秋名山 

2006.1.3.up

 それは、秋名山と秋名湖とを一望できる最高の立地条件を兼ね備えたホテルに、拓海が自家製の豆腐を届けた帰りのことだった。
 拓海は毎日欠かさず、同じ時間帯に豆腐を届けている。もちろん今日も例外ではない。いつも通りにハチロクに豆腐を乗せ、ホテルの厨房裏で商品たる豆腐を引き渡す。
 仕事と言えばそれだけだ。
 父親からその仕事を言い渡された当初、きついと思ったのはそれが早朝であることと、毎日しなければならないことくらいで、慣れればどうってことはなかった。面倒だとは思うけれど。
 すっかり慣れきった今では、行きならば豆腐を崩さないようできるだけ早くホテルに着き、帰りならば下りを思いっきり飛ばして早く家に辿り着いて僅かでも睡眠を貪りたい──ただそれだけしか考えない。
 今日もまた、大きな欠伸を一つして、豆腐と届け終えた拓海はさっさとハチロクに乗り込んだ。
 
 ──そう、ここまでは毎朝と変わらぬ日常だったのだ。
 
 真夜中に走り屋達が集うこの秋名の峠には、道中、そこら一帯の山々の稜線や麓を展望できる広い場所がある。特に今まさに拓海の車が差し掛かるそのカーブは比較的緩やかで、かつ車が何台か駐車できるくらいの広さがあった。
 大抵の観光客はここで一旦車を止め、朝日が昇ったり夕焼けに赤く染まる瞬間の美しさに、ひととき酔いしれる。
 拓海には日常の一部に過ぎないことも、ここに住んでいない人々にとっては珍しいのだろう。
 頭ではわかっていても、こんな所でのんびりしているなんて暇な人達だなぁ、と拓海は思っていた。
 すると、珍しくも平日の今日、ポツンと一つの人影を発見。
 拓海曰くの暇人が、霧も少し出ていて朝焼けさえ見られない状況の今、たった一人いたのである。
 その人物のシルエットに、拓海は見覚えがあった。
 まさか、と一瞬思う。
 だが、見間違いなんかではない。動体視力にはちょっと自信がある。
 そこそこスピードも出していた拓海だったが、記憶に新しい白い車とその人物に、気が付けばブレーキを踏んでいた。
 そういえばつい最近も、大した理由もなくこうして車を止めたことがあったっけ、と思いながら。
 
 
 
 拓海が路肩にハチロクを寄せる。
 だが、彼は振り返らなかった。
 車を降り、話し掛けるために彼の方に向かって歩き始めても、彼は白い車のボンネットに半ば腰を掛けた姿勢で微動だにしない。
 車を停止させた音も靴が土を踏む砂利の音も、こんなに近い距離なのだからきっと聞こえているだろう。
 なのに、それさえも耳に入っていないかのように、彼はただ景色に見つめ、佇んでいる。
 身体を支えるように、両手は白のFCに掛けられており、こちらに背を向けていて。
 ゆっくりと近付き、彼の真後ろに、拓海は立った。真後ろだから当然その表情が拓海にはわからない。
 眠っているのかとさえ思うほどに動かない背中に、一つ深呼吸をしてから、声を掛けた。
 
「…あんた、こんな所で何してんの」
 
 ビクリと肩が大きく揺れて勢い良く振り向いた涼介の表情に、拓海は表情には出さず、悟った。
 本当に涼介は、拓海の気配に全く気付いていなかったのだ。
 心底驚いた顔を見せた涼介は、拓海を認識した途端、ふわりと顔を綻ばせた。
 黙って立っていればクールに見えるのに案外表情豊かな彼は、拓海の知るいつもの涼介だった。
 ”いつも”と言ってもまだ数度顔を合わせただけで、よく知ってるわけじゃない。
 
