あの人の笑顔が見てみたい。
そうオレが思うのは、変だろうか。
まあ、興味本位で『見てみたいかな』と思うのならともかく、あの人の笑顔を見てみたくてしょうがないと思っている自分は、少しおかしいかもしれない、と思う。
何故なら、あの人とオレとの関係は、言うならば単なる先輩後輩。同じ会社だとしたら上司部下。
取り巻く環境が違う。年齢が違う。立場が違う。…対等にいたいと思う心とは裏腹に。
──もし今、一番ハマっているものは何かと訊かれたら、多分同じ単語を言うだろう。
クルマ、と。
けど、ただそれだけ。
オレとあの人が親しいなんてこともない。
寧ろオレからは遠い存在の、あの人。
会話をすることも少ない。視線を交わすことも稀。
そういう浅い関係のオレが、あの人の笑顔を見てみたいと思うのは、やっぱりおこがましいだろうか。
けれど実際、あの人の笑顔を見たことのある人間がどれほどいるのかと首を捻る。
きっと、極僅かに違いない。
あの人は普段からして表情をあまり変えない。
常にポーカーフェイスで、いつも人の上に立っていて、聡明で理知的なその顔に何らかの感情が浮かぶことは、殆どない。
オレもあの人も口数は多くないし、人を笑わせる才能はおそらくゼロ。
だから当然、オレなんかがあの人を笑わせることなんてできやしないんだけど、それでもやっぱり考える。
どうすればオレは、あの人の笑顔を見ることができるんだろう。
あの人の笑顔を引き出すために、オレは何をしたらいいんだろう。
取り留めのないことに気を取られながらも、とろとろ歩いてきたオレはようやく自動販売機の前に辿り着いた。
ポケットを探って小銭を取りだし、コインの挿入口に入れようとする。
すると、ぼんやりしていたせいか、小銭はその穴にすんなり入ってくれず、地面に落下した。
運の悪いことに、この付近は自販機から坂になっていた。それも、下りの。
財布も持たずドリンク一本分の小銭しか持参していなかったオレは、焦って転がり遠ざかる小銭を追い掛けた。
(ヤバい、この先は確か…!)
排水溝だ。そこに落ちればもう終わり。ネジ付きのグレーチングで蓋をされた排水溝の中に入ってしまえば、自分の手はもう届かない。
慌てて走り出したオレは、急に出てきた目前の人の影に、反応することができなかった。
(危ないっ)
と思った時には既に遅く──
ドシン!
と見事なまでにぶつかり、結果よろけたのは疾走し掛けていた自分の方だった。
よろけてこけそうになったオレを、力強い腕で支えてくれたその人影は──
「っ……大丈夫か」
なんと。
あの人、だった。
「す、すいません…!」
ぶつかった鼻を抑えながら、とりあえず謝った。
「……いや、いいけど…。いきなり走り出すな、危ないだろう」
「あ、の……ホント、すいません。でも、それにはワケが……。っあ!」
ワケを話す時間も惜しく、オレは転がった小銭を探してキョロキョロと地面を見渡してみるが、全然見つからない。
転がる方向からしたら、あの辺にあるはずなのに、影も形もない。
消えたようにどこにも何もない。ということはやっぱり、排水溝に一直線に向かっていったんだろうなあ。
──ああオレの150円よ。さらば。
オレが肩を落として黙っていると、背後からあの人が声を掛けてきた。
「何か探してるのか?」
「…………あぁ。オレ、小銭落としたんですよ…さっき。それで、転がってったから追い掛けようとしてたんですけど……」
間に合いませんでした。
とはオレは口にしなかったけど、多分伝わったんだと思う。
俯いていたから見えてなかったけど、両肩を竦められる気配があった。
そうしたら、いきなり腕を掴まえられた。
ビックリして顔を上げると同時に、あの人はオレの腕を引っ張って自販機の前に立たせる。
何事だと思ったけど、オレの体はあの人のいいなりに動いた。
自販機まで、移動距離にして約5mといったところだろうか。
「で、どれを買いたかったんだ?」
「えっ?」
「だから、どれだ?」
「あ……えっと、コレ」
こういう展開は想像していなくて、つい問われるままに素直に答えてしまったオレだけど、この人が今何を考えているのか全くわからない。
呆然とあの人のすることを、オレは見ていた。
持っていた財布から小銭を出し、オレの指したボタンを押してドリンクを購入する。
ガコンと結構大きな音を立てて出てきた缶を、スイとあの人はオレに差し出した。
「……あの…?」
あの人の顔と缶とを交互に見る。
これって、オレにくれるってこと……なんだろうけど。
だけど、どうしてこういうことになるんだろうか。よくわからない。
オレの思ったことは、まんま顔に表れていたらしい。
なかなか受け取らないオレに、あの人は口を開いた。
「オレにぶつかったせいで、小銭を拾い損ねたんだろ?」
だから受け取れ、と。
そういうことのようだった。
…でも。その前に、オレが落としたのが原因なんだから、この人には責任なんか全然ないんだよな。
そう思うものの、落とした小銭が今日のオレの全財産だったから、せっかく言ってくれてるのに断るのはもったいない。
かなり迷ったけど、やっぱりここは。
「……ありがとう、ゴザイマス」
礼を言って素直に受け取ることにした。
「どういたしまして」
礼を言えば、どんな言葉にせよ返事が返ってくるのは、オレだって予想していた。
礼儀正しい人だから、言葉少なでもこういう挨拶のようなものは欠かさない。
けれど、まさか。
同時に柔らかく微笑まれるなんて、オレはちっとも思ってなんかなかった。
その後あの人は自分の分のドリンクを買って、あっさり去っていった。
でもオレは、その場から動くことが出来なかった。
だって、本当に見たことなかったんだ。
今まで一度だってなかった。
あの人の、笑顔。
ほんの少し口の端を上げただけで、ああいうふんわりとした優しい感じになるなんて。
あと、そう。眼差しもいつもみたいな厳しい感じじゃなくて、和らいだふうで。
どうしてこのタイミングで、なのか、全然わからないけど。あの人にとっては、普通の行為、なんだろうけど。
……どうしよう。すげー嬉しい。
不意打ちを食らったオレは、意味不明の照れ臭さと喜びを感じながら、暫しそこに佇んでしまった。
終
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