遠い背中 

2003.8.4.up

 昼の休憩まで、あと数分──
 午前の仕事を終えたテルは、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 次いで窓に映る己の顔を見、重々しい息を吐く。
 
 仕方がない。
 
 そう思って溜息を吐くのは、これで何度目だろう。
 最近、呆れるほどその回数は多くて、数えるのもバカらしくなる。
 その度に胸がツキンと痛みを訴えてくるのも、本当に毎度のことで。
 それなのに慣れることがない痛覚に、テルは眉間に皺を寄せた。
 
 

 *  *  *
 
 世の中、無理なことはたくさんある。
 たとえば、お金がなければ何かを買うことはできない。
 たとえば、材料がなければ何かを作ることはできない。
 それ以外にも不可能なことはたくさんある。
 何をどんなに努力してもどうにもならないことがある。
 それを、自分は知っている。
 納得したくはなくても、経験として知っている。数え切れないほど。
 ──なのに、今。
 諦めがつかないのは何故なんだろう、とテルは思った。
 
 考えるのは、とある人のこと。
 真っ先に思い出すのは、怒鳴り声。
 怒りに身を震わせながらこちらを睨む、その視線や表情。
 それから、過去に一、二回だけ貰えた労いの台詞。
 優しい言葉や態度など、かつて自分に向けられたことはない。
 険しい表情と素気ない態度が、自分に対する彼のスタンスだ。
 なのに、どうして。
 どうして自分はこんなにも、彼に意識を向けないではいられないのだろうか。
 


 彼---北見の厳しい叱責と拳骨の回数は、自分がドジをやらかしてしまう分、誰よりもこの身に受けている。
 全く以て褒められたものではないが、それでも以前よりはこの状況はマシな方だ。
 少なくとも、言葉さえまともに掛けて貰えなかった出会い当初の頃とは、違うから。
 けれど、それだけだ。
 北見に疎ましがられているのは明らかで、院内の誰もそれを否定したりはしないだろう。
 ナースも他の医師達も、自分たちが仲が悪いことを十分承知の上。せいぜい、ご愁傷様、と苦笑しながらフォローの一つや二つをしてくれるのが関の山だ。
 テル自身、その点は認めるところである。…認めたくなくても、それが現実なのだから。
 わかっている。
 知っている。
 何より北見本人が隠しもしない。
 北見にとって、テルは厄介なお荷物同然の存在なのだと。
 崩さない態度で、冷たい応対で、それを証明している。
 
      でも、オレは。
      北見のことを──
 
 そこまで思ってから、テルはギリ、と歯を食いしばった。
 テルが追うのは彼の背中であり、目指すは彼の天才外科医としての医療技術。
 彼にどれだけ嫌われていようと、関係ない。北見を視界のど真ん中に据えて目を外さず、ひたすら邁進するしかない。
 そうでなければ、彼に追い付くことなど、夢のまた夢。
 彼は天才で、しかも努力を怠らない人間なのだ。あまつさえ、医療に関する知識や技術に対して、誰よりも貪欲ときている。
 現時点では、適わない相手。
 そんな彼の背中を、自分は追っている。
 …そして。
 そんな彼に、あろうことか自分は──
 惹かれているのだ。
 自分には備わっていない面をいくつも持つ彼に、一人の人間として惹きつけられた。否応なしに。
 その事実が自分でもおかしくて、笑いすら出てくる。
 何せ──彼、北見柊一は、この自分に対してだけは単なる好意さえ持たない人間なのだから。
 
 願望とは相反する現実に、テルはぶるりと頭を振った。
 
 今は、いい。この場所には、テル以外誰もいない。
 一人になりたくて、テルはここに来た。
 だが、午後、特に夜ともなると、そうはいかなくなる。
 今日の当直は北見と一緒だ。余計なことを今考えてしまうのも、きっとそのせいだ。
 午後の回診を終えても、今日は当直である以上、いつものようにアパートに寝に帰ることはできない。
 病院の夜は殊の外静かで、昼のような騒がしさは全くない。特に夜中は、気を紛らわせてくれる人の多さや喧噪とは、かけ離れた空間になる。そんな中で、二人きりでいる時間が少なからずあるのだ。
 当直自体を嫌だと思ったことはない。ただ、北見と重なるのは極力避けたかっただけだ。
 
 
 
 気が重いな、と再び溜息を吐きながら、テルがふと腕時計を見ると、長針がゼロを超えていた。
 途端に空腹を訴えてくる腹の虫に、テルは思いっきり苦笑する。
「…さってと! 昼メシ、昼メシ〜」
 気分を切り替えるかのように明るい声を出し、軽やかな足取りで食堂へと向かう。
 小走りになってしまったテルを、ナースが少々目をつり上げて注意した。
「ちょっと、テル先生! 廊下は走らないで下さいっ」
「あっ、すんませーん!!」
 慌てて謝りながら、けれどテルの足のスピードは減速しない。
 全くもう、と肩を怒らせて呆れるナースに、苦笑を浮かべてヘコヘコ頭を下げるテル──その光景は誰しもが見慣れたものだ。
 
 
 
 
『北見、オレは…──』
 
 

 心の中で呟かれたそれは、続きを紡がれることもなく。
 そのまま、溶けゆく淡雪のように、消えた。



終     

   

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