「あ」
思わぬ所で思わぬ人物と遭遇した拓海は、ぽろりと声を零した。
呟きはごくごく小さなものだった。
だが、相手は耳が良いのか、その小さな呟きを拾い、こちらを振り返った。
あれ、という顔を一瞬見せた彼は、すぐに好意的な表情へと変化させ、にこやかに声を掛けてきた。
「…拓海。奇遇だな、こんな所で何してるんだ?」
挨拶がてらに片手を上げて、目を細めて爽やかに笑い、近寄ってくる。
Tシャツの上からラフにジャケットを羽織り、スリムジーンズに身を包んだ彼は、長い足をスイと優雅に動かして拓海の目の前に立った。
夕刻独特の赤焼けに、彼の全身も、自分も朱色がかっている。夕陽によって作られた涼介の目元や鼻梁の陰影を見るにつけ、派手な造作ではなくても非常に繊細で端正な顔をしていることが視認できる。
人目を引く容貌だと、拓海は思う。
そのくせ、気取らない気さくな態度を示す涼介の印象は、はっきり言ってちぐはぐだ。
年齢相応の普通のいでだちをしていても、何となく他の人とは違う雰囲気を醸し出している。
言葉遣いや態度はごくごく普通だと思うのに、この人はその他大勢の人々と何かが違うと感じてしまう。
だがその理由を拓海は見出せず、少々もどかしい思いをしていた。
そんな涼介にこそ、こんな所で何をしているのだと問い質したいところだ。思いっきり。
そう思った直後から、拓海の舌はいとも簡単に滑り出した。
「それはこっちの台詞。あんたこそ何でここにいんの?」
淡々とした口調は、拓海の元々の言い方だ。余計なことはなしにして、言いたいことだけ用件のみをそのまま口にする。
人によってはそれがひどく冷たく聞こえるらしいが、涼介にとってはそうでもないらしい。
涼介はくるりと瞳を転がして上を見、次にはまた拓海へと視線を向け、ひょいと肩を竦めて笑う。
「んー。別に? 秋名の峠を走ってたくらいかな。ついさっきまで」
「……ふうん」
じゃあ、ここにいるのも道理だね、と拓海は思った。
ここは丁度、拓海がバイトをしているガソリンスタンド付近のコンビニ前だ。
そしてガソリンスタンド前の道路を真っ直ぐ行けば、秋名の峠に行ける。
その大きな国道に面しているコンビニの駐車場に、目立つ白いFCと、目立つ青年。二つが揃えば、否が応でも目に入る。
拓海の進行方向にあった二つに、拓海が気付かないわけがない。
バイトを終えて帰り道にあるこのコンビニで、ちょっとした暇つぶしに雑誌の立ち読みでもしようかと思っていたところだった。
何の気無しに涼介に視線を合わせると、彼はやっぱり、楽しげな表情で拓海を見ていた。
──何が、そんなに面白いのかな。
拓海にはわからない。
自分と話すことが楽しいというわけではないはずだ。何しろ自分が話し下手なのは、拓海とて重々承知しているのだから。
だったら、先程秋名の峠を走ってきたその楽しさの余韻が残っているから、なのだろうか。
──そうかもしれない。
それなら納得できる。
ここ渋川は、涼介の地元ではない。だから秋名の峠を飽きるほど走ってはいないだろう。走り慣れない峠なら、いくら走っても飽きないし、攻略のしがいがあるってものだ。
「ねえ、そんなに楽しい?」
不思議でならなくて、拓海は涼介に尋ねた。
「え?」
「あんたいつも楽しそうに見えるから」
「…楽しそう、か?」
「うん。だからそんなに峠走ることが楽しいのかな、って」
思ったことを正直に言うと、おかしそうに涼介がくすくすと笑う。
「……オレ、何か変なこと言った?」
「いや、変じゃないけど。でも、お前ってわかってねえよな、ホント」
言いながらも、涼介のくすくす笑いは止まらない。
楽しそうなのは良いことだ。笑顔を見るのも悪い気はしない。
だが、何がそんなに涼介のツボに入ったのだろう。
こんなに笑う人だとは、拓海は正直思わなかった。
「…………変な人だよね、あんたって」
首を傾げてボソリと拓海が言うと、それはないだろ、と涼介は何とか笑いを収めて反論してきた。
「変なのはお前の方だろ、拓海」
「…何でオレが」
ムッとしかけた拓海に、涼介がまあまあ、と宥めに入る。
「峠走るのは確かに楽しいぜ。だからオレも、中里といろんな峠でダウンヒルアタックして競ってるわけだしな。でも、何でオレが…オレ達が最近秋名にしょっちゅう来てるのか、お前全くわかってないだろ」
「……秋名を走り慣れてない分、走るのが楽しいってことなんじゃないの」
「当たらずとも遠からず、ってとこだな。それじゃせいぜい五十点ってトコだ」
──正解は何だと思う?
