「テル先生、回診の時間ですよ」
「そうッスね。じゃ、行きましょうか」
ナースの声に、アイツが笑顔を向けて立ち上がる。
近くで聞こえたその会話に反応して思わず視線を向けたボクに、アイツは気付き、いきなりムッとした顔でこっちを振り向いて、口を尖らせた。
「…何だよ」
「別に、何も」
軽く笑ってサラリと躱した。
微笑みの裏でボクが考えていることなんか、きっと思いつきもしないだろう。
ボクだって、自分自身が信じられないくらいだ。
このボクが、だよ?
何だってこんなヤツに、興味を抱いてるんだか。
不可解なこと、この上ない。
「だったら、ンな嫌みな笑い方すんなよな」
ケッ、とふてくされた顔でそっぽを向いて小さくぼやいたのは、多分、ボクに言うつもりなんかない独り言、なんだろうけどね。
キミの声は小さくても、よく通るんだ。
自分で知っておいた方がいいんじゃない? ボクはわざわざ教えたりしないけど。
「聞こえてるよ、テル先生」
「う゛っ」
はっきり言って、ボクと一つ二つしか年が違わないようにはとても見えない。
ボクも他人のことは言えないけど、テル先生って童顔だし。でも、それだけじゃなくて、子供っぽい所が多いというか。
子供と相性がいい、っていうのはものすごく頷ける。
その点だけは感嘆に値する。
それだけは、テル先生には適わない。…まあ、張り合おうとも、ちっとも思ってないけどね。
だけど、ボクに勝っていることなんか、多分それだけだ。
別に技術がボクより上ってわけじゃない。
経験も、ボクと競り合うほどでもない。
なのに。
他人にさして興味を持たないボクが、アイツを視界に入れてるだなんて。
実際、ボクはアイツの何が気になってるんだろう?
正直、よくわからない。
* * *
結局、会話はナースの一声によって途切れ、ボクは自分の仕事に戻った。
そして今、少し他科に所用があって、病棟の廊下を歩いている。
と、回診を終えたらしいアイツとナースが、並んで階段を上がってきているのが見えた。
話に夢中なのか、階段を昇りきった辺りに立っているボクに、彼らは気付いていない。
すると、あと数段、というところで。
テル先生の爪先が、階段に引っかかった。
「あっ」
思わず呟いたボクの目の前で、テル先生が、見事にコケた。
「うわぁっ!」
同時に、ビタン!と派手な音が立つ。
「きゃあ、テル先生! だ、大丈夫ですか!?」
…階段を降りる方で転んだんだんじゃなくてよかった、と思ったのは、きっとボクだけじゃないはずだ。
万が一、階段を踏み外して転がり落ちたりしたら、タダじゃ済まないことの方が多いんだから。
……それとも、ドジで有名なテル先生のことだ、転び慣れてて全然平気だったりするのかな?
「あ、ハハ〜大丈夫ッス」
力無くヘラヘラ笑うアイツは、相当痛みを我慢してるみたいだけど、まあ大丈夫そうだ。
前につんのめっただけだしね。
ただ、コンクリートの階段だから、青タンはそこかしこにあるんじゃないかなあ。
「し、四宮!」
……気付くのが遅いんだよ。
っていうか、キミのそのドジ、本当にどうにもならないんだね。
「はぁ……本っ当に、わからないな」
思いっきり呆れてしまって、ボクは大きく溜息を吐きながらそう言った。
「あ? 何がだよ」
立ち上がり様、ボクに問い掛けてくるテル先生に、ボクはこう答えた。
「……何でこうもドジが連発できるのかってこと。表彰ものだよ、ある意味」
「なっ、何だとぉ〜!?」
嘘じゃない。心の底から思ってることだ。
だって、ここまでドジな人間を、ボクは見たことないから。みんな、言わなくてもそう思ってるんじゃない?
でも──違う。
わからない、とボクが言った本当の意味は、別にある。
呆れたのは、テル先生にじゃない。
自分自身に対してだ。わからないのも。
どうしようもないなと、自分でそう思ったんだ。
本当に。
こんなドジで子供で、医師としても技術的に劣るヤツなのに。
このボクでもできないような、目を瞠る技量を見せることはあっても、そんなのは稀にしかない。
それなのに、どうして。
気になるんだろう。
目で追ってしまうんだろう。
……放っておけばいいのに。
以前のボクならそうしたのに。
おかしいだろう、どう考えても。
「はぁ……。全く以て、理解に苦しむよ……」
──自分で、自分のことが。
どうやら自分のことを言われたと思っているテル先生が、ギャンギャン吠えたててくる。
けれど、これ以上構ってられなくて、そんな余裕なんかなくて、ボクは止めていた足を動かしてその横を素通りした。
…頭痛がする。
しかも、酷く痛む。
顳かみをおさえても、ちっともマシにならない。
それもこれも、キミのせいだ。
どうしてくれるんだ?
…どうせ、わかっちゃいないんだろう。
ああ、わかってるさ。
だから、気に食わないんだ。
終
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