対峙 

2003.10.5.up

 目の前の男が、悔しそうに顔を歪ませる。
 20センチ以上の身長差の優位から、北見は男を悠然と見下ろした。
「何だ」
 北見がそう問い掛けても、男は唇を噛みしめたまま、何も言おうとしない。
 男はおそらく、何も言いたくないというのではなく、言いたいことがありすぎて言葉が見つからないのだろう。その視線は辺りをうろうろと彷徨っていた。
「………何でもねえなら、離せ」
 素気なく、北見は言い切った。
 ──さっさとその手を離せ。
 ──オレに気安く触るな。
 言外にその意を滲ませて、北見の手首をしっかり掴んで離そうとしない男を、北見は冷たく一瞥した。
 掴まれた手を振り解こうと思えば、おそらく簡単に振り切れる。だが、そうではなく、男が自主的にその手を離すことを、北見は望んだ。
 けれど、少したじろいだ様子を見せただけで、男は退こうしない。
 逆に、握る手指に力を込められて、北見は眉を顰めた。
「……聞こえなかったのか。手を離せと言ったんだ」
「………………嫌です…」
 少しの間を置いてから、絞り出すような声で、男は北見の要求を拒んだ。
「テル」
「嫌だ。だって…っ」
 少し切羽詰まった言い方だった。
 まるで、子供が駄々をこねる口調に聞こえた。
 
      『だって』? 何だと言うんだ、こいつは。
      お前の言うことなんか、オレはまともに聞くつもりはない。
      最初からオレはそうしていただろう? ……お前に対しては特にそうだ。
      このオレの態度で、それがわからないとは言わせない。
      なのに、お前は。
      一体、何が言いたい?
 
 北見の胸中でそんな思いが渦を巻く。
 テルは、当然ながら北見の胸の裡を知ることもなく、息を吸うなり、膨れ上がる感情のままに己の言葉をぶつけた。
「理由を言えよ! じゃなきゃオレにはわかんねえだろ。何で、急に…っ」
 勢い良く顔を上げて北見を仰いだテルが、大きな瞳で鋭く射抜いた。
 北見の中にある真実を暴こうと、必死の形相で真っ直ぐこちらを見つめてくる。
 瞬間、クラリと目眩がする錯覚に囚われた北見は、軽く頭を振った。
 テルの強い視線は、見るものを焼き焦がす──そんな印象がある。いつだって北見はそう思っていた。そして、互いの意見がぶつかる度に浴びせられるその眼差しを、不快だと思うことはなかった。
 テルとの衝突も、北見にとって厭うべきものではない。テルにはテルなりの確固たる意思があり、価値観があり、それを一所懸命に伝えようとしているからこそ、真っ向から自分に切り込んでくるのだ。その彼を指して、手間の掛かる部下だとぼやくことはあっても、彼の主張を初めから無意味なものだと吟味もなしに切り捨てたことは一度もない。
 寧ろそれらを彼の意思として受け止め、尚且つ迎え撃ってこそ、人はより成長する。
 特に、真東輝はそういう種類の男だ。
 だが、今は正直、きつい。──その視線と、真っ向から対峙するのは。
 いつになく圧倒されるその圧迫感に、北見はたまらず、目を逸らした。
「…別に、急ってわけでもない」
「ウソだ」
 間髪入れず、テルが断固とした口調できっぱり否定する。
「あんまりオレをバカにすんなよ。オレだって、多少はアンタって人間を知ってる。伊達に二年も一緒に仕事してるわけじゃないんだぜ」
 確かに二年という期間は短くはない。
 好き嫌いという感情論を抜きにしても、一日の殆どを仕事に費やしているのだ。互いの細かな癖を知るのには十分な時間の長さと言える。
 反論せずに黙った北見の表情を見て、テルは微妙に表情を変え、一旦切った言葉を続けた。
「………なあ。ホントは、オレがどうこうっていうんじゃねーんだろ? 今の北見の顔見てたら、何となく…わかった。多分、アンタ自身の問題なんだよな。…そうやってオレのこと拒絶すんの」
 ──…言ってる意味がわからんな。
 北見の反論は心の中でこだまするだけで、口に出しては語られなかった。
 わからない、というのは、嘘だからだ。
「──理由、言いたくない? じゃあオレが当ててみせようか?」
 口の端を上げて挑戦的な眼差しを向けてくるテルを、北見は意図的に、殊更冷たく見下ろした。
 ──…………うるさい。
 そう言いたいのに、やはり声にならない。
 無言で睨みつけてくる北見に、テルは口を開いた。
「……オレの言うこと、北見はちっとも信じてなかっただろ、今まで。おフザケか何かだろうって扱いで、適当にあしらってさ。…でも何度も繰り返されてくうちに、やっと、少しくらいは信じられるようになってきて。ちょっとずつ、オレがマジなんだってわかりだして──そしたら今度は、…逃げたくなった。──そうだろ?」
「…ハッ、逃げる? 誰が?」
 ほぼ断定口調で語るテルにムカついていたのが、最後の『逃げる』発言がトドメとなり、北見は今度こそ冷笑を浮かべて言葉を放った。
「黙って聞いてりゃ、随分と身勝手で自分本位なことほざくじゃねえか。誰に向かってデカイ口叩いてんだ、テメェは」
 けれど、テルは少しも怯まない。
「北見柊一。アンタにだよ。アンタにじゃなきゃ言わねえよ。………………好きだなんて」
「だからそういうことは二度と言うなと言ってるっ!」
 自分の手首を戒めるテルの手を、ようやっと荒々しく振り解きながら、北見は煩わしげに長い髪をかきあげた。
 ──何が今、こんなに疎ましいというのだろう。
 今続けている、会話にもならない言い合いか。口喧しいテルのことか。些細なことで不快な気持ちになる自分自身か。
 本当に煩わしいのが何なのかを、北見は考えたくなかった。
 とにかく今は、テルの大きな瞳を、その真っ直ぐすぎる眼差しを、向けられたくないと、そう思う。
「…何度もつまんねえこと言わせんじゃねえ」
 対するテルも、苛立たしさを隠さぬ表情で北見を見上げて眦をつり上げ、声を張り上げた。
「そりゃオレの台詞だっ。何でんなこと言うんだよ!? だってそんなん今更だろ。今までと同じように、聞こえてても無視してりゃ済むことじゃねーか。オレがどんなこと言ったってずっとそうしてただろ、アンタは。それが何で急にできなくなるわけ? 何でいきなり『言うな』の一点張りになるんだよ!?」
「うるさい、黙れッ」
 感情的に声を荒らげた北見に、それでもテルは黙らなかった。
「結局北見は逃げてんだろ!? 本気でオレが好きだって言ってるのがわかって、それでもオレを拒む気が起きなくて、そういう自分を認めたくないから、だから…!」
 ガン!
 と、北見の手によって乱暴に閉ざされたロッカーの耳障りな音に、テルの言葉が中断される。
 それを北見は凍てついた目で見下ろし、無言で二人きりの更衣室から足早に出ていこうとした。
 北見が扉に手を掛けたところで、テルはできるだけ冷静にと意識して、声を掛ける。
「…言っとくけど、オレはやめねえから。アンタがオレんこと気にしてるんなら尚更。絶対に…──」
 やめない、とテルが言い終わる前に、パシンと扉が閉ざされる。
 テルの言葉が最後まで北見に届いたのかどうかは、テルにはわからなかった。
 拒絶を示した北見の背中が、テルの網膜に残像を残す。
 だがその拒絶ぶりは、決して完璧なそれではない。キレ者の外科部長とは思えないほど隙のありすぎる稚拙な拒み方は、彼の内心の動揺ぶりを露呈していると言えなくもなかった。
「………………ふざけんなよ、北見……」
 本気で拒むこともせずにテルの【本気】から逃げられると北見が思っているのなら、心外だった。
 テルの、北見への気持ちを軽んじられるなど、たとえ北見本人であっても許せない。
 まずはそこのところを知っておいて貰わないと、とテルは不敵な光を瞳の奥に燻らせた。
 諦める気なんか更々ない。それは、即ち。
 逃げ場など、どこにもないということだから。
 
