初対面 

2005.11.4.up

 人生初のバトル──それは飽きるほど走っている峠で行われ、毎朝その峠をかっとばしている当人は当然手に汗握ることもなく、あっけなく終了した。
 この場合の『バトル』とは車同士で速さを競い合うことを指す。いわば公道でのレースのようなものだ。
 
 藤原拓海は実に、バトルそのものどころか峠に行くことさえもが面倒で仕方がなかった。バトルという言葉に含まれる意味すら、友人のイツキに聞きかじっている程度のことしか知らなかったし、今まで興味を抱くこともなかった。当然、バトルがしてみたかったわけでもなくて、峠を走るのにも飽き飽きしていた。毎日毎朝、湖畔のホテルへ豆腐を届けるために往復するその道は、目を瞑っていても走れるんじゃないかと思うくらいにコースを体で覚えている。そんな身近な峠なのだから、そこでバトルをしろと言われても、少しも心は動かない。
 それでも尚、そのバトルは拓海にとって、しなければならない事項だったのだ。
 何故ならその勝負に勝つことこそが、車を借りる条件だったから。
 今回はどうしても借りなければならない理由がある。とある女の子とのデートで海に行くために必要だった。自分の彼女ではないが、少し気になる女の子──しかも周囲からモテている彼女からの誘いだ、拓海も悪い気分ではなかったし、無碍にしたくもなかった。
 けれど、藤原家に自家用車は一台こっきり。豆腐の配達に使用されている自家用車のハチロクをプライベートで週末に使いたくとも、保護者である父親の許可がなければ、私用で車を使うことは許されない。
 今週末に使いたい旨を拓海が主張すると、案の定あっさり却下されて、拓海は苛立ちを抑えきれなかった。大体、父親の仕事であるはずの早朝の豆腐配達を何年も前から自分に任せておきながら、滅多にないこういう機会でさえ素直に融通を利かせてくれることはない。なんてケチくさい親父なんだ、と心の中で文句を垂れた。
 だが、今回は運が良かった。暫く拓海がそっぽを向いて拗ねていると、条件付きで車の使用許可を貰った。
 それは、今まで拓海に出されたことのない特殊な条件だった。
 父親曰く。以前に抜き去ったGTRに、いつも配達で通るあの峠でバトルしてもう一度勝て、と。
 もしも勝てばガソリン満タンで車を週末貸してやる、と言われたのだ。
 女の子とのデートのために車を使いたかった拓海は、一も二もなくその条件付きの提案に飛びついた。
 
 
 そうして向かった初めて見る異様な峠の情景に、拓海は少々驚いた。
 夜の峠は外灯が限りなく少なくて、暗い。なのに人がたくさんいて、車の走るコースや車を眺めているのだ。品定めでもするかのような熱心な眼差しで、興奮気味のその様子はこれから起こる何かを期待して待っている感じだ。だが、本当の所、彼らが何をしにここにやってきているのか、拓海には見当もつかない。
 ぼんやりとそんなことに頭を巡らせながら、おそらくスタート地点であろう場所に辿り着くと、イツキがいた。
 イツキは何やら喚いていたようだったが、イツキも含め周囲の状況など拓海には関係ない。何しろ、今日のバトルに勝たなければ今度の海でのデートは実現不可能となる。
 だから、周りのことなど全く気にすることなく、拓海はバトルを始めた。
 意識は、バトルに勝利して車を確実に借りることのみに囚われていたのだ。
 ちゃんとした目的があって来ているのだから、バトルだろうが何だろうが負けるつもりは毛頭ない。
 そうでなくたって、負けることは大嫌いだ。やるからには、勝つ。
 言葉を操るのが得意でない拓海は、不言実行とばかりに無言のまま、スタートの合図と同時にハチロクを発進させた。そして、数あるポイントの中、狙っていたコーナーでGTRを抜いて勝ちを得ると、さっさと帰途に就いた。
 
 バトル後、拓海はふと、先程のことを思い出していた。
 前を走る車を抜いた時、ほんの少しだけ、爽快感を感じた。気分が高揚する、というのはこういうことなのだろうと何となくわかった。ただ前の車を抜くのではなく、勝負と銘打って抜くのとの違い、だろう。
 これは、今まで自分の中で生まれたことのなかった感情だ。
 ──配達の帰りに一人で峠を下る時よりは、面白い、かもね。
 そんなふうに思った。
 
 
 帰途にあり、まさに先程のバトルのことを思い返していた矢先だった。
 拓海が丁度町を走り抜けていたその時に、誰かの合図で車を止められたのだ。
 止めたのは、高橋涼介という男だった。
 
