大きな瞳をきらきら輝かせて、スプーンでアイスクリームをたっぷりと掬う。
チョコレートペーストがふんだんにかかり、ナッツが上に散りばめられているそれを嬉しそうに眺めてから、大きな口を開ける。
そしてパクリと口に含み、舌で味わう瞬間、天にも昇りそうなくらい幸せに満ち足りた表情をする。
──嗚呼…これぞ、至福の時──
そんなテルを正面に、テーブルを挟んで向かいに座っている北見は、涼しげにブラックコーヒーを飲んでいた。
無表情にカップを傾ける北見だが、何も外界からの情報をシャットアウトして自分一人の世界に浸っているわけではない。
彼は先程から、脳裏に浮かんだ一つの疑問に気を取られていた。
──そんなにソレは、美味しいものなのか?
パフェ、というものを、北見は今まで食べたことがない。
甘いものは好きでも嫌いでもない。要するに、パフェを食べたいと思ったことがないため、注文したことも勿論ない、という次第だ。
だが、こんなにも美味しそうに食べる者が目の前にいると、少し興味が湧く。
チョコもアイスも、単品ずつならば北見とて食べたことがある。故に、パフェの味がどんなふうなのかは大体の想像がつく。きっと、想像に違わぬ味を提供してくれることだろう。
それでも一口食べてみたい──と、北見がつい思ってしまうほどに、目の前のテルは、それはそれは幸せそうにパフェを食べていた。
因みにテルが注文したのは、この喫茶店名物のパフェである。この店は、デザートに目がない人間なら誰でも知っている喫茶店であり、その価格は全体的にお高いけれど味はバッチリ保証できる、という触れ込みだ。
そして、今日は給料日当日でありながら、テルの自腹ではなく北見の奢り。
いつになくテルが嬉しそうにしている要因の一つは、そのことにあった。
もちろん北見はそんな事実など何も知らない。
ただ、幸福を噛みしめているテルの顔を見て、そのパフェが相当美味しいということだけは、十分にわかった。
だからこそ北見は今初めて、パフェというものを食べてみたいと思っているのだ。
だが、残念なことに、現時点では北見の望みは叶いそうになかった。
ここは自宅ではなく、自分たち以外の人間が大勢いる喫茶店の中だ。
衆人環視のこの場所で、パフェを一口くれとは、北見は口が裂けても言えない。
男女のカップルならまだしも、ただの上司と部下という関係の、しかもいい歳をした男同士で、どうしてそんなことができようか?
そもそも、デザートが売りのこの店で『男二人連れ』ということだけでも周りの注目を集めており、複数の視線がいつになく痛いのだ。
地理的にヴァルハラからそう遠くないこの近辺での悪目立ちは極力避けたいし、また、そこまでしてパフェを食べたいと北見は思っていなかった。
──それにしても。本っ当に、こいつは今、幸福の絶頂なんだろうな……。
一目でそうと確信できるほど、とろけるような恍惚の表情でパフェをパクつき、その味覚を存分に堪能しているテルを横目で見、北見は吐息とともに一旦コーヒーカップをソーサーに戻した。
パフェ一つでそんなに幸福か、と呆れなくもないが、それでテルが幸せな気分になれるというのなら、何も言うまい。
実際、目の前で終始嬉しげな笑顔でいられると、小言を言う気も失せてしまった。
そうして暫くの間、北見はテルがパフェを食べる様子を眺めていた。
すると、北見の視線に気付いたテルが、ふと手をとめて顔を上げた。
「…何? 北見」
「いや…。美味そうに食うもんだと思ってな」
北見がそう言うと、テルは、我が意を得たり、と言わんばかりに勢い込んで身を乗り出し、首をコクコクと縦に振った。
「そりゃーもう! だってこれ、マジ美味いぜ? それにパフェ食うの久々だしさ。……ハッ、ま、まさか北見…?」
北見の目から隠すように、テルはパフェの器ごと両腕でしっかと庇う。
「欲しいとか言わねーよな? やんねーぞコレはっ!」
