執行猶予は三ヶ月-冬の海- 

2002.12.21.up

「うわーさっむーい!」
 びゅうびゅうと吹きつける強い風にバタバタと音を立ててはためくコートの前を両手でしっかり握りしめながら、彼女は肩を縮こまらせた。
 見る限り、彼女は薄着をしているわけではないが、確かにこの風は街中よりもきつい。遮るものが何一つない海辺であるため、それは計測される風速のままの勢いで、自分たちの体めがけて吹いてくる。
 海が見たいという彼女の望み通りに、湾岸線を車で突っ走り、ここに到着した。
 車を降り、歩いてほどなく海は見えたが、冬の時期の海風を、オレ-氷室零一-は少々侮っていたようだ。
「まあ、冬だから寒いのは当然だろう。…これほど風がきついとは思わなかったが」
 そう言うと、彼女は声を立ててクスクスと笑った。
「先生も、この強風は予想外でしたか?」
 何がおもしろいのかオレにはわからないが、楽しげな彼女を見ていると、こちらも何だか楽しい気分になる。
 小首を傾げて悪戯っぽくこちらを覗き込む彼女に、小さく笑って答えた。
「それはそうだが、仕方がないことだろう。私は、君がいきなり言い出したことに応えたまでなんだからな。寒いからといって私に文句を言わないように」
「ひどーい。わたしのせいにする気なんだ、先生ってば」
 生徒の言う我侭に付き合ってくれてぇ、とってもいい先生だなあってわたし感激したのにィ、ここに来てから責任逃れするなんてぇ、ずるいと思わないんですかぁ〜?
 わざと語尾を伸ばした口調でぶつぶつと苦情を漏らして口を尖らせる彼女を、軽く睨む。
「こら。日本語は正しく発音しなさい」
「はぁい」
 すると、彼女は肩を竦めて、ペロリと舌を出した。
 茶目っ気のある仕草に、オレは思わず苦笑した。
 
 
 それから、どこに行くつもりなのか、小走りに海辺の方へと彼女が走り出す。
 少し行ったところでこちらを振り返り、彼女は声を張り上げた。
「ねー先生ー! あっちの方、行ってみませんかー?」
 あっち、という方向を指差し、わくわくと瞳を輝かせている。
 ここは、風が強い分、声が伝わりにくい。
 だから離れたところからだと、大声を出さなければならない。逆に先程のように近くにいた時には、小さな呟きですら聞こえたはずだ。
 そんなことがわからない彼女でもあるまいに、わざわざ遠く離れてから叫び、楽しみを待ちきれない小さな子供のようにはしゃいでいる。
 だが、まあ、彼女の殊更楽しそうな様子に、水を差すこともない。
 オレはそう思いながら、彼女の方に向かって歩き出した。
 