 
 
 
 一方。
 閉じられた更衣室の扉の向こうでは──
 その廊下の壁を背に、気難しく眉間に縦皺を寄せる北見の姿があった。
 歯を食いしばり、薄く開いた唇から、小さな呟きが紡ぎ出される。
「………………ざけんな…。誰が…っ──」
 誰が、あんな小僧のことなど気にするものか。ヤツの言うことをまともに聞く気など、オレには全くないんだから。
 そう思う。
 けれど。
 先程の動揺からか、それとも苛立ちからか、わななく指先の震えはとまらなかった。
 拳をギュッと硬く握り、とまれ、と体に命令しつつ、きつく瞼を閉じる。
 テルの言動は、ことごとく北見の冷静さを失わせる。ここ最近は富に多い。
 だが、いつから多くなったのだろうか。しかも何故、自分がここまで動じなければならない? いついかなる状況であろうと冷静さを失わないことは、自分の強みだったはずだ。なのに。
 北見はクッと自嘲ぎみに微笑った。
 ──本当は、理由なんざわかってるんだが…な。
 それでも、認める気にはならなかった。これからもそれは変わらない。そういう認識しか、北見の中にはない。
 良くも悪くも、北見は己の不器用さをよく理解していた。
 優先するべきことと、優先したいこと──それらがイコールで結ばれていないと、自分で自分をなかなか納得させられないのだ。
 そして、外科医としてではないテルのことは、優先する『べき』ことではない。
 それが、北見にとっては全てだった。自分の行動もそれで決まる。──感情を押し殺してでも。


 思いを断ち切るかのように、目を開けた北見は壁から背を離し、鮮やかに踵を返す。
 切れ長の目を鋭く光らせ、颯爽と廊下を闊歩するその姿と玲瓏たる横顔には、何の翳りも見受けられなかった。
 傍目からは、何も。



終     

   

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