教室の前の廊下に一歩踏み出した途端、上原杏子は足を止めた。
今は放課後。教室を出てすぐの窓から差し込むのは、目映いばかりの夕日だった。
廊下だけでなく、全てが茜色に染まった光景に、一瞬見惚れた。
「ちょっと、杏子、邪魔だってば」
「…あ、ゴメン」
ドアの前に立ち尽くしていれば、確かに通るのには邪魔だろう。
慌てて杏子は横にずれ、友人に道を譲った。
一斉に授業も掃除も終わるこの時刻は、教室から溢れ出る生徒で一杯だ。
人の多さに少しうんざりした彼女は、もう一度教室の自分の席に戻り、座り直して、人が少なくなるのを待った。
…どうせ、今日は一緒に帰る友達もいない。
──ねえ、帰りにどっかお茶していかない?
そう誘った杏子に、いつも一緒にいる友人達は、つれない返事を口々にくれた。
『ごめーん、今日塾の日なんだ』
『あたし、他に約束があってさ』
また今度ね、と言ってさっさと帰ってしまった彼女達。
──悪かったわね、どうせあたしは何にもないわよ!
全く何にもしていないわけではない。実際、習い事の類はしている。
が、友人達に比べれば、格段に放課後の予定は少ない方だ。
本気で『どうせ』と思ってはいなくとも、今はほんの少しの僻み根性が、杏子の気持ちをマイナス方向に引き寄せた。
──でも。
と、気を取り直して、先程よりも人影が少なくなった教室で、頬杖をついて廊下の方向を見る。
開け放たれたドア越しから、先程杏子が目を奪われた茜色の廊下が見えた。
夕日に焼けた空と、赤く染まった校舎と。
全部が夕焼け色になっているのだ。
…多分、教室にいる自分も、自分の鞄も。
──なんか、いいなあ、こういうの味わうのも。…ちょっとセンチだけどさ。
自然と笑みが浮かんでくる。
それには逆らわず、人の話し声を聴き、時折掛けられる声に返事をしつつ、彼女は黄昏時を楽しんだ。
いつまでそうして座っていたのか。
もう誰もいなくなった教室から、杏子は再び帰るために席を立った。
廊下に出て、窓の外を見ながらゆっくりと歩く。
だが、早々のんびりとした気分を味わってはいられなくなった。
何故ならば、不意に、目の前に人影が一つ出現したからだ。
彼の名は、吉川のぼる、といった。
「あれ、上原さん。…まだ帰ってなかったの?」
小首を傾げて、訊ねてくる。
彼を見た瞬間に高鳴った鼓動に気付かぬ振りをして、杏子は答えた。
「そ、そ、そうよ。な、何よ、なんかモンクでもあんの?」
──あ、またやっちゃった…。…こんなこと言いたいんじゃないのに。
素直になることが自分にとっては一番難しいのだ、と杏子自身、熟知している。
そもそも相手は、自分がずっと前からイジめていた男、でもあるわけで──
なかなかに、事情は複雑なのである。
「え、あの、別に…文句なんかないけど………」
戸惑いがちに、ぎこちない笑みを浮かべて、律儀な彼は返答してくる。
「そういうあんたこそ、何でまだ残ってんのよ。また鬼塚のパシリでもやらされてんの?」
彼の持っている紙袋の中身を覗き込みながら、杏子は適当に推理した。
中身は、ゲームのカバーケース。…のように見える。
「いや、残ってるんじゃなくて…。一旦は帰ったよ。先生が、この前僕が手に入れたゲームやりたいって言うから、持ってきたんだ。他にもついでに色々と」
──それを、パシリじゃないって言う気!? いいように利用されてんのよあんたは!