ガウ、と警戒心を露にして大好物を奪われまいと吠えるテルに、北見は頭が痛くなった。
──…何もそこまでムキになることはないだろう。第一それは誰の奢りだと思ってんだ、テメェは。
お前は小学生か、と言いそうになるのを何とか堪え、片手で額を覆って溜息を吐く。何かを言う気さえ奪われた。
美味しそうだと思ったのは事実だが、横から貰おうとはこれっぽっちも考えなかったのに。
小言を口にせずに胸中にとどめおく分だけ北見のストレスは溜まり、その溜息は存外重々しいものとなった。
「…………わかったからさっさと食え…」
返事の代わりにテルはニッコリとご機嫌に笑い、再びスプーンを手にいそいそとアイスを掬い出した。
ゆっくりと味わっているようでいながら、実は食べるスピードはそれほど落ちていなかったのか、気が付けばパフェはすっかりテルの胃袋へと消えてしまっていた。
北見が見ている分にはそのパフェは結構な量だったのだが、それでもテルは物足りない様子で、器の底に溜まった甘ったるそうなチョコレート色のものをカチャカチャとスプーンで掻き集めている。
それをほんの三十秒少々眺め見て、もう満足した頃だろう、と適当なところで北見は声を掛けた。
「テル、そろそろ出るぞ」
「……ウィッス」
まだ未練がましく目で追っていたようだが、北見がレシートを持って立ち上がると同時に、テルも腰を上げた。
会計を済ませて扉を開けると、戸外の明るい陽射しがやけに眩しくて、北見は目を細めた。店内が少し薄暗かったせいか、明順応できていない目の奧が少し痛い。
心地良いそよ風がサワサワと街路樹の小枝を揺らし、髪を優しく靡かせる中、後ろからついてきていたテルがいきなり北見の前に回り込んできた。
「今日はごっそーさんでした!」
にこにこ、と子供のように無邪気な笑顔で元気良く言われ、北見は一瞬言葉に詰まった。
「……約束、だったからな」
テル専用のシュガーミルクストロベリーを、コップ一杯とはいえ無断で飲んだ(…というよりも舐めただけの)代償がこれだ。
つまり、パフェを奢ること。ぶーぶー文句を垂れるテルに業を煮やした北見が、代わりのものをくれてやる、と勢いで言ってしまったことに、端を発している。
北見がテルを連れ出したのは、その約束を果たすためだ。それ以外の目的は何もなく、むしろ相手がテルということで些か憂鬱な気分でもあったのだ。
それがいざ誘って出掛けてみると、テルは、院内で北見の指導を受ける彼とは別人であるかのように、惜しみない笑顔を北見に向けてくる。
ここに来るまでの道中でも、テルは北見の前でよく笑い、よく喋った。
…それはまるで、浮かれてはしゃいでいるみたいに見えて。
北見はそんなテルに内心驚き、戸惑っていた。そして、それを好ましいと少なからず感じている自分自身にも、困惑していた。
「……たみ、北見ってば!」
間近で聞こえたテルの呼び掛けでようやくハッと我に返った北見は、訝しげにこちらを見るテルと視線を合わせた。
「ああ…、何だ?」
「何だ、って……あのねェ。アンタ、今日はなんか変じゃないっスか? ボーっとしちゃって」
変だと指摘された北見は、憮然と言い返す。
「…変なのはオレじゃなくてお前だ。他人の嗜好にケチをつけるつもりはないが、パフェ一つでやたらと嬉しがるお前の感覚は、オレには到底理解できん」
ケチつけてんじゃん思いっきり!
という突っ込みは内心だけにしておいて、テルはふぅん、と北見の顔を見つめ、拗ねたように口を尖らせた。
「フン、どうせオレはお子様ですよだ。でもオレ、ちゃんと知ってんだからな」
テルの含みのある言い方に対し、何をだ、と北見が問わずにひたすら黙っていたのは、偏に嫌な予感がしたからである。
だが、敢えて訊かずとも、テルは北見の目の前で人差し指をチッチッと左右に振って、続きを言った。
「北見、ホントはあのパフェ食べてみたかったんだろ? さっきずーっと物欲しそうに見てたじゃんか」
えっへん、どーだ図星だろマイッタか!
