夢と現 

2003.11.9.up

 あたたかなぬくもりが、自分の上に伸し掛かる。
 その重さと圧迫は結構なものがあって、多少息苦しくなった。なのに、テルは何故かそれを退かしたいという気持ちにならなかった。
 むしろ、心地よささえ感じていることが、自分でも不思議だった。
 
 ──…テル
 
 と、耳に届いた声音は驚くほど優しくて、テルは身の裡から沸き上がる歓喜に身を震わせた。
 けれど。
 ──こんなのは、北見じゃない。
 そう思って、眉を顰める。
 テルの指導医である北見は、険しい表情しかテルに見せない。
 病院の中だろうが外だろうが、テルに対する彼の態度はいつも刺々しくて厳しいのだ。
 テルの前で笑うとすればそれは嘲笑だし、その眼差しは常に鋭く冷たく、口を開けば滑らかに出てくるのは叱責と嫌味の数々。
 それなのに、こんなに甘くテルを呼ぶ北見なんているわけがない。
 非現実的すぎるし、きっとどうかしているのだ。
 …自分の耳がおかしいのか、それとも北見がおかしいのか、それはわからないけれど。
 少なくともはっきり言えることは──
 これは、北見じゃない。絶対に、違う。
 強く確信して、もう一度テルは視線を上げる。
 だが、目の前にいる人は北見以外の誰でもなかった。
 
 切れ長の目が熱っぽくテルを射抜き、見えない鎖でテルの動きを封じ込める。
 器用そうな長い指がテルの肌の上をゆっくりとなぞり、首筋から胸元、腹へと徐々に下降していく。
 そうして熱い吐息で耳朶を擽りながら、北見は睦言のようにテルの名を繰り返すのだ。
 低く掠れた声で、優しく甘く、心に深く刻みつけるかのように。
 
 ──テル……
 
 ダメだ、と思う。狡い、とも思う。
 名前を呼ぶだけで自分を呪縛する男。
 何の断りもなく自分の心を奪っていく男。
 なのに、それを喜ぶダメな自分がここにいる。
 もっと求めて欲しいと願う自分がここにいる。
 こんなの最悪だ、と思うのに、テルは北見の背に腕を回す己の行為を止めることはできなかった。
 自分より一回り以上大きなその背中を柔らかく抱擁するのではなく、自分の両の腕できつく、強く抱き締める。
 いつも冷たさを感じさせる男の、初めて見せる甘やかな熱を。眼差しを。…身体ごと胸に抱き寄せて。
 自分以外の誰にも渡さない──
 祈りに等しい想いをのせ。
 
 そして直後に手にしたのは、己が身を灼く欲と、悦楽──
 
 
 
 
 
 *  *  *
 
「ッ……!」
 体がビクリと大きく痙攣し、次の瞬間、テルはガバッと布団を蹴って跳ね起きた。
 はぁはぁと肩で息を継ぐほど、呼吸が荒い。心臓もバクバクと飛び跳ねていてうるさい。
 ──なっ何だよ、今の!?
 思わず口元を手で覆う。
 正に、テルの頭の中は真っ白だった。
 …驚きも度を超えると何も考えられない、と人づてに聞くが、その通りの現象が今起きていた。
 呆然と、本当にただひたすらに呆然と、布団の端を握り締めたまま、テルは微動だにせず固まっていた。
 息はしているが、その酸素はどうやら上手く体の中に運ばれていないらしかった。
 一体どのくらいそうしていたのか、ふと、テルは全身の汗腺から汗が吹き出していることに気付いた。インナーのTシャツがペタリと肌に張り付いて気持ちが悪い。
 未だに頭の中がパニクっているテルは、とりあえず心を落ち着かせようと、思い出したように何度も深呼吸を繰り返した。
 そして、努めて冷静に己の体の状態を顧みる。
 ある程度時間を置いて考えた結果、テルは、心身ともに異常なし、との自己判断を下した。
 起き抜けであることから、もちろん股間も正常な成人男性の起床時の有りようである。よって、全く問題はない。
 股の部分が異様に湿り気を帯びるという悲惨な状況に陥っていなかったこと──それが、今のテルにとっては正しき道への第一歩だった。
 その第一歩をクリアし、テルは、ホッと一つ安堵の息を吐いた。
 …それ以前の問題として、そんな心配を一番最初に真剣にしなければならないこと自体が既に救われていないのだが、幸い、テルはそこまで考えが及ばなかった。
 尤も、まともな思考ができる状態だとは言いがたい。思考回路自体に、どこか損傷があるに違いない。
 いつもの自分であると断言できる自信は、テルにはなかった。
 何せ、『夢』というものが自分の意思でどうにもできないものである、と理解しているとはいえ──
「……な…、何っつー夢を…………」
 テルはそれ以上何も言えず、意味不明な呻き声とともにその場に突っ伏した。
 まず、不謹慎といえば、あまりにも不謹慎。
 当直の仮眠中──よってここは仮眠室である。
 一応は職場で勤務中、というのにも関わらず、あんなはしたない夢を見てしまうとは。
 しかも、テルがパニックに陥るほど動揺したその理由は。
 相手が北見であること。
 これに尽きる。
「…っだよ、もう…。……あんなんゼッテーあり得ねぇ……いやいや、あってたまるかってんだ……ッ」
 忘れよう、と首を左右に振りながら、懸命にその忌まわしき記憶を消し去ろうと頑張った。
 それはもう必死に。
 何故なら、現実問題としてあるわけがないからだ。可能性を吟味することが、そもそも間違っている。
 けれどテルはその時、何を血迷ったのか、脳裏の端に残る夢の残滓を思い浮かべてしまった。
 
