『…涼介さん』
『ん?』
名を呼べば、彼はいつも首を傾げて振り返る。
絵に描いたような柔らかい微笑みを、口元に淡く浮かべて。
彼が振り返ってくれるその度に、綺麗な顔だと拓海は思う。
彼の名前に含まれた字の通りに、いつでも涼やかな細面。
どんな角度で見ても欠点が見つからない、一つ一つの造作が整っている容貌。
『眉目秀麗』や『端正』──日常生活の上では使用頻度の限りなく低いそんな言葉は、実際にはこういうことを表すのに遣うのだろう、と拓海は思う。
本当に、彼は綺麗で格好が良い。
一番初めに"高橋涼介"という人物を自分が認識した、あの秋名でのバトル。その後に改めて涼介を間近で見た時に『かっこいい』と思った感情は、あれから随分経つというのに、拓海の中で少しも薄れることがない。それは、とりもなおさず、涼介の容貌だけではない色んな部分にも惹かれているという証拠だった。どちらかというと飽きやすく、忘れっぽい自分の性を、拓海は自分なりに理解している。だから、今も惹かれている事実は、つまりは彼個人に惹かれている。そういうことだ。
自分は言葉を知らないから、彼が外見だけの男ではないとわかっているのに、『綺麗』と『かっこいい』以外の表現が思いつかない。
それが少し、自分でも歯痒かった。
知れば知るほどに、内面もまた同様の印象が強く、鮮烈だと思う。
単純に綺麗なんじゃなくて、言うなれば──濁りがない。
例えるのなら、色ならば透明。向こう側が透けて見える、淡色か無色。
彼は医学生、つまりまだ学生だ。とはいえ、世の中の甘いや酸いを、涼介自身多少はそれなりに体験していることだろう。拓海が知る由はなくとも、誰にでもあるように彼には彼なりの葛藤があり、悩みがあり、苦労があるはずで。………そして時には、意にそわぬ状況下で気持ちの伴わない行為を強いられ、歯噛みをすることもきっとあるだろう。
昔も今も。これからだって、数え切れないくらいあるに違いない。誰だって、いくらでもそんなことを体験する。
だが、彼の心が侵され、病み穢れるということはないのだ。
──何においても、穢されない。
あるいは、穢されていても尚、穢されていないように見えるのか。もしかしたら、そう見せかけていると言うべきなのか。
彼の精神力の強さが穢れをはね退けているのか、もっと他の何かがあるのか。
真実がどれなのか、拓海には見当も付かない。
けれど、その鋼のような意思こそが、涼介の強さの秘訣なのかもしれないと、拓海は思う。
とにかく、滲み出る涼介の強さは、誰もが惹かれ、憧れるものの一つだ。
そして、己の行くべき道をまっすぐ見つめ、これしかないのだと前を見据えて進む彼の姿勢──
涼介のそういうところが、潔くて、綺麗で。
拓海だけではなく、万人の人の目にそう映るはずだ。
やることなすことがスマートで、どこもかしこも綺麗尽くし。
見た目も格好良くて、中身も清冽。
他にふさわしい言葉はないように思えるほど──
だから、なのだろうか。
そんな彼を、拓海はこの上もなく愛しいと感じる。
そして、また。
…憎い、とも思う。
いつも、綺麗に微笑む彼が。
完璧なように見えて、案外、脆弱な部分を持ち合わせている彼が。
余裕をかまして、全てを悟り、いつでもあらゆるものを見通している"振り"をする彼が──憎らしい。
どんなことがあっても、まるで何事もなかったかのように、屈託のない笑みを零す。
柔らかに、拓海に向かって小さく微笑む。
今も。
先程までの行為や感情を、微塵も滲ませていない。
優しげに微笑んで、拓海を見ている。
そう。こんな時は、特に──
根底から、突き崩したくなるのだ。
***
やっと息が整い始めた涼介の耳朶を、拓海は唇でそっと銜えた。
まだお互いに息が少し弾み、体温も熱いままが、耳の表面温度は他の部位と比べて幾分か低い。
