山を切り開いて作られた、広大なサーキット。
緑に囲まれた中、遠くの山々に木霊する排気音を耳にし、眩しい晴天の陽射しに目を細めて、香西ひとみはふう、と一息吐いた。
遠路はるばる、とまではいかなくても、彼女の自宅である一人暮らしのアパートから見積もれば、どんなに早くてもここまで優に二時間は掛かる。
電車をいくつか乗り継ぎ、最後はバスに揺られて、今日は読者レポーターとしてではなく一個人として、日頃お世話になっているチームの応援に来たのだ。
──オングストロームのピットは、どこかなあ?
キョロキョロと見渡して十数秒後、それらしき場所が目に止まった。
一人でサーキットに来て観戦するというのは初めてで、実の所少々不安だったのだが、見知ったメンバーとレーシングカーを見つけて、ひとみはようやくホッとして顔を緩ませた。
今日のレース観戦は、仕事とは全く関係のない、ひとみのプライベートな予定である。オングストロームの彼らが参加すると聞いて、取材予定はなかったのだが、どうしても観に来たくてしようがなくて、気持ちを抑えきれずにサーキットにやってきた。仕事絡みではないのだから、公私混同をするわけにはいかない。そう考えて、ピットに行くつもりは全くないひとみであった。
元より、チームの方々には一方的にお世話になりっぱなしで、自分は途轍もなくお邪魔になっているのでは…という不安を拭いきれないのだ。なのに、自分がここに来ていることを誰かに知らせるななど、どうしてできるだろうか?
それゆえに、オングストロームのメンバーにも編集部の伊達さんにも誰にも言わず、ひとみはひっそりとここに来ていた。
──…でも、そうだなあ。鷹島さんなら、明るく笑って歓迎してくれるかもしれないけど。
ふとそう思い、ひとみはクスリと笑った。
オングストロームの中で一番若い彼は、とても陽気で気さくな性格である。初めて会った時から、色々とひとみに気遣って、気軽に声を掛けてくれた。彼の話す内容は他愛のない日常茶飯のことが多く、しかもいろんな方向に話を持っていくので、ひとみはついていくのにいつも必死だった。インタビューとはかけ離れた話題ばかり振られて、戸惑うこともしばしばだ。
だが、だからこそ、早い時期に彼をも含めたチームのメンバーと打ち解けることができたように思う。
何だかんだと疾斗に話し掛けられ、色々と構われたりしているうちに、ひとみの心の緊張も徐々に緩和され、自然体で話ができるようになっていった。
疾斗のおかげだ、とひとみは思っているし、感謝している疾斗のために何か力になれれば、といつも考えている。
そうしてひとみが、物思いに耽っていた時だった。
「ぃよぅ!」
突然、明るい声とともに肩をポンと叩かれたひとみは心底驚き、飛び上がるようにビクッと体を震わせながら後ろを振り返った。
「オッス! 何、今日来てたのかよお前。──んで、何でこんなトコいんの?」
「た、鷹島さん…!」
振り向き様、ひとみの目に入ったのは、疾斗の満面の笑みだ。
その笑みが茶目っ気たっぷりで得意げに見えるのは、ひとみをビックリさせるのに成功したからなのだろうか。
きっとそうに違いない。
彼は、些細な悪戯が大好きなのだ。有り余る親しみが込められていると皆わかっているから憎めないし、それを理解している相手にだけ悪戯を仕掛けてくる。
疾斗は、小憎らしい確信犯なのだ。
「〜〜もう、脅かさないで下さいよっ。心臓が止まるかと思ったじゃないですか!」
「あはは、そんなに驚いた? てか、オレもビックリなんだけど。…今日来るって言ってた?」
「あ、いえ。取材の日じゃないですから。でも──」
「『でも』?」
小首を傾げて問い掛ける疾斗に、ひとみは躊躇いがちに小さく言った。
「…なんか、どうしても今日観に来たくなって…」
一瞬きょとんとした顔をしてから、疾斗はニッと笑った。
「へえ。それってさ、オレに会いたかったから? それとも走ってるオレの勇姿を拝みたかった? あ、アレだ、デートのお誘いがどーしてもしたくてわざわざサーキットまで来ちゃったとか!」
「ええ? あ、あの、ちょっと、待って下さい? それって結局、全部一緒なんじゃ…。というか、どれも鷹島さんに関係してるじゃないですか!?」
「えー。まぁそうだけど。でもそうなんでしょ〜?」
にこにこ。
屈託のない笑顔でそう言われる。
ひとみはそんな疾斗を見ているうちに、反論する気が失せてしまった。
──天真爛漫な笑顔を曇らせるのは、忍びないし。
明るさや元気を、ひとみはいつも疾斗から貰っている。
思わずつられてこちらまで笑ってしまうくらいに、疾斗の笑顔は明るくて、いつでも本当に楽しそうだ。
楽しいことばかりではない、けれどもそれらを乗り越えて笑うことのできる疾斗に、ひとみは惹かれていた。
変わらない笑顔に、ひとみもにっこり笑って応えた。
「うん。実は、そうなの。鷹島さんとお話できたらなあ、ってちょっと思ってた」
ひとみの返答に、疾斗は少し驚いたように目を見開く。
そして、何度か頷きつつ厳かに述べた。
「ウム、よろしい。ひとみチャンのお気持ちは充っ分わかりました」
と言ったところで、疾斗がスックと立ち上がった。
「つーことで! じゃ、一緒にピット行こっか」
立ち上がる時、疾斗に素早く両手首を掴まれたひとみは、引っ張られた勢いで彼と同じタイミングでピョコンと立ち上がってしまった。
「は?」
「あっちにオングストロームのピットがあるんだ。一緒に行こうぜ! その方がレースも良く見られるし、みんなも喜ぶし。それにそうしてくれると、何よりオレが、嬉しいの!」
なっ、と笑い掛けられて、ひとみもふんわり暖かい気分になった。だがやはり、少し迷う部分もある。
「…でも、私、今日は何にも言ってなかったし…突然お邪魔するのは……」
「いいんじゃねえ? サプライズパーティーとかと似たようなもんだろ。驚きと同じかそれ以上に、喜びがあるってね」
納得した? と問い掛けながら、疾斗の足は既に、ピットの方向に向かって歩き始めていた。
疾斗はひとみの手を離してはいないのだから、当然ひとみも、一緒にピットへと歩く羽目になる。
納得できたかどうかはひとみ自身疑問だったが、疾斗の言い分も理解できないわけではない。
今回は、まあいいか、と自身の迷いにケリをつけて、ひとみは手を繋いでいる疾斗に声を掛けた。
「鷹島さん。今日、何かいいことあったんですか?」
「え、何で?」
「すごく楽しそうに見えるもの。鼻歌混じりだし、ご機嫌なんだなあって」
ひとみが、教えて欲しいなぁと思いながらそう言うと、疾斗はピタリと歩を止めた。
続いて、ひとみも足を止める。
「………鷹島さん?」
首を傾げて斜め後方から疾斗を見上げるひとみを振り向かず、前を見たまま、疾斗は一音一音、殊更丁寧な発音で、言った。
「ペナルティー」
その時、ひとみの全身の血がサァッと引いてしまったのは、言うまでもない。
──お、おおお思い出した………ッッ!!