と、言い出しかねない得意げな顔を見せ、ニッと笑ったテルは胸を反らす。
北見は思わず、大きく舌打ちをした。……ほんの少し思っただけのことをテルに気付かれるとは、不覚の極みだ。
だが、だからといって頷くことはできず、北見は渋面を作った。
「…そんなことはない」
「またまた〜。素直じゃないんだからなーホント」
「バカが、早とちりするな。違うと言ってるだろう、オレはただ…──」
「いいからいいから、わかってるって! だからさ、今度またあそこに行きましょうよ! そん時はちゃんとアンタも注文すればいいじゃん。でさー、オレが目を付けてたヤツがあと何種類かあるんだけど〜……」
──ちっともわかってないじゃないか!
呆れてそう言おうとしたが、今後の予定を立てながらうっとりと夢見ているテルに、北見は何故か水を差すのを躊躇った。
「さっきも迷ったんだよな。種類も豊富だったし、メニューの写真見てると他のもスゲー美味そうだったし。次は何にしよっかなあ〜」
尚も続くテルの夢見がちな台詞は、あくまで次があると信じて疑わないからこそ出てくる言葉だ。
『今度』『次』──そんなものがあると、北見はテルに言われるまで考えもしなかった。
普段なら、ようやく面倒な約束を果たして解放されたところに次を促されるなど冗談じゃない、と自分は思ったに違いない。
だが、北見は今、煩わしさを感じていなかった。そうではなく、ただひたすらに戸惑っている。
今日は全てにおいて自分のペースが乱されているように感じられた。
無論、原因はテルにある。
「……今度…?」
譫言のように呟く北見に、テルはあっさりと頷いた。
「そ、今度。アンタの都合のいい時に。あ、別にオレ、次も奢れとは言いませんよ? ……アンタがオレのシュガーミルクストロベリーを勝手に飲まない限りはね」
──あんなモノ、二度と飲むものか。
即座にそう思った北見の心情はさておき。
奢るも何も、その前段階として、北見は行くとも行かないとも言っていない。
にも関わらず、テルの中では既に約束したに等しい扱いとなっているようだ。
常日頃になくご機嫌なテルを、北見は暫し黙って見つめた。
──断るべきか、聞かなかったことにして無視するか。それとも、受けるべきか。
北見の視線に気付かないテルは、相も変わらずヘタクソな鼻歌混じりで北見の隣を歩いている。
その様子を眺めていると、こんな小さなことで悩むのがバカらしくなってくる。
「………………まあ、いいか……」
考えに考えた末、北見は諦めたように、小さくひとりごちた。
すると、それを耳聡く聞き取ったのか、テルが大きな瞳を北見にクルリと向けてくる。
続いて浮かぶテルの喜色満面の笑顔と『約束だからな!』という言葉に、ああそういうことか、と一つの理解が北見の胸中に広がった。
今、自分がテルの誘いを拒まなかった、理由の一つ。
北見は、珍しくテルが己の前で大盤振る舞いをしてくれる笑顔を、もう少し見ていたかったのだ。
もしここで北見が無碍にあしらったとしても、テルはきっとふてくされながら『そう言うと思った』なんてコメント付きで膨れっ面を曝しはするが、文句を言いつつも易々引き下がるだろうことは想像に難くない。だが、屈託のない笑みは多分もう見られなくなる。
北見にとっては、最も見る確率の低いのがテルの笑顔だ。誰にでも笑い掛けるテルの無邪気な笑顔を見たいと、意識して思ったことなどないけれど。
滅多に見られないだけに、惜しくなった。
それよりも、嬉しそうな顔で隣を歩くテルがいる──そんな些細なことで心が浮き立つ自分が、北見はおかしくて、思わずクッと笑う。
仰天して目を丸くしたテルに気付いても、笑うことはとめられなかった。
──数時間後。
自宅のマンションに帰り、食事を終え、シャワーを浴びた後のくつろぎの時間。
ソファに座った北見は、物憂げな表情でグラスを傾けていた。
浴後サッパリとして冷静になった北見が、とっくの昔に成人した男二人のパフェにありつく姿を具体的に想像し、そんな約束をうっかり交わした己の軽率さに苦悩の溜息を苦々しく漏らした……かどうかは本人のみぞ知るところである──
終
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