ひんやりとした柔らかな感触が殊の外心地よくて、拓海は舌を伸ばし、ちろちろと舐めた。
そして軽く歯を立ててみる。噛むのではなく、そうっと歯を当てるくらいの感覚で。
すると、その硬い感触に、涼介の肩がピクンと震えた。
即座に返る反応に、拓海は嬉しくなって、クスリと笑って耳元で囁いた。
「…涼介さんて、この辺りの感度、すげーいいですよね…」
同じく敏感な首筋に触れるだけのキスを落とし、跡の残らない程度に軽く吸うと、再び涼介の身体は小さく跳ねた。
だがこれしきのことでは、涼介は声を漏らさない。
唇を噛まずとも、息を殺し、口を閉ざすだけで堪える。
言葉を綴るのはいつも、快感の小さな波をやり過ごしてからである。
そうやって、体裁を繕うのだ。
「………おい。ちょっと待て………、また、やるつもりなのか?」
溜息が混じる涼介の掠れ声、そしてやや咎めるような口調に、拓海の欲望は膨れ上がる。
…掠れた低い声音が扇情的で、それがさらに拓海を煽る。涼介が無自覚なだけに、よりそそられる。
涼介さんには言っても理解できないだろうな、と拓海は小さく笑った。
「嫌ですか…?」
彼の耳元に呟きと熱い吐息を落としながら、拓海は涼介の腰骨を宥めるように手のひらでなぞり、中心に息づく欲望の証をやんわりと握った。中途半端に熱の残る萎えたそれをやわやわと揉みしだくと、いとも容易く硬度を取り戻す。
熱く脈打ち、勃ち上がり始めたのを確認してから、今度はその根本にある袋を掌で弄んだ。
拓海の手が動く度に、快楽に体を支配された涼介の腰はビクッと跳ねる。
「…ッ、藤原…っ、本気かお前っ………」
涼介は、抗議の意味をたっぷり込めて、拓海をきつく一睨みする。
効果がないと承知の上で睨んだ涼介だったが、案の定、拓海は怯むことなくその視線を受け止めた。
怯むどころか、どこか面白そうに眺めている瞳が、しっかりと涼介を捉えていた。
「本気ですよ。…いいでしょう? 涼介さんだって、本気でイヤだとは思ってないみたいだし」
──本気で嫌だって言われたら、オレだってこんなことしませんよ。
暗にそう告げる拓海の瞳に、涼介の顔は朱に染まった。続いて更にきつく鋭い目つきで拓海を斜睨みしたが、閉じたその唇からは何も発せられることはなかった。
それは、即ち彼なりの肯定だ。『本気で拒む気はない』──そういう意味だ。
涼介の控えめな主張に、拓海は内心ほくそ笑む。
こういう反応を、期待してはいたのだ。
…拓海だけが見ることを許された、涼介の姿や表情。
拓海を睨みながら、涼介の瞳の奥底には、この行為の先を求める焔が見え隠れしている。己の体の欲求を知っていて、尚もそれを言おうとしない。矜持、理性、誇り──そういった類のもので、涼介は抑制しようとしているのだ。体の奥から這い上がってくる、劣情を。
表情や態度から、拓海にはそれが一目でわかる。
涼介の頬は紅潮し、いつもより数段色っぽい。欲望を抑えようとして、けれど完全に自分の中から完全に排除できない。そんな今の状況ゆえに立ち上る、色香がそこにある。
だが。
これだけでは、拓海は全然満足できないのだ。
全然、足りない。
本当の所は──
体裁を取り繕ったその仮面をひき剥がしたい。
理性も思考も失うほど、快楽に溺れる彼の姿が見たい。
何も彼を貶めたいわけじゃなくて、ただ。
飾りも何もない、素の"高橋涼介"を知りたい。
そして、もっともっと、感じたいのだ。
全てのしがらみをとっぱらった"高橋涼介"を。
今この瞬間だけでも、自分を必要としていると。
自分だけを欲しているのだと。
そう信じさせてほしいのだ──
.....続く
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