 変な男、というのが、正直な拓海の印象だ。高橋涼介に対しての。
 急に呼び止められて止まらなければならない理由などどこにもなかったが、何故か拓海は無視することなく、ブレーキを踏んでいた。
 ──オレには用なんかないけど、向こうの用が何なのか、気になるし。
 ただそれだけのことだ、と無意識に言い訳をしていた。
 そして、そっと、気付かれないように横目で隣に佇む男を盗み見る。
 この男、確かさっきは峠にいた。ハチロクとGTRのバトルを見ていた筈だ。なのに今は拓海の隣にいる。
 ということは、拓海が峠を下った直後に、自分を追い掛けるようにして下りてきたのに違いない。町中では拓海とて車を飛ばしたりしないが、峠の下りでは遠慮無くアクセルをベタ踏みしていた。だから、この男が拓海の先回りをするには、自分と同じように峠の区間を相当のスピードで下りなければならない。
 今、拓海の目前に男が立っていることこそが、拓海の想像通りであることを証明していた。
 興味をそそられる物事が極端に少ない拓海には、男の考えがわからなかった。
 きっとその男は、拓海の想像通りに動いた筈。だが、彼がそうした理由は一体何なのか。
 行動そのものもわからないし、動機もまるで思いつかない。
 ──訊ねたら答えをくれるのかな。
 そう考えた時には、口から台詞が出ていた。
「もう下りてきたの?」
 率直に問うた拓海に、男はふっと曖昧な微笑みを浮かべた。
 その顔を見て、ハンサムな男だなとまず思った。
 それよりも前に、拓海が車を止めた途端、真っ先に渡された缶ジュースを見て、初対面の人間に奢ってくれるなんて親切だな、とも思ったけれど。
 俯いて手の中にあるペプシの缶を見つめ、次いで再び隣の男へと目を向けた。
 男は、面白そうに拓海を見ていた。
 ハンサムで親切な男は、拓海に興味津々だというのを隠していない。好奇心一杯の視線は、拓海にとって初めて味わうもので、わけのわからないむずがゆさを感じる。
 そうして短い挨拶のような会話の後、彼は早速誘ってきた。
「なあ、オレとバトルしないか?」
 台詞を耳にして、拓海は奇妙な感覚を覚えた。
 失礼ながらも、マジマジと男を見る。
 変な男だ、と本気で思ったのはこの時だ。
 端的で単刀直入な彼の会話のテンポは、拓海も嫌ではなかった。むしろ好ましい部類に入る。だが、話の内容は残念ながら好ましくも何ともない。
 拓海は好きで車を運転しているのではない。強制的に運転をマスターさせられ、豆腐の配達のために毎日毎朝走っているから峠の下りは速くなった。それは単に早く家に帰りたかったから速さを求めただけのことで、敢えて自発的な意思で峠を速く走りたい、と思ったことはない。運転したいと思ったことも、車を好きだと思ったことも、一度もないのだ。
 まして、バトル形式で誰かと競い合うのは今晩が初めて。
 それも、父親に仕向けられたからであり、自分にとって美味しい条件がなければ峠に来たりしなかった。
 目前の男からバトルの誘いを受けても、全く興味が湧いてこない。予定が空いていたとしてもバトルする気はない、というのが拓海の率直な意見なのである。
 
 拓海が飾らない言葉で本心を端的に告げると、男も無理は言わなかった。意外にも、あっさりと引いてくれた。…飄々としていたから、諦めてはいなさそうだけれども。
 多分、拓海に断られることを、男は初めから想定していたのだろう。
 だが断った後も興味深そうに拓海を見るその目は変わらなくて、拓海が背を向けてからも、男の視線は感じられた。
 
 ──本当に、変わった人。
 
 さっさと家に帰ろうとハチロクを発進させたが、ステアリングを握る拓海の意識は未だ、待ち伏せしていた男に囚われていた。
 あの男もきっと今は、拓海と同様に家路を辿っているだろう。拓海から色好い返事を貰えないまま。
 返事を翻す気持ちは、少なくとも今の拓海にはない。再び誰かとバトルする気もない。だから、今後あの男と会う機会もおそらくない。
 けれど、男の印象は強く残っていて、忘れっぽい拓海の心の一部を占領していた。たった数分の間にだ。──印象の強さでは、拓海の中で誰にも引けを取らない、変わった男。
 モテそうな人なのにな、というのは関係ないとしても、車が好きでレースの真似事を峠でしていて、それなのに車に興味のない自分なんかとバトルしたいと、彼は言う。
 感じの良さそうな人だ、とは思った。けれど今はそれだけだ。
 なのに、あんなふうに、車を運転できるという共通項が拓海にあるだけのことでああも親切な態度を示されると、拓海の方が戸惑ってしまう。真っ直ぐな好意で以て接せられたら、邪険にできない。あの男に下心がないと直感でわかるからこそ、素気ない態度もしにくい。
 正直、困る。
 もう、次の機会はなさそうだから、いいけど。
 
 そう考えた瞬間、拓海は苦笑した。
 おかしいのはさっきの男だけではない。自分もだ。
 バトルに勝って、車の使用許可もガソリン満タンも確約されているのに、デートのことではなく先程短い会話を交わした男のことを考えている。
 そして次に会う機会がないことを、残念だと感じているなんて──
 
 そんなわけのわからない思考を払拭すべく、頭をぶるりと振って、拓海はステアを強く握った。



終     

   

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