教師たる者 

2002.11.13.up

 はばたき学園の数学教師、氷室零一は、今日の出来事を少し後悔していた。
 今日は自分の誕生日だった。
 そして、氷室自身が口外しないそのことをどこから知ったのか、彼が担任を務めているクラスの女子生徒一人が、近付いてきてこう言った。
『先生、今日お誕生日ですよね』
 そうして、嬉しそうににっこり笑って、彼女は手に持っていた包みを差し出してきたのだ。
 
 
 
 
 氷室の応対は、いつもと同じだ。誰であっても変わらない。
 相手が生徒である限り、男子だろうが女子だろうが、常に答えはこうである。
『生徒からの贈答品は、受け取りかねる』
 今日、彼女に対しても、氷室はそう言った。
 ”少し後悔している”とはいっても、いつもの台詞を口にして断ったことを、悔いているのではない。
 教師という立場であるなら、生徒からの贈答品に類する物を断るのは当然だと、氷室は心底信じているからだ。公私混同は、避けなければならない。
 ………ただ。
 もう少し柔らかい言い方が、あったかもしれない。
 断るにしても、もっとやんわりとした態度を示しても良かったのかもしれない。
 そう考えて、氷室は今、少し反省していた。
 
 
 断った時の彼女の表情は、残念そうだった。…いや、傷ついた顔をしていた。
 それはそうだろう、と思う。元より予測できたことだった。
 人は誰でも、好意を拒まれたら悲しくなるものだ。
 氷室とて、例外ではない。
 年をとった分、巧妙に表情に出さない術を心得ているだけで、拒絶されたら胸が痛くなるのは確かだ。
 正直、彼女のプレゼントを受け取りたくなかったのでは決してない。
 だが、それを受け取ることは、氷室にはどうしてもできなかった。
 
 ──彼女は私の生徒なのだ──
 
 その事実がある限り、俄然無理な話なのである。
 …そう、たとえ、彼女が自分にとってどんなに特別でも。
 誕生日をわざわざ調べ、プレゼントを用意してくれた彼女の行為が、どんなに嬉しかったとしても。
 それら全てが真実だと仮定したところで、彼女だけを特別扱いをするわけにはいかないのだ。場所が学園内であれば、尚更不可能なのだ。
 彼女が学園を卒業するまでは、教師と生徒という間柄を保たなければならない。この関係を崩すなど、許されることではない。そんなことをしようものなら、何より氷室自身が自分を許せなくなる。
 ──時折、その立場を無性に忘れたくなっても…な。
 自分らしからぬ思考に、氷室は苦笑した。
 
 
 最初は自分が声を掛ける度に強張っていた、彼女の表情。だが、いつ頃からか、その緊張が消えた。
 少しずつ笑顔を見せるようになっていき、氷室が厳しく指導をしても、彼女は強い視線でしっかりと受け止めるようになった。
 見る見るうちに解れていく彼女の緊張を、氷室は嬉しいと感じた。
 時々見せる明るい満面の笑みは、とても眩しかった。
 そして、目を真っ直ぐ見て、殊の外自分を頼りにしてくれる彼女を、………愛しいと、思うようになった。
 
 
 だが、自覚した後なら尚のこと、己の感情をセーブしなくてはならない。
 そのことは十分にわかっている。わかってはいるが、しかし──抑制しなければと思う気持ちが、常以上の冷たさを伴って態度に出てしまうことも、少なからずあった。
 氷室とて、完全には感情を制御できないのである。
 それが激しい感情であればあるほどに──
 ──全く。オレもまだまだ、だな。
 氷室は再び苦笑して、溜息をついた。
 彼女のプレゼントを拒否した時のことを後悔している理由の一端は、このことなのである。
 もしも、自分が普段よりも冷たい態度を取っていたなら、彼女をより深く悲しませたかもしれない。
 そのことに引っかかりを覚えていた。また同時に、自分の至らなさを反省する気持ちも大いにあった。
 ──…それでも、結局は同じことだ…。贈答品の類は、彼女からの物であっても、受け取れない。
 氷室が教師で、彼女が生徒である今は、仕方のないことなのだ。
 事実は覆せず、事態は彼女の卒業まで、絶対に改善されない。
「…やっかいなことだ」
 小さく呟いた途端、予鈴の鐘が鳴った。
 昼休憩の終わりを告げるとともに、次の授業の準備をするべき時刻であると知らせてくれる鐘だ。
 
 氷室は、一つ息を吐いて立ち上がり、必要な教材を手にして職員室を出た。
 廊下を歩きながら、考える。
 ──いつか。
 いつか、誕生日を祝ってくれたあの時は本当はとても嬉しかったのだと、彼女に伝える日は来るのだろうか。
 来るかもしれない。来ないかもしれない。
 ──遠い先の話、か。
 数年先のことを考えるなど、鬼が笑うに違いない。
 ──それでも。せめて最後の、卒業の時にでも、本当の気持ちを彼女に伝えることができたら──


 数年先の未来に頭を巡らせながら、そう願う氷室の姿が、確かにそこにあったのだった。



終     

   

novel top
HOME