「……ビックリした。奇遇だな。お前、いつもこんな早い時間に走ってるのか?」
 涼介は、嬉しそうな笑みを浮かべながら小首を傾げて訊ねてくる。
 それに対し、拓海は素気なく答えた。
「そりゃあ、配達だからね」
 数度瞬きをした涼介は、ああそうか、と小さく呟きを漏らす。
 そこには少し溜息めいたものが混じっていた。
 浮かべていた微笑みが少し愁いを帯びているようだった。
 ──気のせい、かな。
 がっかりしたように見えた拓海の見立てが、正しいのかさえわからない。
 けれど、そのことについてわざわざ言及する気は拓海にはなかった。
 もし、またバトルをしたいなどと言われたら、それこそ薮蛇だ。
 となれば、拓海から振る話題は何もなくて二の句がつげず、押し黙った。
 自分から声を掛けたはいいものの、お互い単なる顔見知りという程度の仲だ。名前と顔以外に知っていることは少な過ぎて、会話の取っ掛かりも見つからない始末。
 無理に話し掛ける必要もないか、と拓海が無言でいると、十数秒の静寂の後、くすりと笑った涼介は再び拓海に背を向けて風景を眺め、口を開いた。
「…ここからの景色、綺麗だよな」
「そう?」
「オレは好きだな。お前は?」
「……別に。昔から変わりばえしないし」
 肩を竦めながら、拓海は答えた。
 飽きたかというとそうでもないが、身近すぎて特別に綺麗だとは思わない。
 地元の自分に聞く方が間違ってるんじゃないの、と涼介に胡乱な眼差しを向けて訴えると、首だけで後ろを振り返った涼介と目が合った。
 悪戯っぽく目を細めて微笑う涼介は、拓海の感情などお見通しといった具合で、何だかなあ、と拓海は一つ溜息を吐く。
 ──以前、涼介からのバトルの誘いは断った。
 だからもう、自分と彼が関わる理由はない。
 なのに、こういった接触がゼロにならないのも、不思議な話だった。
 けれど、狙ったのではなくてこれはただの偶然。
 拓海はいつも通りの生活をし、涼介は涼介で自分の生活があり、したいことをしているだろう。この邂逅は偶然の物であり、そこに拓海や涼介の意図が入る余地はない。おそらく、涼介の車に対する拘りが彼を峠へと足を向けさせ、それがこうした偶然の出会いを誘発しているのだと思う。加えて涼介は、拓海とバトルすることを諦めてはいなさそうだったから、それが『偶然』の頻度を上げているようにも思える。
 まさか『待ち伏せ』なんて非効率的なことは、噂に聞く”高橋涼介”ならばしない筈。
 そうして、ぼんやり涼介と目を合わせていた拓海は、先程返答を貰えなかった問いを再び口にした。
「──それで。あんたはここで何してんの」
 そんな薄着だと風邪引くよ、くらいは言いたいところだった。何せ、薄いジャケットしか羽織っていない涼介は見た目にとても寒々しい。
 峠を日夜走ることが好きな涼介なら、山の気温くらいわかっていようものだ。冬でなく夏場であってもひんやりとした空気が頬を撫でる明け方のこの時刻、霧も出ているというのに車の外で佇んでいれば身体は冷える。
 ただでさえ涼介の体つきを見る限りでは余分な脂肪の蓄積もなさそうだから、心配するだろう。人として。
「もちろん峠を走ってたに決まってるさ」
「それは、わかるけど」
「──納得できる走りにまだまだ仕上がってないんだよな…オレ的に。なかなか奥が深くて面白いぜ、ここの峠」
 機嫌が悪くはなさそうな涼介の雰囲気に、拓海は何となく安堵した。
「…ふぅん。でも、走った後ここに来てから大分経つんじゃない? 車が冷え切ってるみたいに見える」
 白状すると、往路で拓海は涼介の存在に気が付かなかった。
 その時点ではここにいなかったのかもしれないが、けれど涼介の車を見るとエンジンが切られてから相当時間が経っているようだ。
 だとしたら、拓海が気付かなかっただけで、ずっとここにいたのかもしれない、と推察するしかない。
「ああ、かもな」
 ──って…。…たったそれだけ?
 拓海は、言葉少なな涼介の答えに納得がいかず、彼をじっと見つめた。
 単に肯定するだけでなく、拓海が頷ける理由を何か言ってくれると、そう期待していたのだ。
 手を車から離した涼介は、拓海に正面から向き直ってニッと口元に笑みを浮かべる。
「オレのことが気になる?」
「や、別に」
 即答で、しかも素気なさすぎる拓海の応対に、流石の涼介も苦笑せざるを得なかった。
「……つれないな」
 まあいいか、と小さく言って、涼介はうーんと両腕を天へ向けて思いっきり伸びをした。
 
