態を犯した愁一は、昨日、N-Gの社長である瀬口冬馬にお呼び出しを食らい、社長自らカメラ付き携帯を手渡されたのだった。
「あなたにとってはそれほど大切な物ではないのかもしれませんが、仕事上必要だと判断しているからこそ支給しているんです。今度こそ、なくさないようにして下さいね」
畏れ多くも社長室に呼ばれての直々のお言葉に、ハイと素直な返事をし、震える手で愁一は慎重にソレを受け取った。
直後、そろりそろりと社長室を退室しようとした愁一に、冬馬は思い出したように付け加えた。
「ああそうだ、新堂さん。今度の携帯はカメラ機能もついてますから、試しに瑛里さんを映してみたらどうですか? そうすればその携帯、なくさずに済むと思いますよ」
にっこりと笑う冬馬の意図が咄嗟に読めず、呆然とその笑顔を見た。
けれど冬馬はただ笑うだけで、それ以上何も言ってはくれない。
愁一はとりあえずしずしずと重厚な扉を閉じ、完全に扉が閉まったのを確認してから肩の力を一気に抜く。
それから、自分の手にした携帯電話へとゆっくり視線を落とした。
冬馬の言葉を思い浮かべて。
──そう。大義名分が、自分に味方しているのだ。あの瀬口冬馬が自分の背後についている。
そうとわかれば、今の愁一に怖いものなどなかった。
本人にバレたらただ事では済まないだろうが肝心の瑛里は安眠しているし、その瑛里だってこんなに可愛い姿を愁一の前に自ら曝してくれているではないか。
実物の瑛里をこの目にすることの方が愁一にとってももちろん幸せに決まっているが、写真に収めればいつだって見ることができるようになる。
ツアーに出て会えなくて寂しい時や、仕事で帰られない時、それから──こちらから連絡して一言二言で通話を切られた上その後電話一本寄こしてくれなかったりする時には、きっと慰めの一つになるだろう。
それよりも何よりも。
この愛くるしい彼の姿を撮っておきたいと思うから写真を撮る──その行為自体に何の罪があろうか。
自分は曲がりなりにも瑛里の恋人だ。足蹴にされた回数もバカにされた回数も一番かもしれないが、一番身近にいて一番瑛里を愛してるのだ。
瑛里自身に写真を撮るとの承諾を得ていないのは仕方ない。彼は照れ屋だから公然と許可してはくれないだろう。けれどプリクラの前例もあるから、写真を撮ったことが後でバレても本心から嫌だとは言わないはずだ。
仕事用携帯電話をなくさないように瑛里さんの写真を撮りましょうね、と愁一に誘い水を掛けた冬馬のことを言えば、渋々でも了承してくれる。絶対そうに決まっている。
百人力の力を得たと確信した新堂愁一は、堪えきれないニヤケ笑いを浮かべながら、愛しい恋人の寝姿を携帯カメラに収めた。
一度や二度では飽きたらず、幾度もいろんな角度から撮ってみる。
撮影ボタンを押す度にピロリンと可愛く響く音は静寂を破り、撮影限界枚数に到達するまで鳴り続けたが、夢の中の由貴瑛里には全く届かないまま、被写体であるご本人は満足するまで睡眠を貪り続けていた。
* * *
「んーふふ〜んえへへへ〜ほぉーんとかーわいーよなあ由貴ってばぁ〜」
ニタニタと蕩けんばかりの笑みを零して携帯画面を見る愁一は、端から見ていて不気味だった。
奇行に走らない愁一の方がもちろん珍しい。
けれど、だからといって色ボケしている愁一をいつまでも見ているのだって、同じバンドメンバーにとっては苦痛なのである。
「──可愛い? 表現間違ってませんか、新堂さん」
見るに耐えない愁一を視界に入れまい、と背を向けたまま、順は眉間に皺を寄せた。
それも尤もな意見だと浩司は思うがコメントは控え、何とも言えない微笑みを浮かべて愁一を眺めていた。
由貴瑛里といえば、クールビューティと評される美青年小説家だ。繊細な文体で悲恋を主に綴るという話は噂に聞いているし、愁一の話もよく聞く。合わせて考えてみると、彼が気難しくて神経質な御仁だというのは簡単に予想が付く。
けれども、二人は恋人同士だ。恋人関係に首を突っ込むとロクなことにならない。
瑛里と愁一ならば尚更だ。
それなのに重々承知していながらいつも巻き込まれてしまう自分達に心の中で涙しながら、浩司は愁一の反論を聞いていた。
「何おぅ!? 由貴はホンットに可愛いんだからなっ」
「ハイハイ、そうだなーまあそりゃー愁一から見ればそうなんだろーなあ。でもほら、一般的には由貴さんって知的でクールな美形ってので通ってるしさ。普通の認識でいくと『可愛い』っていうのとは…」
違うんじゃないのか、と言おうとした浩司の言葉を、愁一は勢いよく首を横に振って遮った。
「それはそうなんだけどっ、超絶可愛いの! ヒロはコレを見てもそう言えるか!?」
遮ったのは言葉だけじゃなく、浩司の視界もだ。
目の前に突きつけられたのは、愁一が見ていた携帯画面。
思いも掛けない行動にギョッとしたが、その画面に映されている瑛里の姿にもビックリだ。
目を丸くしたまま何も言わずに画面を見つめる浩司に、つられた順も愁一の手にした携帯画面を横からひょいと覗き込む。
目をぱちくりさせたのは言うまでもない。
「………………え…これ、って、由貴さん………? だよ、な………?」
浩司は、自分達が高校生だった頃、目つきの悪い金髪にーちゃんにガン付けられたと喚いていた愁一の言葉を思い出した。
──目つきが悪い、ようには到底見えない。
それどころか、自分が知っている由貴瑛里とはとてもイコールでは結べない。