      快楽を煽る、すらりとした指。
      北見の唇と自分のそれが触れ、舌が交わり絡む、濡れた感覚。
      応えるどころか積極的にその先を求めたのは、北見の方ではなく──
 
「だあぁっ! 違う、思い出すなってばっ!」
 思い出せば、アヤシイ気分になるだけである。
 ヤバイくらいに、夢の中では北見と二人、快楽を貪っていたのだ。
 忘れたい忘れよう忘れなければ、と呪文を心で唱えながら、けれどテルはだんだん悲しくなってきた。
 あり得ないと思う端から、次々と浮かび上がる夢の光景と感覚。
 男が相手、相手が北見。そしてそのことに嫌悪感を感じるどころか『有りだよな、それも…』とかついつい思っちゃう不純な自分も、実は心のどこかにいたりする。
 何が何だかわけがわからなくなって、わしゃわしゃと頭をかきむしった。
「うわわ〜違うゼッテー違うっ、有りじゃねえっつの! 何バカなこと考えてんだオレは〜」
 あらぬことを考えまいと、わざと声を上げて自分自身にとくと言い聞かせる。
 そうでもしなければ、方向を見失った己の思考は更に暴走しそうだった。
 その時、不意に頭上が翳った。…それが人の影だとわかったのは、次の瞬間。
 
「…でかい独り言だな。何を喚いている」
 
 突如、頭上近くから硬質のテノールがテルの耳に届いた。
「うぎゃあっ!!」
 バクンバクンと口から出てきそうな心臓を無意識のうちに手で抑え、テルは目をまん丸にして声の主を振り返った。
「き、き、きたみ…!」
 一体いつから、何でここに、と条件反射で問う前に、端正なその顔を拝んだ途端に夢の展開が頭を過ぎり、慌てて北見から顔ごと視線を背けた。
 そして気になったのは、北見がまだ院内に残っていることだ。
 今日は彼は当直ではないし、遅番でもない。
 なのにどうして今ここにいるのだろうか。
「調べ物をしてたら遅くなったから、仮眠でも取ろうかと思ったんだが…」
 いつもの如く、テルの思考を苦もなく読み取った北見が、面倒臭そうにそう言ってくる。
 そうっすか、と、いつものテルならばサイコメトラー北見に内心仰天しつつも答えるだろう。
 だが、今日のテルは違った。
「……テル?」
 北見が訝しむほどに様子が違っていた。
 テルは北見の言葉に何の反応もせず、首を傾げる北見の前で、全く別のことを考えていたのだった。
 長い前髪が顔に幾筋か垂れている。サラサラとした黒い髪と二つの濡れた漆黒の瞳は、元々端正な顔立ちにとてもしっくりくる。さっきチラリと見た薄い唇は荒れてなくて、その奧から覗くピンク色の舌が…──
「テル、お前熱でもあるのか…?」
 怪訝そうに顔を寄せてくるのに、テルはギョッとして後ずさった。
「あっ!? い、いやいや熱なんてないです! もう全然!」
 一気に顔に血が上った。と同時に、北見からジリジリと遠ざかる。
 挙動不審なのはわかっていても、もうどうしようもない。ただこの場から逃げたい一心で、テルは一つしかないドアに向かおうとしていた。
 けれど遠い。北見の側をすり抜けなければならないから、余計に遠い。
 それでもこの仮眠室から出ないと、色々とヤバそうだった。自分的に。
「じゃッ、オレはこれで!」
 ギュッと目を瞑って、テルはダッシュで部屋から飛び出した。
 思わず呼び止めようとした北見の手が虚しく空を掻いたが、北見にとって、テルの理解不能な言動は今に始まったことではない。
 腕を脇に下ろした北見は、まあ気にすることはないか、と頭を切り替え、仮眠室の小さなベッドに横になった。
 
 
 
 
「……どうしよう、オレマジにヤベー…」
 夢を見た直後とはいえ、テルは一瞬、北見に見惚れてしまった。
 オレどこで道を誤ったんだろう、とうわごとのように呟きながら、デスクに懐いて項垂れる男が一人、医局にいた。


 彼の幸せへの道は、果てしなく遠い…のかもしれない。



終     

   

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