 
 海辺に近付くと、そこは遊覧船の停泊場所になっていた。
 艀へと続く道の先は、階段になっている。
 こっちこっち、と笑って手招きする彼女は、既に階段の中腹まで上がっていた。
 その招きに従って、階段を一段一段踏みしめる。
 彼女の立っているところまで、あと数段、といったところで、ストップが掛かった。
「先生、ストップ」
「え?」
 進行方向を妨げるように、彼女がオレの前に立ち塞がる。もちろんオレの足は止まった。
 そして、両手をオレの肩の上に置いて、にっこりと笑う。
「これくらい、かなあ。わたしと先生の身長差」
「身長差…?」
 いきなりの話題に、ついていけない。
「先生って、身長が高いでしょ? だからわたし、先生のこと見下ろしてみたかったんですよ。なんかやっぱり、違いますね。ちょっと快感」
 にこにこ、と嬉しげな彼女に、しかしオレは反論した。
「…見下ろすにしても見上げるにしても、同一人物を相手にするのなら、大して変わらないと思うが?」
「変わりますよ。だってほら、腕が回しやすいですもん」
 そう言うなり、ふわりと両腕をオレの首に回して、抱きついてきた。
「こ、こら! 何をじゃれついてるんだ!」
 慌てて彼女の体を引き剥がそうとするが、彼女は離れるどころか腕に力を込めてくる。
「まあまあ、小さなコトは気にしないで。でっかい猫がじゃれてるんだと思って下さい。ね?」
「『ね?』じゃないっ! 階段なのだから足元が危ないだろう。いいから早く…」
 離れなさい、と言う前に、腕を巻きつけたまま顔だけパッと上げた彼女は、キッとオレを睨んできた。
「もう、先生ってばケチなんだから! 大体、先生は、先月の誕生日プレゼントも受け取ってくれませんでしたよね。バレンタインだって、わたしは先生のために朝早くから頑張って作ったのにあっさり断ってくれて、『お茶うけ』として受け取られちゃうし! それも毎年ですよ、毎年っ」
 その点については、少なからず罪悪感を感じている。
 『生徒からの贈答品を受け取らない』という信条を曲げるわけにもいかず、受け取りを拒否し続けているものの、そのことで彼女を傷つけているかもしれないとは思っていた。
 黙るオレに、彼女はきゅっと唇を噛んだ。
 それからやや声を落とし、しかしはっきりと、言葉を綴る。
「…先生。ここは学校じゃないし、周りには誰もいません。だから、教えて下さい。…先生はもう、わたしの気持ち、わかってるんでしょう? わたしがこうして頑張ってることって、無駄なんでしょうか。それとも少しは、頑張ったなりの成果がありますか? もし、もしも、そうでないんなら…わたし…──」
 瞳は真剣だった。寂しそうでもあった。
 そうでないのなら、どうだというのだろう。何にもならないのならやめる、と言うつもりなのか。
 続きを聞きたくなくて、オレは彼女を強引に抱き寄せた。
 華奢で、細い体。癖のない髪から淡く匂う、シャンプーの甘い香り。
 きつく抱き締めて、唸るように低く呟いた。
「………君は、オレの自制心を試しているのか?」
 彼女の背中に回した腕の力を緩めると、びっくりした顔で彼女はオレを見る。
「あの、………先生…?」
 戸惑いがちなその瞳を見つめながら、オレはそうっと彼女の頬に手を伸ばす。
 色白で柔らかくて、でも寒さに冷たくなってしまった頬。それから、頬よりも柔らかい、薄紅色の唇。
 指で優しくなぞり、触れた時と同じように、そっと離した。
 直接その唇に己のそれを重ねたくても、今はどうあっても無理なのだ。
 ──オレが、オレである限り。
「…先生…」
「──今のこの時点でも、『成果がなく無駄である』と状況判断するようならば、君は私のクラスのエースとは言えないと思うが、どうだ?」
 ただただ呆然としていた彼女の表情に、少しずつ理解の色が広がる。
 徐々に明るいいつもの顔を取り戻した彼女は、得意げに笑った。
「はい、そうですね。わたしは氷室学級のエースですから、そのようなミスは犯しません。その状況判断は誤っていると思われます」
「…よろしい」
 微笑んで一つ頷くと、彼女の瞳に妖しげな光が瞬く。
「セーンセ。隙ありっ!」
 オレの両肩にのせられた彼女の手に力が篭った。と同時に、吐息とともに羽毛のような優しい感触が、頬に与えられる。
 ほんの、一瞬の間だった。
「〜〜〜き、き、君は…ッ!」
 不意打ちを食らい、顔に血が一気に結集するのを感じながら、すぐさま離れた彼女をオレは睨む。
 しかし、赤い顔で睨んだところで、効果はないだろう。
 案の定、彼女の楽しげな笑い声が弾けた。
「これで向こう三ヶ月は、許してあげますね!」
 そう言ってくるりと踵を返し、オレに背を向ける。
 三ヶ月、という彼女の言葉に、オレはハッとする。
 そうこうしているうちに、軽やかに階段を駆け上がった彼女は、うわあ、と歓声を上げた。
「先生、見て見て! すっごい豪華な船が停まってますよ! マストが高ーい。一体どれくらいの高さがあるんでしょうねー?」
 早く来て、見てみて下さいよー。
 ねだる彼女の明るい声に、まいったな、と内心で笑う。
 頭の回転の速い彼女は、切り替えも早い。
 再び聞こえた彼女の誘いに、オレは自然に浮かぶ微笑みを口元にのせて、ようやく足を動かした。
 
 
 ──『向こう三ヶ月』か。
 三ヶ月後には、卒業式がある。
 彼女を含め、オレが担当しているクラスは三年生で、全員が卒業式を迎える。
 彼女はそれまで、オレに執行猶予期間を与えてくれたらしい。
 わかっているのか、いないのか。大人なのか、子供なのか。
 いまいち掴みどころのない彼女だが、そんな彼女を、オレは………その、とても大切に思っている、のだ。
 彼女が気付いているのかどうか知らないが、プレゼント以外で彼女が口にした願いを、拒めた試しはない。叶えなかったことは、一度もない。
 
 そう。本当に、一度として、ないのである。



終     

   

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