浩司の前で、本気の怒りに凄みを帯びて豹変したあの瑛里と、この人物が同じだなんて。
「………………そりゃ………瑛里さん、でしょう………?」
順も、瑛里のことは知っていた。掲載雑誌の記事のみならず、冬馬を通して義弟だというその彼の写真を見たことも過去にあった。成人してからの瑛里としか会ったことがないとはいえ、見て知ってはいた。
なのに、画面に映るコレも絶対瑛里なのだと断言はできない。いや、したくないと言った方が正しいか。
冬馬が義弟を可愛がる理由を何となく察しはしたが、順はこのような瑛里の姿を想像したわけでは決してなかった。クールな由貴瑛里の方が、順にとっては印象が強いのだ。
「なーなーすっごいカッワイイだろー? あっ、由貴にも誰にも絶対内緒だぞ!?」
──と言われても、第一由貴瑛里さんと話す機会など殆どございませんし、誰かに言うわけもないでしょう、バンドメンバーとして。
という浩司と順の言葉は、声にならなかったのだが、愁一はそれに気付いただろうか。
でれでれと再びニヤケ始める愁一は、浩司と順の返答など要らないかのごとく、一方的に話を続けた。
「これさー携帯なくさないために撮ったんだ。ぬいぐるみもホントはオレが貰ったヤツなんだけど、写真撮るために一応用意しといたらさ、これがまた上手くいったんだよ! ああんもう大成功っていうか、由貴このぬいぐるみ似合ってて超可愛いしなーオレって天才! オレ………オレ、絶対この携帯はなくしたりしないッ! 由貴の画像だけでメモリいっぱいなんだもん!!」
ごうごうと燃え盛る愛の炎が熱い。
飛び火しそうで、浩司と順は愁一の側から退いた。
部屋の隅に移動した二人は、半ば生気の抜けた顔で会話した。
「………まあ、お幸せそうで何よりですよ…。少なくとも仕事に悪影響はなさそうですしね………」
「………まーねぇ。愁一があの調子なら、とりあえず暫くは大丈夫だろうし………」
ひとたび、沈黙が落ちた。
そして、チラリと、浩司と順の視線が合わさる。
と同時に今一度大きな溜息が二人の口から漏れた。
「………………ボク、さっきのを見て、ちょっと思うところが…」
「………………オレも少しな…」
思うところは同じなのだろうかと、床をぼーっと見ながら浩司から口を開いた。
「──愁一ってさあ、感情にムラがあって喜怒哀楽激しくて、でもまあ、おバカで底抜けに素直で明るくて、そこが可愛いトコだよなーとオレは思ってるわけ。イチ親友としては」
藤崎は? と目で問う浩司に、順は渋顔で頷いた。
「………概ねボクもその辺は否定しませんよ。非常に迷惑被ってさんざんな目にも遭ったりしますけど」
その返答に苦笑した浩司だが、答えとしては予想の範疇である。
「…だよな。でも…、さっきの由貴さんの写真見たらなあ…。愁一も可愛いんだけど、由貴サンもさー…その…言っちゃあなんだけど………」
「ええ…そーですね………新堂さんの言葉…残念ながら否定できません、ボク………」
可愛いものは可愛い。愁一の言っていることは正しい。事実を知った以上、もう否定できない。
そうして暫くの後、シンクロしているかの如く二人は同時に後ろにいる愁一をそっと振り返った。
相変わらずピンク色のオーラを出しまくって、由貴瑛里の名と可愛いを猫なで声で連発している。でれんと垂れ下がった眦は、ファンにはとてもお見せできない。──いや、愁一のファンならそれもオッケーなのかもしれないが。
だが──あの瑛里の写真を見てしまった後では、バカな子ほど可愛いというように愁一だってもちろん可愛いけれど、可愛さ比較をするとどちらがどうとはもう言えなくなってしまった。
無論、浩司にも順にも全く関係ない話だ。恋人同士の彼らの間柄は、彼らの秘め事なのだから。
だが、僅かな好奇心が刺激されてしまった。
今、浩司と順の二人の脳裏には同じ一つの疑問が頭を擡げている。
可愛いラブリィ愛してると鼻息も荒くひたすら繰り返す愁一の愛の言葉が今もなお背後から聞こえていたり、そう熱く語る瞳が力強く雄々しく輝いていたり、そんなことが余計にその疑問を大きくする。変態的奇行が常時あるとはいえ、これまでは愁一に対して一度も抱かなかった疑問だ。
──あのぅ、その可愛いとかいう台詞には、食べちゃいたいほどだとかもう食っちゃったーとか、そんな意味も含まれてるんでしょうか…?
だとしたら何だと逆に聞かれても非常に困るが、質問に対してハートマーク付きで肯定されても何だか違和感がない。
言葉にしたら更に現実味を帯びてしまいそうで、それが怖い。
再び目を合わせた二人は無言で力無く微笑み合った。
そしてこの時を境に、そちらの方向に関する一切の思考を完全に遮断した。
危険回避をする能力があるのは素晴らしいことだった。
だが、回避できないこともある。
仕事上のスケジュールも偶発的出来事も、たとえ予測できたとしても回避は不可能だ。そして、瑛里と愁一が恋人関係である以上、話す機会はなくても顔を合わせることは大いにあるだろう。
次に瑛里に会う時には、”可愛い由貴瑛里”フィルターを掛けて彼を見てしまいそうで空恐ろしい。
BAD LUCKのギター担当およびキーボード担当は、幸せに浸って脳味噌が溶けてしまっている愁一を横目に、そんな機会が近々来ないことを心から祈った。
終
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