昼の休憩まで、あと数分──
午前の仕事を終えたテルは、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
次いで窓に映る己の顔を見、重々しい息を吐く。
仕方がない。
そう思って溜息を吐くのは、これで何度目だろう。
最近、呆れるほどその回数は多くて、数えるのもバカらしくなる。
その度に胸がツキンと痛みを訴えてくるのも、本当に毎度のことで。
それなのに慣れることがない痛覚に、テルは眉間に皺を寄せた。
* * *
世の中、無理なことはたくさんある。
たとえば、お金がなければ何かを買うことはできない。
たとえば、材料がなければ何かを作ることはできない。
それ以外にも不可能なことはたくさんある。
何をどんなに努力してもどうにもならないことがある。
それを、自分は知っている。
納得したくはなくても、経験として知っている。数え切れないほど。
──なのに、今。
諦めがつかないのは何故なんだろう、とテルは思った。
考えるのは、とある人のこと。
真っ先に思い出すのは、怒鳴り声。
怒りに身を震わせながらこちらを睨む、その視線や表情。
それから、過去に一、二回だけ貰えた労いの台詞。
優しい言葉や態度など、かつて自分に向けられたことはない。
険しい表情と素気ない態度が、自分に対する彼のスタンスだ。
なのに、どうして。
どうして自分はこんなにも、彼に意識を向けないではいられないのだろうか。
彼---北見の厳しい叱責と拳骨の回数は、自分がドジをやらかしてしまう分、誰よりもこの身に受けている。
全く以て褒められたものではないが、それでも以前よりはこの状況はマシな方だ。
少なくとも、言葉さえまともに掛けて貰えなかった出会い当初の頃とは、違うから。
けれど、それだけだ。
北見に疎ましがられているのは明らかで、院内の誰もそれを否定したりはしないだろう。
ナースも他の医師達も、自分たちが仲が悪いことを十分承知の上。せいぜい、ご愁傷様、と苦笑しながらフォローの一つや二つをしてくれるのが関の山だ。
テル自身、その点は認めるところである。…認めたくなくても、それが現実なのだから。
わかっている。
知っている。
何より北見本人が隠しもしない。
北見にとって、テルは厄介なお荷物同然の存在なのだと。
崩さない態度で、冷たい応対で、それを証明している。
でも、オレは。
北見のことを──
そこまで思ってから、テルはギリ、と歯を食いしばった。
テルが追うのは彼の背中であり、目指すは彼の天才外科医としての医療技術。
彼にどれだけ嫌われていようと、関係ない。北見を視界のど真ん中に据えて目を外さず、ひたすら邁進するしかない。
そうでなければ、彼に追い付くことなど、夢のまた夢。
彼は天才で、しかも努力を怠らない人間なのだ。あまつさえ、医療に関する知識や技術に対して、誰よりも貪欲ときている。
現時点では、適わない相手。
そんな彼の背中を、自分は追っている。
…そして。
そんな彼に、あろうことか自分は──
惹かれているのだ。
自分には備わっていない面をいくつも持つ彼に、一人の人間として惹きつけられた。否応なしに。
その事実が自分でもおかしくて、笑いすら出てくる。
何せ──彼、北見柊一は、この自分に対してだけは単なる好意さえ持たない人間なのだから。
願望とは相反する現実に、テルはぶるりと頭を振った。
今は、いい。この場所には、テル以外誰もいない。
一人になりたくて、テルはここに来た。
だが、午後、特に夜ともなると、そうはいかなくなる。
今日の当直は北見と一緒だ。余計なことを今考えてしまうのも、きっとそのせいだ。
午後の回診を終えても、今日は当直である以上、いつものようにアパートに寝に帰ることはできない。
病院の夜は殊の外静かで、昼のような騒がしさは全くない。特に夜中は、気を紛らわせてくれる人の多さや喧噪とは、かけ離れた空間になる。そんな中で、二人きりでいる時間が少なからずあるのだ。
当直自体を嫌だと思ったことはない。ただ、北見と重なるのは極力避けたかっただけだ。
気が重いな、と再び溜息を吐きながら、テルがふと腕時計を見ると、長針がゼロを超えていた。
途端に空腹を訴えてくる腹の虫に、テルは思いっきり苦笑する。
「…さってと! 昼メシ、昼メシ〜」
気分を切り替えるかのように明るい声を出し、軽やかな足取りで食堂へと向かう。
小走りになってしまったテルを、ナースが少々目をつり上げて注意した。
「ちょっと、テル先生! 廊下は走らないで下さいっ」
「あっ、すんませーん!!」
慌てて謝りながら、けれどテルの足のスピードは減速しない。
全くもう、と肩を怒らせて呆れるナースに、苦笑を浮かべてヘコヘコ頭を下げるテル──その光景は誰しもが見慣れたものだ。
『北見、オレは…──』
心の中で呟かれたそれは、続きを紡がれることもなく。
そのまま、溶けゆく淡雪のように、消えた。
終
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