 
 やっと帰る気になったのかな、と拓海が涼介をちらりと見ると、涼介は改めて拓海を見据えた。
 にっこりと笑みを浮かべてはいるが、その眼差しは熱く鋭い。
「この前言った、片想いの話。オレは気長にいくつもりなんだ」
 真っ向から宣言されて、拓海は一瞬返答を躊躇った。
 片想いとは、先日出会った時に彼が語った、『バトルがしたい』云々の台詞群だろう。
 が、拓海は何と言われようと自分の心は決まっている。この前と変わってないし、偽る気もない。
「…………そう。でも、あんたはそれで良くても、相手は困ったりするんじゃないの」
「どうして? オレのことは気にならないって言われたのに? それが本当の事なら困ることなんて何にもないさ」
 あっさり返答されて、今度こそ拓海は一言も答えられなかった。
 気まずくなって、思わず涼介から目を逸らす。
 …本当に、彼の言う通りだ。
 本当に気にならない相手なら、困ったりしない。
 そうでないから、今自分は困っているのだ。
 特別走りたいという欲求はない。誰かと競う気も更々ない。
 けれど確かに、涼介のことを気にしている自分がここにいる。
 それが何故かなのかは、わからないけれど。
 
 主語や目的語を曖昧に濁した奇妙な会話に拓海は気まずさを感じていたが、涼介はそうでもないようで、「そうだ」と呟いて薄いジャケットのポケットをごそごそ漁った。
「ほら、これ」
「……え、あの…」
「やるよ。さっき上の自販機で買ったんだ」
 手渡されたのは、飲み物の缶。
 くれるというなら貰っておくが、これで拓海の気が変わるわけではない。
 ありがとう、と礼を小さく呟いて受け取り、ふと頭に過ぎった疑問を投げ掛けてみる。
「…あんた、”餌付け”が有効だって、もしかして本気で思ってる?」
「どうかな。でもよく言うだろ? 何事もやってみなくちゃわからないって」
 にこり、と無邪気に笑って同意を求められても、拓海は頷けない。
 だけど、何をされてもその気はないと突っぱねるだけの冷淡な対応は、涼介相手にはできなかった。
 そうすれば流石の涼介も諦める筈で、拓海に関わってくることもきっとなくなるだろうに。
 峠を速く走りたいんだと告げる涼介の漆黒の瞳にウソはなくて、シンプルで誠実に思える彼の言動から受ける印象には、マイナス要素が一つもない。
 涼介がいつもそうだから、彼と会うことが嫌ではないのだ。複雑な思いをすることになっても。
 だから拓海は、楽しそうな眼差しを向けてくる涼介に、こう返した。
「そのチャレンジ精神だけは認めるよ」
 おや、と片眉を上げた意外そうな涼介に、拓海は小さく笑って背中を向けながら、ついでにもう一言付け加えた。
「あんたもさっさと帰れば? いくら夏でも、早朝の峠を侮ったら身体壊すよ」
 最初から言いたかったことを最後に言って、満足した拓海は涼介のリアクションを待つことなく、ハチロクに向かって歩き出した。
 
 
 
 拓海の最後の台詞を聞いた涼介が、その時どんな顔をしていたのか、拓海は知らない。
 ──ちょっとだけ見たかった気もするかな。些細なことで、結構表情の変わる人だから。
 缶ホルダーには、涼介から貰った物が入っている。
 それを見て少し笑ってから、拓海はギアを入れると同時にアクセルを踏み込んだ。



終     

   

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