……胸が苦しい。
息が、できない。
あの日。
テルは、オペの執刀を患者に拒絶された。
愕然として、瞬間、頭の中が真っ白になってしまい、即座に反応できなかった。
次いで、医者としての自分を全否定されたような情けなさと不甲斐なさに、今まで積み重ねていたと信じていたものが揺らぐ錯覚に陥る。
でも、こんな自分でもその患者を救うことができるはずだから──そんな思いで、誠意をもって患者に対し、必死に説得を試みた。
けれど──色よい返事は貰えなかった。
…わかっている。全ては自分の未熟さゆえなのだ。だから、自分が執刀することを拒否された。
そう思うから、余裕のある時間の殆どを修練に注ぎ、精一杯頑張って、できる限りのことをした。
同時に、心の底では途方に暮れていて、どうすればいいのか、進む道を見失い掛けてもいた。
そんな時だ。あの話を聞かされたのは。
──指導医交換。
北見までもが、テルの指導を『放棄』した。
少なくとも、テルの目にはそう映った。
それを言い渡された時の気持ちは、言いしれないものがあった。
絶望とまでいかなくても、喪失感と惨めさがない交ぜになって押し寄せてきて。
ひやりとした冷たい風が胸中を横切った。
その日を境に、その冷たさは何度もテルの中によみがえる。
毎日の仕事を終え、帰途に就く。そして明日に備えて睡眠を取る。
休養すべく布団に入り、寝入りが悪いのを、かなりの時間を掛けてどうにか眠りの淵に落ちていく毎日。
けれど、夢の中でまで沸き上がるその息苦しさと胸の痛みに、まだ夜も明けない時刻、目が覚めた。
そんなことを、もう幾夜繰り返しただろうか。
そして、今夜もまた──
テルは悪夢にうなされ、飛び起きた。
息も荒く、忙しなくバクバクとがなる心臓が、一層テルの潜在的な不安感を募らせていく。
汗をかいたのか、肌がじっとりと湿っていて、なのに皮膚はひんやりと冷たい。
悪夢──いや、夢ではない。
これは現実だ。
「…………っくしょう……」
力無く小刻みに震える体を両腕で抱き込み、テルはぎゅっと目を瞑った。
もう何も見たくないというように。
そう。
──目を背けたかった。
拒まれたという現実から。
『オレを見捨てんのかよ!?』
テルの口から自然と出てきた、北見への台詞。
本気でテルはそう思った。自分のお荷物ぶりに、北見がとうとう心底呆れ果てたのかと思った。そう信じるに値する表情であり、態度だったのだ。北見のそれは。
その瞬間の衝撃といったら、なかった。
今までしっかり踏みしめていたはずの地面が、一瞬にして消えて無くなったかのような空虚さ。
虚無と絶望。
そう、やはりあれは絶望なのだ。
心の奥底に眠っていたこの感情を起こしたのは、彼──北見柊一だ。
飛行機事故で思い知らされた、己の無力さ。失ったものの大きさ。そこからくる絶望がどれほどのものか、同じ境遇に遭っていなければ本当には理解し得ないだろう。
実際テル自身、誰かに理解してもらおうとも思ったことはなかった。
けれど、その絶望を目の前にし、底のない恐怖に身が竦むのを止められない。
そのせいだろうか。自分にこんな思いをさせてくれた人物への感情がより激しいものへと変わる。
手術を拒まれたというだけでは、こんな気持ちにならなかった。絶望が再びこの胸を覆うこともなかったのだから。
逆恨みだとは充分承知している。
だが、見捨てられて初めて自覚した感情への戸惑いは、どうしてもその人物へと向けられる。
──こんなに頼っていたなどと。好意さえ抱いていたなどと。
強烈な喪失感に目の前が真っ暗になって、初めて知った。
こんなふうに思い知らされるなら、知らない方がマシだった。
テルがそんな気持ちでその背中を睨めつけていることを。
彼──北見は、何も知らない。
終
|