頬杖をついて、彼女は授業を聞いていた。
本日朝一番のこの授業は、数学である。
従って、このクラスの担任で数学教師の氷室零一氏が今、黒板の前で教鞭を執っていた。
玲瓏たる声が、シンと静まり返った教室の中で小さく反響する。
流れるように続けられる言葉、そして涼しげな声音。
それらは心地よく、耳から脳へと浸透してくる。
彼の授業中は私語も殆どなく、妨げるものはなかった。
黒板をチョークが勢い良く走る音。
時折、一斉にページがめくられる音。
それに合わせて、彼は説明を補足する。
理解しやすい彼の解説は、聞いていて気持ちが良かった。
声もまた高くなく低すぎず、発音は明朗で、耳に快かった。
彼女は、誰にも気付かれないほどの笑みを小さく浮かべ、教科書に目を落とした。
そして、少しの間だけ、そっと瞼を閉じてみた。
──ほらね、やっぱり。
視界を閉ざした中では、彼の声は普段よりもはっきり聞こえた。
より特徴が浮かび上がってくるような感じだ。
はっきり正しく発音される語句の数々。抑揚のある言い方。よく通る、耳に馴染む声。
視覚を使わない分だけ聴覚が研ぎすまされて、真っ直ぐ彼の声が直接彼女の耳に入り、鼓膜を振動させてくる。
…そんな、錯覚。
頬杖をついたままの彼女は、目を閉じて彼の声に聞き入っていた。
そのつもりだった、のだが──
いつの間にか、睡魔に意識を絡め取られてしまったようだった。
ビクッと、不意に全身が痙攣を起こして、ハッと我に返る。
目をパチクリさせた彼女は、ドキドキと驚きに高鳴る心臓をよそに、ヤバイ、と我が身を省みた。
一瞬。多分、ほんの一瞬だったとは思うが、記憶が途切れている。
──うそ。わたし、もしかして寝てた? んもう、折角の氷室先生の授業なのに!
そう考えた彼女の視線の先には、彼の着用しているスーツの布地が見えた。
しかも、やたらと距離が近いのだろうか。縦と横の繊維の編み込みまで、しっかりと見える。
──近いっていうか、目の前よね…これじゃ。………ん? 目の、前………?
俯き加減の頭と視線を、彼女は徐々に上へと上げていった。
スーツの前のボタンを数個数え、本日の装いはダブルであることを確認した後、襟元のネクタイを通過し──先生ってセンス良いよね、などと関係のないことを考えながら、ゆっくりと顔を上げる。
果たして、予想通り、と言うべきか。
目前で、彼の人が、彼女の席の真ん前に立ち、彼女を見下ろしていた。
仁王立ちとも呼べる立ち方で、うっすらと微笑んでいるところが恐ろしい。口元は笑っていても、目はちっとも笑っていないからだ。
視線が合うと、すぐさま彼は、口を開く。
「…前から二番目の席で、しかも私の授業中に寝るとはな。いい度胸だ」
キラリと眼鏡の端が光るのを、彼女は確かに視認した。しかも、まだその口元には笑みが刻まれたままだ。
「は、はい…いえ、あの、す、すみません…」
何とか謝罪の言葉を述べたはいいが、蛇に睨まれた蛙のように硬直し、見えない冷や汗をタラタラとかく彼女に、数学教師はにべもない。
「謝辞は結構。それより、午前の授業終了後、速やかに職員室に来るように。いいな?」
──い、いやです。
心の底から彼女はそう思った。
だが、思いと行動は、別物である。コクコクと、必死の形相で首を縦に振った。
「………返事が聞こえないが?」
「わ、わかりました。行きます」
「よろしい。──では、授業に戻る」
答えを聞いた彼は、あっさりと彼女を解放した。
何事もなかったかのように彼女の席から離れ、黒板へと足を向けて、先程の設問の回答例を繰り返す。
やはり涼しげな顔で、低く通る声を教室に響かせる彼を見て、彼女は緊張を解き、肩の力を盛大に抜いた。
がくりと頭を垂れたくなるのを辛うじて耐え、ムクムクと沸き上がる憤りのままに、内心で抗議する。
──そりゃあ寝てたわたしが悪かったけど。でも、どうしていっつも、わたしだけ職員室にお呼び出しなの!?
理不尽なり、と思うのだ。
他の誰かが寝ていることだってある。なのに、その時には『お呼び出し』ではなくて、即刻レポート提出を言い渡されるのだ。『お呼び出し』を受けるのは、いつも自分だけ。他の生徒は受けたことがない。
──確かに、わたし寝てました。寝る気は全然これっぽっちもなかったけど、一瞬だけだったけど、油断して眠ってしまいました。あの時はホントに意識がありませんでした。ちゃんと認めるし、そのことは謝ります。
だけど、と彼女は反駁する。
お呼び出しを食らうと、彼に対する好意が反発心に変わるのだ。
──寝ちゃったけど、それって多分本当に一瞬だし、わたし、少なくともちゃんと授業は聞いてるのよ。だってわたし、数学は好きだし、氷室先生の説明は他の誰よりもわかりやすいし、テンポは早めでも理解できないほどじゃないし。それから、…その、不謹慎かもしれないけど、先生は意外とハンサムだから見ていて飽きないし、声も素敵…。って、あれ? ………何考えてんのかしら、わたし。もちろんこれは誰にも内緒だけど…。…う〜、でもでも、とにかく、私だけ呼び出しなんて!
ひどい、と、彼女は内心で彼に恨み言を並べ立てた。
『内心で』に決まっている。口になんて出せやしない。言おうものなら、倍増するレポートが待っているだけだ。
半分は己の失態を反省し、残り半分は彼への糾弾の言葉を惜しみなく投げつけ、膨れっ面で口を尖らせて彼の背中を睨む。
彼が彼女のそんな表情に気付き、笑いを噛み殺していることなど、当然彼女は知る由もなかった。
彼女は知らない。
彼が、彼女には特別に課題を設けているということを。
彼が嬉々として、彼女のためだけに難しめの設問を考え、レポートさせていることを。
だからこそ、呼び出しという形になってしまうことを。
また、授業中に寝ること自体を怒る気は更々なく、レポート提出を申し渡せる良い機会だと、彼が考えていることも。
そして同時に、彼女と職員室で堂々と会話できることに、彼が多少の喜びを感じていることも。
彼女は全く知らなかった。
何も知らない彼女の最後の雄叫びは、こうである。
「やっぱりどう考えても先生はずるいわよ。聞きたくなるような声してるから、呼び出されるのイヤなのにそれも悪くないかなって、つい思っちゃうんだもん!」
全く以て、理に適っていない理論であった。
終
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