暖かい空気が、やや長くなった漆黒の前髪を、そして頬をふわりと撫ぜる。
晴れ渡った空に、乾いた優しい風が、とても心地よい。
…昨日までは、ひんやりとした風にハタハタとなびく薄いコートの前を、手で閉じていたのに。
──もう、春も終わりか………
目の前に、花弁が散ってすっかり葉に変わってしまった桜の木を見つけ、涼介はそっとため息をついた。
* * *
春は、出会いと別れの季節だ。
人によっては、始まりでもあり、終わりでもある。
人の思いに関わらず、せき止めることのできない時間の流れが、人を縛りつける。
良きにつけ悪しきにつけ、何らかの形で、区切りをつけなければならない時季なのだ。
…もちろん、涼介も例外ではなかった。
ポケットに忍ばせている携帯を、手で探る。
そのままゆっくりと取り出し、画面を眺めた。
………そこには、着信履歴の表示。
よく見知った相手からのそれ。
涼介は目を細め、その文字を愛しげに見つめた。
携帯を手にしたまま、掛けてくれた相手への対応をどうするべきか、迷う。
今掛け直すか、それともまた後で掛けるか。あるいは、もう一度相手から掛かってくるのを待つのか──
すると突然、着信音が鳴り響いた。
何も考えず、涼介は反射的に通話ボタンを押した。
「…はい」
『涼介さん? …あの、オレ…藤原です』
彼独特の口調と低い声を聴いた瞬間、心が喜びに震え、その奥に灯が灯った。
小さく、密やかで、けれどほんのり暖かくて明るい灯火。
それを自覚した涼介は、相手に気づかれないほどの細い吐息を、一つ漏らした。
「ああ…、そういや電話くれたんだよな………。…で、どうした? 何か、用か?」
『………』
優しく問うたつもりなのだが、何故か、彼からの返事が来ない。
「…藤原?」
『………涼介さん…』
やっと返ってきた声は、とても小さかった。
「うん?」
『…涼介さん………』
自分を呼ぶ彼の声が掠れて、囁きめいていた。
単なる呼びかけではない、想いのこもった深い声音。
そんな声を耳元で聴いたら、彼が傍らにいないことがほんの少し切なくなってきて。
涼介は、次の言の葉を飲みこんだ。
…彼へと向かう己の想いは増すばかりだということを、彼はわかっているのだろうか。
きっと、わかってはいないだろう。無自覚だからこそ、こんなふうに無意識の言動で以って、涼介の心を揺さぶり続けるのだ。
逆に黙り込んでしまった涼介に、拓海は再度、囁きかける。
『涼介さん………オレ…』
そこまで言って、一瞬躊躇った後、呟くようにポツリと言った。
『…逢いたい。今…すげー涼介さんに、逢いたい………』
途端、ドキッと涼介の心臓が大きく跳ねる。
逢いたいと、彼にはっきり言われたのは、これが初めてだ。
今まで一度も、何をしたいのかどうしたいのか、直接訊いたところで、涼介に言ってはくれなかった。
初めて言ってくれたその言葉が嬉しくて、涼介は、口元に微笑みを浮かべた。
──いつもは何にも言ってこないあいつのこの台詞は、まるで…甘い睦言みたいだな………
そんなふうに思いながら、言葉の余韻に浸っていると、即座に彼の謝罪が、早口に携帯電話から聞こえてくる。
…きっと、彼のことだ。言ったことを後悔したのだろう。
何かの本音をポロッと言った直後に、慌てて謝って前言撤回したりする所もまた、彼らしい。
電話越しにでも伝わってくるリアルなその様子がまた嬉しくて、涼介はクスリと笑って彼に応えた。
「………藤原、そう何度も謝るなよ。こっちの立場がねえだろうが」
『え………あ、すいません…』
「ほら、また」
指摘して一頻りクスクス笑ってから、一呼吸分ほど区切り、携帯を握り締める。
「──オレも、な…」
『…え?』
「オレも、今………藤原に、逢いたいと思ってた」
想いの丈が少しでも伝わるように、と願いながら、涼介はそう言った。
この言葉に、彼がどう出てくるのか。
今からの予定はそれ次第なんだがな、と、少し浮き立つ心を抑えて、彼の返事を待った。
…それにしても。
”逢いたい”だなんて。
ただでさえ連絡不精で言葉足らずな彼からこんな台詞が聞けるのなら、そう頻繁に逢えないのも、場合によってはいいのかもしれない──と。
この時の涼介は、現金にも、そんなことを考えていたのだった。
終
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