上目遣いでニッと意味有りげに口元に笑みを刻む涼介に、拓海は答えられなかった。
「…さあ」
「少しは考えろよ」
「考えても答えなんかわかんねーし」
考える素振りすら見せずに正解を無言で要求する拓海の態度に、涼介は苦笑し、呆れたような溜息を漏らした。
「ったく。考えなくてもわかるだろ、お前なら」
そんなことを言われても、わからないものはわからない。
拓海が黙秘を保っていると、それをどう思ったのか、涼介は時を置かずに答えた。
「秋名に、神がかり的なドライビングをするヤツがいる。オレはそいつと走ってみたい。──バトルがしたいんだ。ものすごく」
自分に真っ直ぐ向けられる漆黒の瞳が、段々熱を帯びてくる。
その眼差しが眩しくて、拓海は目を伏せた振りで視線を外した。
こんなふうにラブコールをされるとは思いも寄らなかった。
「…へえ、そう」
「そ。未だ片想い中で、ガンバってるとこ」
急におちゃらけて言う涼介のその台詞に、拓海はプッと噴き出した。
「何ソレ」
言いながら、バトルの申込をされなかったことに拓海は安堵していた。
涼介には悪いが、今の所その気にはなれない。
きっとそれがわかるから、涼介は拓海を無理に口説こうとしないのだろう。
拓海の意思を尊重してくれているのは明らかだった。
──まいったな。
気遣われればそれだけ絆されそうになる自分に内心苦笑して、拓海はさっさとこの場を立ち去ることにした。
「じゃ、オレ帰るよ」
「ああ。オレなりに頑張ってみるさ」
そうして向けられるのは穏やかな瞳と爽やかな微笑み。
突然、あ、と思い出したように声を発する涼介に拓海が首を傾げると、ポーンと放られる物体が一つ。
条件反射で受け取った拓海に、にこやかに涼介が放った言葉は、こうだった。
「忘れてた。それ、やるよ。──因みに、お前に餌付けって有効?」
──いきなり『餌付け』ときたか。ってかあんた一体何考えてんの。
呆れるけれど、笑ってしまう。
質問には応えずに、受け取るだけ受け取って、バイバイと拓海は手を振った。
多分、笑った顔はばっちり見られてしまったことだろう。──餌付けが有効かどうかはともかくとして。
「……だから、変だっての」
何日振りかに偶然会った涼介は、相変わらず変な人だと拓海は思った。
けれど、変なのは、彼だけではない。
おかしいだろう、どう考えても。
二度か三度、数分の会話しか交わしたことのない相手のことが、こんなに気になるなんて。
たった数分を、とても楽しいと感じていただなんて。
他人に感心を持つ事自体が稀な自分が、一体どうしたことだろう。
わからない、と思いながらも、自覚無く頬は緩む。
そうして拓海は、浮き足立つ心を持て余しつつ、貰ったペプシ缶の蓋をカシュッと開けた。
涼やかなその音に、ふと、彼の顔が思い浮かんだ。
終
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