『寝床に就くとき、翌朝起きることを楽しみにしている人は幸福である』
そう言ったのは、誰だったか──
意識が徐々に浮上し目覚めた瞬間、朝とも昼ともつかない光がカーテン越しであっても明るく感じられた。尤も、眩しいというほどの明るさではない。
夕べは疲れ果てていつの間にか眠りに落ちた。翌朝のことなど考える余裕もなかったが、積もりに積もった疲労のおかげで深い睡眠をとることができたらしい。
身体の疲れは完全に癒されていて、瑛里は珍しく気持ちの良い朝を迎えることができた。
それだけで、もう充分幸福な気分だ。
例え寝入る時に朝の起床を楽しみにしていなくとも。
清々しい朝とは正しくこのような朝を言うのだろうと思いながら、しかし未だ起き上がる気分にはなれず、瑛里は布団にくるまったままゴロンと寝返りを打とうとした。
〆切明けのため、今朝は焦って起きなくてもいいのだ。これまた至上の幸福の一つだと言えよう。
そうして一つ寝返ってみたところ、同じ布団の中で丸く眠る愁一の寝顔が瑛里の視界に飛び込んできた。
意外だ、と思ったのは間違いではない。
寝汚い自分の方が愁一よりも先に目覚めていることなど、早々ないことだ。一旦二人して同じベッドで寝てしまった後、瑛里が愁一の寝顔を拝む機会は、考えてみれば今までなかった気がする。
夜行性の瑛里は普段から就寝時刻も遅いが、ほぼ同時に眠ったとしても常日頃からの寝不足がたたっているためか、睡眠時間は断然瑛里の方が長い。
先に眠りに落ちてしまう愁一を見ることはあっても、起き抜けにその顔を見た記憶はあまりない。
しかし今まさに、その機会が訪れていたのである。
瑛里は何となく、珍獣を見るかのように、愁一の安らかな寝顔をじっと見つめた。
愁一の様子は多分相変わらずなのだろうが、気持ちよく目覚めた朝だからこそこうして眺める気にもなったのかもしれないと、他人事のように自分自身を分析しながら、柔らかそうな頬や閉じた目元のラインを目で追った。
普段の新堂愁一といったら、やたら落ち着きがなくてちょこまか動くし、コロコロと表情も変化する。泣いたり怒ったり笑ったりと、いつも本当に大忙しだ。昼と夜とでは瑛里に見せてくれる顔は全く異なるけれど、それは同じく変化に富んでいるため、一定の印象というものが実はない。
強いて言えば、いつも幸せそうだなとか、身体全体で感情表現していて疲れないかとか、そんなことを思うくらいだ。
今見ている愁一の寝顔は、起きている時の表情豊かなものとは異なり、動くとしても微々たる変化だ。それは、瑛里にとって本当に珍しいものなのだ。
この際ゆっくりその寝顔を見ているのも悪くはないと、瑛里はそう思った。
「…ふーん……」
すやすや寝息を立てている愁一の顔を眺めていた瑛里だが、暫くの後、ツラはまあまあだなという感想を弾き出した。
顔は整っている──少なくともバンドのボーカルとしてCMにもTV番組にも出演し、かつ画面のアップに耐え得るレベルには達している。
まず思ったのはそんなことだ。
──瑛里の考えるそのレベルとやらの基準値が標準よりもかなり高いのだということに、瑛里自身は気付いていない。
気付かない事実は、彼にとっては幸せなことだった。何故なら、愁一がモテる可能性にも思い至らず、そのおかげで愁一に下心アリで近付く人間に嫉妬する羽目に陥ったりもしないのだから、余計な思いで心を煩わせることなく彼は平和な日々が過ごせるというわけだ。
ともあれ瑛里は、意外に長い睫毛やふっくらとした唇、後れ髪の絡む細い首筋へと視線を少しずつずらしていった。
起きている時にはあれほど騒がしいのに、寝ている時の寝相はそれほど悪くないのも不思議なもんだと思った。
羽毛布団は暑かったからか足で蹴飛ばしていてスラリとした素足が全く隠されていないが、胴周りは布団に埋もれている。
両肩から首にかけては布団がずり落ち、素肌が覗いていた。
焼けていないその肌が滑らかで触り心地が良いことは、誰よりも瑛里が知っている。
目を凝らして見れば、そこには数カ所昨夜の名残の印が点在していた。
それも、色濃く残っている跡ではないから、何とでもなるくらいのものだ。
そういえばそんなこともしたか、と昨夜のことに思いを馳せながら、瑛里は跡のある辺りを掌でそっと撫でた。
快楽を煽る意味ではなくて、不意に撫でてみたい衝動に駆られたのだ。愁一の素肌は肌理が細かくて、つい手を伸ばしてみたくなるものだから。加えて、肉の薄い男の身体のくせに抱き心地も決して悪くない。
しかし、その皮膚の表面は瑛里の掌よりもひんやりしている。もちろんそれは、今まで肩を出していたせいだろう。
瑛里はその冷えた肌を温めるように、至極ゆっくりと肩から首へとなぞった。そうして、首元にまとわりついていた後れ毛をサラリと後ろに梳く。
ついでに顔に掛かっていた横髪も、後ろの方へと梳いてやった。
「…………う…んん…」
そんな些細な感触程度で起きるほど愁一の眠りが浅かったとも思えないが、愁一は瞼を震わせ、寝ぼけた唸り声を発した。
別段他意のなかった瑛里が己の手をそのままにして、愁一の目が開くのを待つ。
そろそろと開かれた目は、どう見ても覚醒しきってはなかった。
焦点の合ってないままで彷徨う瞳が、瑛里を探している。
ようやく目的物らしきものを確認して、呂律の回らない舌で愁一は喋った。
「…………んー……ゆきぃ…? もう、あさ…………?」
朝だ起きろと瑛里が言えば、愁一は確実に起きるだろう。そう言わなくても、瑛里が起きていれば愁一は起きようとする。
今日が二人とも揃ってオフだという珍しい日であればこそ、一緒に過ごしたいというただそれだけの理由のために。
だが、寝ぼけ眼を擦ろうとする愁一の手を、瑛里は制止した。
「…いいから、まだ寝てろ」
「……でも…………ぁ、……」
これ以上愁一を覚醒させないように柔らかな声音で囁き、ぼんやりと瑛里を仰ぎ見る愁一の瞼に優しく唇を落とす。
両の瞼にキスをしながら緩やかに頬を撫で、瑛里は最後にふっくらと柔らかそうな赤い唇に己のそれをそっと重ねた。
深い交わりのない触れるだけの口づけは、愁一を安心させ、再び眠らせるのに効果があったようだった。
瑛里が暫く静かに待っていると、くーすーと愁一の寝息が聞こえ出す。
あっさり寝入ってくれた愁一の反応を声を殺して笑いながら、同じく再び惰眠を貪ろうと、瑛里も目を閉じた。
──今度は、抱き心地の良い温かな安眠枕を腕に抱いて。
終
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