「オレさー、最近したと思うんだよねーその約束。確か十日も経ってないと思うんだけど」
未だ前を真っ直ぐ見たまま一本調子に宣う疾斗に、ひとみはだらだらと冷や汗をかいていた。
疾斗の言う通り、ほんの数日前のことだ。
「あ…あの、たか…、じゃない、疾、斗………?」
ゆっくり振り返る疾斗は、ちょっと怖い。
けれどその表情は怒ってなどいなかった。
よく見せてくれる、笑顔だ。先程と同じ。
………同じ………?
同じ、というところに、ひとみは微妙な違和感を感じた。
──まさか、今日、最初っから、私のミステイクに気付いてた…?
「ったく〜。ようやく、名前呼んでくれた。ってことは、あの約束を忘れてなかったってことだよな?」
少し苦笑混じりに、首を傾げて疾斗が問う。
「え、えーと…う、うん、完全には、忘れてなかった…みたい、ね」
えへへ、とひとみが愛想笑いをしてみても、疾斗の笑みは深まるばかりだった。
アルカイックスマイル。
そう呼んでも差し支えないその微笑み。だが、迫力がありすぎて、やはり少し怖い。
どうやらひとみの予想通り、疾斗は初めからそのことに引っかかっていたらしい。
「どうだかな〜、ホントに忘れてなかったんか? オレが言うまでちっとも気付かなかったろ。まあついこないだのことだからさ、慣れてないのもあるだろうし、少しは大目に見てやりたいけど。でも! 違反は違反だからな」
「うぅ…わかりました…」
この場合、違反を犯したひとみに非がある。
ペナルティーと称して罰を受けるのは致し方ないことだった。
そこで、ふとひとみは思い至る。
「あれ? でも、ペナルティーって言っても、どんなことするのか決めてなかったよね?」
その台詞に、我が意を得たり、と言わんばかりに、悪戯な光を放つ疾斗の目がひとみに向けられる。
「そう! そこがもうすっげー重要なの! ってことで、わかったか? オレがご機嫌な理由」
決めてなかった、ペナルティーの内容。そこが、重要。
疾斗はそう言ったのだ。
ということは、この楽しげな様子はつまり。
「どんなペナルティーにしようかな〜。ひとみがコレ以上間違わないようにするためのものだから、よーく考えてしっかり決めなくちゃいけないよなー」
「あ、あの…」
「オレが楽しいことの方が断然イイし、ひとみが本気でヤなのは可哀想だから避けたいし。難しいトコだよなぁ。うーん、困った困った」
少しも困ったようには見えない表情を浮かべ、語尾にピンクのハートマークが飛んでいる口調でそんなことを言いながら、疾斗は再びピットへと歩を進める。
再び繋がれた手は指と指が絡み合い、ひとみは何だかドキドキしてしまう。
さっきまでと異なる手の繋ぎ方には、何か意味があるのだろうか。ひとみが逃げられないように掴まえておくためなのか、それともただの偶然なのか。
考えても、ひとみにはわからない。
けれど、ひとみを前へと引っ張ってくれる大きくて温かい手に、胸が甘やかな感情と安堵で満たされるのを感じていた。
「えっと…疾斗…?」
「ん、何?」
歩きながら、ひとみの顔をひょいと覗き込んでくる疾斗の端正な顔が、間近に迫る。
照れ臭くて微妙に視線をずらしてから、ひとみは小さく呟いた。
「……お手柔らかに、ね」
「おう! 任しとけ」
疾斗は元気にそう答えてくれる。
しかし、ペナルティーはペナルティー。どういうことをさせられるのやら、皆目見当もつかない。
ちょっと想像が追いつかなくて、頭がクラクラしてしまうひとみである。
それでも。
──疾斗なら、いいんだ。私。
ペナルティーであろうが、なかろうが。
きっと何を言われても、それがどんなことだって。
疾斗の望みなら叶えたくなってしまう自分を、ひとみは知っていた。
まだ、直接言葉にしたことはない。
だから多分、彼はまだ知らない。
疾斗への『好き』という気持ちが、ひとみの中で溢れて止まらなくなっていることを。
終
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