聞いた刹那、杏子が一番強く思ったことは、こんな具合である。
だが、寸での所で叫ばずに飲み込んだ。
…目の前の彼が、担任の鬼塚に、したくてしているサービスなんだろうと杏子もわかっているからだ。
「…ね、ねえ………またあの趣味悪そうなああいうゲームばっか、持ってきてんの…?」
杏子は、恐る恐る彼に訊ねた。
以前、ホラー映画を観た方がマシだというような、ホラーゲームを彼から偶然借りてしまったのだ。
クリアはおろか、一つ目の危険すら回避することができず、怖い目ばかり見て、その夜は一睡もできなかった。
…半年も経っていないが、苦い思い出である。
「これは、ホラーばっかりじゃないけど…『趣味悪そうな』なんて、ひどいなぁ………。そういえば、貸したあのゲーム、上原さんはクリアできなかったんだっけ?」
「で、できるわけないじゃないの! だっ、大体ねぇ、女の子にアレを貸そうっていう方がどうかしてるわよ!? 怖くて夜寝られなかったんだから!」
「え、だってあれは、上原さんが貸してほしいって………」
「やだやだ、もう、また思い出しちゃったじゃないっ!」
大きなTV画面で見た、グロテスクな血みどろスプラッタ画像が脳裏を横切り、杏子はゾゾッと鳥肌が立った腕をさすった。
彼女の様子をきょとんと見ていた彼は、クスリと笑った。
「………寝られなかったんだ。上原さん」
クスクスと小さく笑う彼に、うるさいわよっ、とプイッと横を向いて言い返す。
「…ねえ。もっとさァ、簡単にクリアできそうな怖くないやつ、ソコにないの…? ………も、も、もしあったら…さ、その………」
杏子の途切れがちな台詞を最後まで聞かず、あったかなぁ、と呟いて彼はその場にしゃがみ込み、ごそごそと紙袋を探った。
「…あ…。これなら、絶対にエンディングには辿りつけるけど………」
どれ? とひょいと覗く杏子の目前に差し出されたのは、ファンタジーな絵柄のゲームだった。
表のパッケージには、女の子だか男の子だかわからないような可愛らしいキャラクターが、数人並んでいる。
「これはアドベンチャーゲームでね、ストーリー的にはすごくほのぼのしてる感じかな。選択肢を選ぶだけで話が進むから、上原さんでもできるよ。…ただ、完全にクリアするとなると、隠しイベントとかがたくさんあるから難しいんだけどね」
ほのぼの、という言葉に、杏子は心底ホッとした。
しかもパステルカラーが主体の、ファンタジックな可愛いキャラクター。加えてアドベンチャーとくれば、ゲームが苦手な自分でも、きっと楽しめる。
「なんだ、ちゃんと普通のゲームも持ってるじゃない。よかったぁ、てっきりあんなのばっかりかと思ってた」
「…コンプリートは難しいと思うけど…」
「でも、吉川はやったんでしょ。だったら、あたしもできるわよ。あんまりバカにしないでよね? いいからホラ、早く貸しなさいよっ!」
言うなり、杏子は彼の手からゲームをパッと取り上げた。
それから、ハッと我に返ったかのように、杏子は表情を改める。
「………………………い、いいんでしょ…、これ、あたしが借りても」
取っておいてから、もじもじと言い辛そうにそんなことを言う杏子に、彼は困ったように笑う。
「う、うん、………いいよ、別に。…あ、返すのも、いつでもいいし」
「じゃ、じゃあ、借りてくからね」
念を押すように、杏子は繰り返した。
何となく、間が持たなくて、何かを言わなければいけない気にさせられていた。
…そうでもしなければ、ドキドキと高鳴る心臓が、壊れてしまいそうだった。
──なんで、吉川ごときに、こうなっちゃうんだろう。
何度も何度も自分に問うてはみたが、もちろん返事は返ってこなかった。
最早、どうにもしようがない。
『恋の病』と言うくらいだから、これは病気なのだ。重度で、治りそうにない病だ。
そんなふうに、彼女は自分の心に折り合いを付けていた。
「それはいいけど、………上原さん、何か良いことあった?」
「…良いこと?」
「なんか、機嫌良さそうだし………。あ、違ってたらごめん…」
「………」
「でも、早く帰った方がいいんじゃない…?」
「えっ? な、何でよ?」
「熱あるんじゃないの? …顔、赤いけど」
──あ、あ、あんたが近くにいるからでしょうが〜〜〜っっ!
瞬間内心で突っ込んだら、余計に血が顔に結集してくる。
カッカする顔を彼から逸らして、杏子はスタスタと彼の横を通り過ぎた。
そしてすれ違い様に、理由をつっけんどんに口にする。
「夕焼けのせいよ、赤いのはっ。だってあんたの顔も赤いんだもん。…じゃあねっ!」
言って、杏子は駆け出した。
彼の返事を待つ気はなかった。
階段を駆け下り、靴箱まで走って、ようやく足を止めた。
乱れた息を整えて、フウと大きく溜息を吐く。
──『良いこと』ね。うん、あったわよ。
手にした戦利品に嬉しそうに微笑み掛け、杏子はそっと鞄の中にそれをしまった。
終
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